心の変化
私の毎日は忙しく過ぎていく。
無理にでもそうしなければと……。
立ち止まってしまったら、切なさからは
抜け出せない様に思えた。
「先生、あのね。 うちの弟がハイハイした
んだ。 今度見に来て」
生徒の一人が話しかけた。
「本当? それは良かったわね。 是非見に
行きますね」 にこやかに答えた。
子供……。私に子供がいたら。
最近ふと考える。
きっと可愛いだろうな。
……。
あの人との子供……。
本来なら、内地勤務であったから、外地勤務
の方より早くに帰って来たかも知れない。
いや、健康な身体であれば、外国へと
行っていただろう。
この村へと無事に帰って来た方達も、
奇跡に近い帰還だと言っていた。
それ程戦争とは惨い物……。
ぼんやりとまた、色々思っていたら、
「先生、 本気でお見合いしてみませ
んか?」
真面目な顔で校長先生が私に言った。
「ですから、 私は……」
「いや、会うだけでも! うちの息子が
先生をお見かけして、 是非にと」
結局押し切られてしまった。
あまり楯突くのは、女としては良く思われ
ない。
「では、 今度のお休みの日にでも」
満面な笑みの校長先生を横目に、ため息
をついた。
きちんとお断りしなければ。
例え、この学校での勤務ができなくなった
としても……。
男の人には基本、従うのが世の常。
女の私には、意見するなど中々できない。
私は渋々とお見合いを受け入れた。
勤務後。私はあの丘へと向かった。
季節は巡り、春の終わりを告げている。
柿の木の青い葉も、夏らしい。
私は一人、着物の懐から櫛を出し、じっと
見つめた。
「今日、 お見合いのお話を受けました。
私はどうすればいいのでしょう……」
誰に言う訳でもない。櫛を見つめ、呟く。
返事など、あるはずもない。
けれど何故か、この丘に居るだけで、
あの人を感じる。
春から夏の風へと、吹く風も生暖かい。
あの人が近くにいる。
いつもそう思う。
私の両親も、心配していた。
中々結婚しない娘。
いつまでも、この世にない人を想い続ける
娘に。
私は私の道を歩んで行く。
けれどやはり、両親の事もある。
結婚すれば、きっと安心するだろう。
結局、女の幸せは結婚にある。
安定した生活。望まれたらこそ、本望。
くっきりとしたあかね空。
もうすぐ日か沈む。
夜が訪れる時間……。
いつかの夜、あの人とここで話をした。
まるで遠い昔の出来事。
それでもつい昨日の様にも思う。
「前へ進むと決めました。 貴方の事は、
私は忘れません。 私の心は貴方で溢れ
ています。 可笑しいですね……」
ゆっくり立ち上がり、胸いっぱいに
風を吸い込んだ。
あの人の温もりを感じながら。
ある休日。私はお見合いをした。
両親はもちろん、校長先生も喜んでいた。
組合長のお宅で、お見合いをする事に
なった。
お断りできない様に、わざわざ皆を巻き
込んだ。
組合長が出てくれば、こんな小さな村で
あれば、周知の沙汰。
私がお見合いを断れば、両親の肩身も
狭くなる。
「いやぁ、いい天気で何よりです。
まさにお見合い日和。 実に喜ばしい」
清潔感ある青年の隣に座った校長先生が
嬉しそうに扇子を仰ぎながら言った。
仕立てたばかりであろう、着物が新しい。
校長先生の息子さんは、真新しい白のシャツ
を着て、少し恥ずかしい様子をしていた。
私もできるだけ綺麗な着物を着た。
物のない中で、両親は私の為にとあつらえ
てくれた。
私の隣に座る両親も、この日を待ちわび
ていたので、ニコニコしていた。
「先生は、生徒からも人気があります。
お若いのに仕事ぶりも実によろしい」
私の勤務内容を褒めながら、何気なく
嫁としても務まると言いたい様であった。
「校長、 こんないい娘さんが来てくれた
ら、 毎日楽しいでしょう」
組合長も口を添えた。
「褒め過ぎですよ、校長。 男勝りなだけ
です。 こんな娘でも、もらって頂けたら、
こちらとしても有難い」
母と私はうつむいていた。
母は嬉しそうだが、私は違う。
この様な場では、女の人は口を出さない。
小さな村、男の世界……。
組合長の家の窓から見える空。
あの人が頭をよぎった。
「少し、歩きませんか?」
突然、校長先生の息子さんが口をついた。
一瞬、皆驚いたが、それでは……。
流されるままに、私達は外へ出た。
「親父、 学校でもあんな感じですか?
貴女もお困りですね。 あ、自己紹介も
まだでしたね。 全く、肝心な事を言わない
で、本当に困ったものです」
組合長の家を出て、川沿いを歩きながら、
息子さんがそう言った。
「僕は、奥野 真 と申します。
今頃名前を名乗るなど、可笑しいですね」
笑った顔が、何処と無くあの人と重なる。
「私は、今岡京子です。 本当、最初に
名乗るべきですね」
自然と笑顔になった。
不思議な感覚。安心できる空間にいる
様な……。
私は 頑なに、あの人を思っていたのだろ
うか。
少しの安らぎと、戸惑いを覚えた。
「突然に、お見合いなどすいませんで
した。 実は、 以前学校で貴女をお見かけ
してから、 忘れられず、 父に頼みました。
貴女と見合いをしたいと」
真っ直ぐに私を見て、照れながら言った。
私は恥ずかしくなり、視線を落とす。
「貴女に思う方がいる事、 承知してい
ます。 色々、耳にもしました。
ですが、 もう自分を楽にしてあげたら
どうですか? 貴女は充分悲しんだ」
いきなりの言葉に驚いた。
楽にする? 私を……?
私はそんな風に思われていたのか。
自分では、考えた事さえなかった。
ずっと、あの人をそばに居なくても思って
支えにしてきた。
悲しいけれど、心はあの人にあった。
それはつらいと言う事ではない。
「僕は、実際にそばにいます。 貴女を
幸せにできる。 戦争から帰って来て、
きちんと仕事もしています。 貴女を養う
事ができます。 一緒になって頂けない
でしょうか……」
迷いのない思い。私をこんな風に……。
「少し……。 少しだけ考えさせて下さい」
そう言った。
今すぐに、返事はできない。
色々頭が混乱した。
「いい返事、待ってます」
家に帰り、両親に話した。
校長先生の息子さん、真さんに言われた
事を。
「女の幸せは、結婚よ。 是非お受けしな
さい」
「何の申し分もない青年だ。 いい話を
断る理由はないだろう」
父も母も、あの人の事は触れない。
私の気持ちを察していたから。
しかし、現実として、やはり結婚をして
欲しい。
私も分かっていた。心はあの人に嫁いでも、
結局は現実ではない。
いくら待っても帰る事はないのだから。
自分の部屋で、私は櫛を取り出した。
唯一の形見。
机の引き出しから、いつか届いた手紙も
出し読んだ。
思い出に縛られているのか。
いない人に心を囚われて……。
真っ直ぐ歩いて行く。そう決めた。
あの人の心と一緒に。
でもそれは、違うのだろうか。
現実に、共に歩いていく人がいるならば、
その方がいいはず。
自分の中の変化。
正直、迷いもある。あの人を裏切る様な気も
する。
思い違いなのかも知れない……。
答えが出ぬまま、数日が過ぎた。
「先生、 お返事どうでしょう?」
毎日、校長先生に尋ねられる日々。
「申し分ありません。 もう少し……」
長い時間は掛けられない。
答えをださねば。
焦りすら覚えていた。