プロローグ
ある小さな街外れに大層立派な屋敷があった。
四方を山に囲まれた街。その街の中心部にある駅から東側に目を向けると、山の一部が切り立った崖となっているのが見える。その絶壁の上。そこに一軒の洋風の屋敷がひっそりと聳え建っている。
いつから建てられたものだろうか。歴史的な価値のある建物でないことは確かである。
黒茶色の煉瓦造りの洋館で、ひどく古びている印象を受けるのだが、それと同じくらい威厳めいた雰囲気も漂わせているため、いつしかその崖の上の屋敷はこの街のシンボルのようになっていった。
所謂観光地といえず、目立った特産品もない。かといって交通が不便であるとか、物流が滞るなどの心配もない。それなりに都会的な、ありふれた地方都市のひとつである。
そんな特筆すべきことのないこの街の人々にとって、唯一できる街の自慢が、あの屋敷があることだ。
住人たちはあの屋敷を、たびたび口を揃えて噂した。
「かつてこの地を統べていたお貴族様の別荘で、その子孫が今も豪勢な暮らしをしている」
「金持ちの夫に先立たれた未亡人が、静かに余生を送っている」
「第二次大戦中に、政府が軍の基地とするために借り入れたが結局使用されず、今は廃墟同然の幽霊屋敷」
さまざまな噂が飛び交い、また新たな噂が幾度もうまれていった。
その中に真実があるかどうかはわからない。
ただ長い年月を街の人々と屋敷は共に過ごしてきた。
そして、いつの時代も人々は、あの屋敷に強い憧れを抱くのだ。
気がつけば空を見るのと同じように、人々は屋敷を見上げている。ある者は懐かしそうに、ある者は恐れるかのように。
しかし、実際にその噂の事実を確かめようと屋敷に近づく者はひとりも現れなかった。誰も、何も、咎められなどしないのに、屋敷に関わることはタブーである、と暗黙のうちに決められていったようである。
人々はいつも遠巻きに、あの屋敷を気にするだけ。
屋敷に纏う独特の雰囲気が、人々の介入を躊躇させる原因のひとつなのかもしれない。
ただそこに在るだけで、人々は満足した。
この街に住む者ならば、誰でも一度は目にする屋敷。
古びた、それでいて厳かな、まるで欧州の城かと思わせるような立派な屋敷。
屋敷はただひっそりと崖の上に君臨する。
そして、そこには確かに生きている者の気配があった。しかしそれがどのような気配なのか、街の人々の誰も知ることはない。
彼らは今日もただ静かに、あの断崖を見上げるだけだ。