(4)
誰かに呼ばれた声を、確かに耳にしたような気がした。
振り返って辺りを捜索してみても、そこにはよく知る風景が広がっているだけだった。
近寄りがたい屋敷。瑞々しく生い茂る草木。崖下の陰鬱とした街──。
次に瞬きをしてまぶたを持ち上げたとき、目の前に屋敷はなかった。
代わりに一戸建ての家があった。
私はその家の庭先に立っていて、そこから家の中の様子をぼんやりと眺めていた。
窓ガラスの向こう側で動く人の影に、思わず息をのむ。家の住人たちは私のことに、全く気づいていないようだった。ひょっとしたら私の姿は彼らには見えていない可能性がある。
食卓を囲む彼らは、全員がその顔に笑顔を湛えている。この家の主だろう男も、その男の妻だろう女も、彼らの息子だろう男の子たちも。食事中はずっとその表情が曇ることはなかった。
幸せそうな家族だなぁ、と心底から思う。彼らが見知らぬ他人であれば、私はこんな風な感想を持たなかったかもしれない。
先程からすこし胸が痛むことには気づいていた。けれど彼らを見ていると私の顔は、同じようにつられて笑ってしまうのだ。
突如、また場面がきり変わった。
視界がぐらぐらと揺れはじめて、先ほどの仲睦まじい家族ひとりひとりの顔に、鉛筆で間違いを黒く塗りつぶすような斜線が引かれていく。
彼らの顔が完全に見えなくなると、今度は暗くて深い、無感動な闇に、あたりは包まれてしまった。ここにはもう、生きている者はいないのだ。
だんだんと心細い気持ちに心が支配されていく。
さっきのあたたかい場所へ戻りたいと、つよく願う。けれど、その方法を私は知らないのだった。
しばらくして、また名前を呼ばれた。それは優しい母の声のようにも聞こえたし、騒がしい弟たちの声のようにも聞こえた。果たしてどこから呼ばれているのか、見当もつかない。私はただ真っ暗闇のなかを途方にくれて、視線を四方に泳がせるだけ──。
声は次第に私の耳元で、おおきく響いて、鳴る。
「山田」
今度はとてもはっきりとした発音だった。
たちまち、私は覚醒した。
声は母でも弟たちでもない。全くの他人が発した、恐ろしいほどに醒めた声。
気づいたときには手遅れだった。恐る恐る顔をあげると、目の前には眉間にしわを寄せ、冷酷にこちらを見下ろす男がいた。
ここはどこだろう。
男の視線から強引に逃れると、私は二、三度目だけですばやく左右を確かめた。すぐに見慣れたセーラーの紺襟と、どこか威圧的なまっくろの背中が目にとまる。それらはマネキンのようにじっとして、息を潜めている。この場にいる者全員が、私とあと一人を除いて、空気と同化しているように思えた。私の前に座る彼女も、両隣に座る彼らも。自分に火の粉が降りかかるのを危惧してか、己の存在自体をなくそうと必死だ。
この状況を理解すると、今さらになって私は、しまった、と頭を抱えた。前に立つ男の顔をもう一度見上げては、ただちに姿勢をしゃんと伸ばす。男は無表情を崩さないままだった。しかし、だんだんとその口元がにやりと緩んでいく。どうやら男は、私に怒号を落とす機会をずっとうかがっていたらしい。その男の魂胆に、たちまち虫酸が走る。
いつから授業は中断されていたのだろう。今やクラスメイトの視線は、私と男の二人だけに集中してしまっている。相変わらず彼らの一人として動きはなく、気配だけで私たちの動きを察知しているようだったが。
男の視線に耐えられなくなり、またも先に目を逸らしたのは私のほうだった。すると、それが合図となってか、男は低くうなるような声を出して言った。
「山田ァ、俺の授業で居眠りか。たいした度胸だな」
男が口を開くと、クラスの雰囲気は一気に凍りついた。不気味な静寂があたりを包んで、誰ひとり、音を立てることを無意識に控えようとする。私は咄嗟にクラスのみんなに頭を下げたい気持ちになった。
不甲斐なくも寝てしまって、本当に申し訳ない! よりによって私も、どうしてこの男の授業で──。
中年に特有のぼってりとした体躯に、ところどころ白髪のまじった剛毛な黒髪。細い目はいつもどこかを睨んでいるような印象で、口のまわりは無精髭で覆われている。今年度から赴任し、私のクラスの現代社会を担当する支倉孝志は、一言でいえば、とても陰険な教師だった。
──この教師の授業で居眠りをすることは、自殺行為に等しい。
それをみんなが戒めとするようになるまで、そう時間はかからなかった。彼の授業を数回受ければ、嫌でもすぐにわかる。この男の授業はいつも緊張と悲嘆の連続だった。
初めてそれが行われたのは、クラスには必ずいるであろう、お調子者で目立ちたがり屋な彼が、支倉に発した何気ない一言からだった。
「先生、彼女できたことないだろー」
その日、課題を忘れたクラスメイトが支倉に「女と遊んでばっかいるからだ」と小言を言われて、ムッとなって言い返したのだ。少なからず悪意をこめて、彼は教師を揶揄した。その時は何人かが彼と一緒になって、支倉を笑ったように思う。
教室は授業を中断されてなんとなく緊張感を失い、騒然としつつあった。
そんな中、支倉がクラスメイトの机まで怠そうに近寄っていくのを私は見ていた。みんなは支倉の行動など気にも止めず、各々で私語すら始めている。
彼の席は前から二番目だった。その周辺の生徒だけが、私も含め、異様な緊張感にあることを察しつつあった。
ついに支倉に見下ろされたクラスメイトは、それでも屈せず対峙する姿勢を強固にしている。私はハラハラしながら、その様子を見守っていた。
つかの間、二人のにらみ合いは続いた。
先にその均衡を崩したのは支倉のほうだ。支倉は徐に彼の耳元に顔を近づけると、何かを囁いた。その後、男は何事もなかったように壇上へと戻っていった。
意外とあっさりした幕切れだったな、と一波乱あることを予想していた私は、男の行動に拍子抜けした。けれど、次にクラスメイトの顔を見ると、彼は魂を抜かれたみたいに唖然としている。
その事態にクラス中が気づき始めたのは、もう少し後のことだ。
再び教壇に立った支倉は、中断されていた授業を平然と開始した。男のぼそぼそとした声が、地球温暖化の原因事項を読み上げていく。教室はだんだん普段の授業風景に戻ろうとしていた。ただ一人を除いては──。
突然、彼が勢いよく立ち上がった。彼は教壇の男を信じられない形相で睨みつけていた。目をこれでもかと見開き、口は不自然に半開き、額は玉のような汗が吹き出している。
支倉はそんな彼を一瞥したが、それ以降は無視してただ淡々と授業は進められていった。教室の中は奇妙な雰囲気に支配されていた。立ち尽くすままの彼。それに無関心の教員。どうすればいいのかわからないその他のクラスメイト。
不自然なほど静まり返った教室で、教師以外は物音を立てることも憚られ、そのうち息を殺してその異様な空気に耐える羽目になった。誰もが授業の終わりをはやくと祈ったはずだ。とにかくこの訳の分からない状況から脱したかったのだから。
結局その状況から解放されたのは、授業の終わりを告げる鐘が鳴るのと同時だった。私たちは授業時間の半分を、その特異な空間で過ごしたのだ。そして支倉が立ち去ったのと同時に、ようやく緊張は解かれた。
教室の外から、徐々に喧騒が近づいてくる。それに伴い私たちも騒ぎの中に戻ろうとしていった。先陣を切ったのは未だ立ちっぱなしのままだったクラスメイトの友人たちだ。
「おい、大丈夫か?」彼の元に駆け寄った一人が心配そうに訊く。訊かれた彼はそれでも無言のまま、仲間の顔を見れずにいた。そして突如、彼も支倉と同様に教室を飛び出していった。今度はその友人たちが呆気にとられる番だった。
あの数分の間に、彼に何が起こったのか。本当のところははっきりと解らないが、その後、ある噂がクラスで囁かれることになる。
彼の家は母子家庭で、母親は夜の商売をして生計を立てている。その客の中に、あの支倉がいたらしいのだ。
そしてこの噂が校内に広まりきる前に、例の彼は唐突に高校を中退してしまったのだった。
この一件以来、支倉の授業中に悪ふざけをしたり、生意気な態度をとった生徒は、次の授業以降も目をつけられ、授業中にしつこついびられることが判明した。そして支倉はどうしてか、その生徒が一番気にする弱みをいつも知っているのだった。生徒側はそれを周囲に暴露されたくなくて、教師を糾弾したくても、結果的に耐えざるを得ないのだった。まるで男のストレスを発散するかのように、標的となった生徒たちは数知れない。
だから、こいつの授業では絶対に気を抜いてはならなかったのに。まさか自分がその標的になる日が来るとは思いもしなかった。
眼前の教師は今も、醒めたひとみの奥で、それでも高揚する感情を必死に抑え、獲物をどう調理しようかと思案しているようだった。
「聞いてんのか山田? なに寝てんだよ」
男の口から下卑た笑いがこぼされる。私はただ無言で、その視線を受け止めていた。
「なぁ、なんとか言えよ。口利けねぇのか」
支倉の攻撃はいつも粘着としている。こうなってしまっては、彼の気がすむまで逆らわず、下手に彼を刺激しないことが一番である。今までの支倉の授業を受けて、私が唯一学んだことだった。
「すみません」
極力感情のこもらない声になるように努めて言った。
「謝るぐらいなら最初から寝るなよ、なぁ?」
「すみません」
壊れたロボットのように、同じ言葉をくり返す。しかし、教師の言葉は飽きることなく続けられた。
「なぁ、なんとか言えよ山田ァ」
「すみません」
「ったく、つまんねぇヤツだなぁ。おかしいのは名前だけかぁ? 山田、いえな? いえなってお前、本当に日本人か? どんな名前だよ。お前の親もどうかしてるな」
支倉の押し殺した笑いがとても不快だった。
私は膝の上で拳をつくり、支倉を睨みそうになるのを必死に堪えていた。スカートが皺になっていくのがとても悔しかった。しかし、背に腹はかえられない。この時間を何事もなくやり過ごすことが、今後の私の平穏に繋がるのだから。
支倉の声はとっくに笑うのをやめていた。なかなか口撃が再開されないので、私はもう一度男のほうを見上げた。無表情な顔が私を見下ろしていて、これが終わったわけではないことを悟る。支倉の唇がまたゆっくりと動きはじめる。よし、と私が気合いを入れ直した時だった。
ボーンという鈍い音が教室内に響きわたった。
悠然と流れるベルは、男に小言を言わせる機会をあっさりと奪ってくれた。私もその時ばかりは神様に心から感謝した。
ベルの音が、張りつめていた教室の緊張感を一斉に吹き飛ばしていく。クラスメイトの何人かが、ほうと息を吐き出す音が聞こえてくるようだった。
教師は一度みじかく舌を打つと、釘をさすようにこちらをひと睨みした。それから教壇のほうへと戻り、自分の持ち物を回収すると、静かに教室を後にした。その姿を見ながら、たまらず悪態をついた。舌打ちをしたいのは私のほうだ。
教室は先ほどまでの静けさが嘘だったように、ざわざわとした喧騒に包まれていった。静寂はもうすっかり取りのぞかれている。クラスメイトの一人が発した声を皮切りにして、あちらこちらで会話がうまれ、平穏な光景が広がっていた。
私はそれを見て、ようやく呼吸ができる思いだった。先ほどの出来事はすっかりなかったことにして、次の授業の準備にとりかかる。
「さっきは大変だったね、山田。あ、現国のプリントもらえる?」
午後の授業がはじまる直前、軽い調子の声に振り返った。
髪をふたつにくくり、大多数の生徒はもうとっくに改造しおえたであろうスカート丈には一切の細工をしないで、入学当初のままの長さを貫いている。模範的な着こなしをしている彼女は、このクラスで委員長をつとめている、和田朱里だ。
朱里に言われたプリントを手渡すと、彼女は「サンキュ」と言って、会話を戻した。
「珍しいね、あんたが居眠りなんて。しかも、あの支倉の授業でさ! 私、山田があいつに何か言い返さないかってドキドキしてたよ」
朱里は一見気弱そうにみえるけど、話すと意外とさばさばしていて、良い意味でがさつな女子だ。相手を呼ぶときは男女ともに名字で呼び、誰に対してもそのスタンスを変えることをしない。彼女のそんなところを、私はとても好感に思っている。
どこか心配そうにこちらを見やる、朱里の顔を受け止めながら、私はなるべく声を明るくして返す。
「言い返すわけないじゃん! そんなことしたらもっと厄介だし、耐えたよ」
なんともない風を装いたかったのに、それに反して、私の顔はどこか固いものになってしまった。次の朱里の反応がなんだか怖くて、私は彼女から視線を逸らしてしまう。けれど、それは杞憂に終わり、朱里は変わらず、笑い飛ばすような快活な声を投げてきた。
「えらいえらい! でも、明日から大変だねぇ~。あいつ、しつこいよ。山田、平気?」
「んー、まぁ寝てたのは自分の責任だしね。あとすこしの辛抱でしょ? 新学期になったらあいつの授業、受けなくてもいいんだし」
「そうねー。一年間よく耐えたよ、わたしら。やっぱりどこにでもいるんだね、ああいうの。なんで先生になったんだろ、フシギ」
「さぁ? それより朱里、まだ全員分、集めおわってないんじゃないの?」
指摘すると、朱里はおおげさに驚いて、「そうだった」と一度教室をぐるっと見渡した。半分ほど集めたプリントの束を胸の前で抱えなおし、朱里の足は次のクラスメイトのもとへと向けられる。けれど、彼女は二、三歩足を進めただけで、すぐにまた私のほうへ体の向きをなおしてしまった。彼女の目が遠慮がちに私を見ている。
あぁ、この感じ、なんか気まずいな。
瞬間的に思った。朱里は私に何かを言おうか言うまいか、迷っているようにみえた。
気を遣われることは、昔からどうも苦手だ。それが親しく思っている人なら尚更である。
私たちは数秒間、見つめ合った。私は彼女からの言葉を待った。彼女は一度迷っても、最初に思った方を実行する人だから。案の定、彼女は前者を選んだようだ。
「まぁさ、山田、気にすることなんかないよ。あいつに言われたことなんて」
朱里の声がやけに遠くで聞こえたような気がした。
かけられる言葉の内容がなんとなくわかっていても、咄嗟に反応することが私にはできなかった。彼女の言葉に、背筋がすうっと凍りそうになる。朱里の不安げな目が、まだ私をとらえて離さなかった。
顔がひきつりそうになるのをどうにか封じて、私は無理やり微笑んでみせた。なるべく普段の声を取り繕って、応えた。
「別に、気にしてないよ」
はたしてその声は上擦っていなかっただろうか。朱里は私が先ほど起こったことなんて、まるで気にもしていないことをわかってくれただろうか。
朱里が次の言葉を返すまで、やけにそわそわとして落ちつかなかった。
やがて、彼女の控えめな声が、耳に雪崩れ込んでくる。
「……そっか。いや、山田さ、前に自分の名前好きだって言ってたからさ、気になって……ううん、大丈夫ならいいんだ! じゃあ残りも集めてくる!」
朱里は今度こそ私から離れて、クラスメイトの人から人へと飛びうつっていく。その彼女をみて、私はほっと息をつく。
できればもう今日のことは思い出したくもないというのが本音だった。朱里の気遣いは嬉しいけれど、今日のことは私のなかで、消してしまいたい過去に分類されてしまっている。
ただ、ひとつ。支倉に自分の名前を馬鹿にされたことだけは別だが。
私は過去に自分の名前を嘲笑った人たちを、しつこいほどに覚えている。小学二年のときに隣の席だった、日焼けした肌が暑苦しかったあいつも、中学一年のときに同じ部活に所属していた、ひとつ歳上だからと傍若無人に振る舞っていたあいつも。
私は自分の名前を馬鹿にしたやつらを、きっと一生忘れないし、許さない。それぐらい、私は自分の名前が大好きで、どうしようもないくらいに誇りに思っているから。だから、支倉のことも、私はこの先、一生恨んでやるつもりだ。




