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幻臭

作者: 広河陽

 その日はいつもより心もち早く目覚まし時計が鳴ったに違いない。耳障りな甲高い電子音が、深海を思わせる静寂と暗さをそなえた部屋に鳴り響く。

 目覚まし時計が求めるのは美紗みさの指。柔らかな指の愛撫が欲しくて目覚まし時計が鳴く。

 美紗はその目覚まし時計の思惑にのってしまう。寝床から手を伸ばして、目覚まし時計を止める。目覚まし時計は美紗の指の感触を手に入れて、鳴くのをやめる。

 それで美紗は目を覚ましてしまうのだ。時計を手元に引き寄せて、闇の中に海月くらげのように浮かびあがるデジタル数字を見る。そして、一人ぼっちの部屋で時間を読みあげただろう。

「4時半」

 すると6時間ほど美紗を魅了していた睡魔は一目散に自分の世界へ逃げ帰るのだ。

 次に美紗は体を起こし、部屋の中を見回しただろう。その部屋には、今まで美紗が身をあずけてきたベッドと机と旅行鞄、そして一回分の着替えしかなかった筈だ。視界の端には入っても意識には上ってこないだろうドアの向こうの台所の流しは、乾いて久しい。

 人が暮らしてきたにしてはあまりに物が少なすぎる、生活臭が稀薄な部屋。

 でも、美紗にはこれでよかった。

 この部屋で美紗が暮らしてきたのは、日本で大学の卒業証書を受けるためだ。21才にしてアメリカで生物環境学の博士号を取ってしまった美紗の、日本での最終学歴は中学中退だった。高校入試に向かって邁進まいしんしていく日本の中学校教育が肌に合わなかった美紗は、海の向こうの国に望みをかけて旅立ち、成功したのだった。

 異国で、自分が母国についてほとんど何も知らないということを思い知らされた美紗は、博士号を手にすると日本に戻ってきて日本文学を専攻するために、大学に入り直した。

 だが、今日からは大学へ行かなくても誰も何も言わない。

 自分の研究のことしか考えられない教授という名の似非えせ教育者も、自分と外との軋轢あつれきを無くすことや単位という免罪符を手に入れることにしか腐心しない友人面した人間も──とするのは、うがった見方だろうか。

 大学に行かなくなった今、ここで暮らしていく必要はなくなった。

 入室時から部屋に備えてあったベッドと机は、おいてけぼりを喰うのを知っているから、身をきしませて微かな抗議の声を上げる。でも、美紗を止められないことも知っているから、それ以上のことはしない。

 美紗は月光を浴びた幻の花が花弁を開くような密やかな音を立てて寝間着を脱ぎ、白いブラウスに腕を通した。黒いジャンパースカートを穿く。小気味良い衣ずれの音をさせて夜空色のスカーフを首に巻く。

 そして、机の上に唯一置いてあったブローチを凝視しただろう。しばらく逡巡しゅんじゅんしたあげくにおずおずと手を伸ばし、ピンをはずして胸につけたのだろう。それは金で作られており、ひいらぎの葉をかたどっていた。

 手を伸ばして旅行鞄を開ける。最後の点検をするつもりなのだ。

「長い旅だもの。ひとつでも忘れたら大変」

 口の中でそんな言葉を転がしながら、美紗の目は、自分にとって大切なものをひとつひとつ確認していっただろう。

 グリニッジ標準時に合わせられた、ふたのない銀の懐中時計。

 地球の何処かから宇宙空間を裂いて飛んできた電波を音にしてくれるであろうラジオ。

 物を創りあげる助けとなるナイフ。

 心ゆく書きごこちを提供してくれる鉛筆。

 瞬く思考の残滓ざんしを書きとめるノート。

 そして、美紗をいちばんお気に入りの世界へ誘う物語を収めた本。

 そんなものが、着替えや、書類上の自分が全てつめられているIDカードと一緒に鞄に入っているのを確かめて、美紗は一人で満足そうに頷くのだ。

「さて」

 鞄を閉めると、独りごちて立ち上がったはず。

 人工の光を部屋から締め出すために下ろしていたブラインドを勢いよく上げる。37階の開くことのない窓の、下には出来そこないの星空のイミテーションを、上にはネオンの光をはらんでよどんだ空を埋め尽くす摩天楼を見る。

 ひとつひとつの光の中には数人の人間がいるだろう。光をまとった摩天楼ひとつの中は幾千もの人がひしめいているはず。間にはチューブライナーが毛細血管のようにはりめぐらされているので、摩天楼は点滴を受ける瀕死の巨人を空想させただろう。

 気密性が高く清浄な空気で満たされたチューブライナーは、二酸化窒素・二酸化硫黄・トリクロロエチレンといった有害物質で汚染され、DEP(ディーゼル排気微粒子)が漂う大気から摩天楼を行き来する人々を守ってくれる。

 と同時に人々に、自分たち人類が今の地球環境から切り離された生物であるとまざまざと思わせてしまう。設計者はそんな人間の心理を予想し得なかったに違いない。

 美紗はその見慣れてしまった風景に、今日に限っては、ため息をついたのだろう。おかげで名残惜しさなんていうものは微塵も感じることなく部屋を出て行けただろう。

 美紗が出て行った部屋は偽りの星の光に満たされ、ベッドと机だけが残されている筈だ。


 今、美紗は藍色の中にいた。

 太陽はまだ目の前に見える海の下で微睡まどろんでいる。波が荒々しく打ちつけて砕ける崖の上、ちょっとした展望台のようになっている場所に美紗は立っていた。

 そこにいるのは彼女だけではない。他にも日の出を見て祈ることを習慣にしているらしい老夫婦や、白髪まじりの定年を控えているだろう会社員らしき男性、親子連れなど総勢で12、3人ぐらいになる。

 人々は誰ともなしに集まり、互いに干渉することもなく、日の出の時を思い思いに過ごすのだ。

「美紗」

 その声がした方向に美紗は顔を向ける。


 そこには俺がいる。


「どうして……」

「『こんなところに呼び出したりして』でしょ?」

 俺が言いかけた言葉を先に言い当て、美紗は屈託なく笑う。

「判っている筈よ。今日が出発の日だもの、その前に兄に会っておきたいと思うのは自然じゃない」

 妙に自信ありげに美紗が言った。俺はさも可笑おかしそうに、けれど声を押し殺して鳩が鳴くように笑ってみせる。

「まったくおまえには敵わないな」

「次にあなたが口にしようとしていることも判るわ。『どうしてこんな大切なことを今まで黙っていたんだ』」

 美紗の言葉に、俺は頷く。

「父さんは驚いていたよ」

「けれど星斗せいとはたいして驚かなかったのね」

 美紗は、兄である俺のことを「あなた」と言ったり「星斗」と名前で呼んだりする。まるで気心の知れた恋人のように。

「美紗のことだから。でも少しは驚いたさ」

 俺の口調の中に非難めいた棘を感じたからかもしれない。美紗は俺から目を逸らした。

 美紗は自由でつかみどころのない人間だが、傍若無人な振る舞いはしない。

 俺から目をらしたのは、俺に対して済まないと思っているからなのだ。そのぐらい判る。

 目を逸らしたままの美紗に俺は対峙たいじする。

 細い割にはアイブラウも使っていないのに冴えた眉と、筋の通ったすっきりした鼻が意志の強さを主張している。堅く結ばれた小さくまとまった口は物静かな印象を与えるが、実際にはそうでないことを俺は知っている。

 風が吹いて緩やかにウェーブのかかった美紗の髪が揺れるところを想像し、俺は微笑した。

 初めて美紗に会ったのは5月の黄昏時だった。大気が幾分か清浄だった頃、まだ小学生だった美紗は、たくさんの白い花を抱えた沈丁花じんちょうげの低い木にまぎれて、髪を風になびかせていた。沈丁花のむせかえるような甘い香りを、俺は覚えている。

「綺麗でしょう?」

 美紗が眼前の風景のことを言っているのだと俺が気がついたのは、頷いて同意を示した後のことだった。

「こんな風景を見せてくれていた地球に私、首っ丈なの」

 言いながら、美紗の目は中空に浮かぶ白い月に向けられていた。

身内贔屓びいきかもしれないけれど、地球って銀河で、ううん、宇宙でいちばん素敵な星だったんでしょうね」

 一転して美紗の眉間に微かに皺が寄せられる。頬がひきつられ、暗いかげが降りる。

「この星は息絶え絶えになっても人間の存在を許してくれている。私はね、星斗、地球に恩返しがしたい。そのために行くのよ。あそこで一生懸命頑張れば、地球を私たちの手で殺さずに済む方法が見つかるかもしれない。そう思うのって傲慢かな」

 たとえ美紗がこちらを向かなかったとしても、心には俺が頷いている像が映っていただろう。

 東の空が茜色に染っていた。日は昇ってはいないが、だいぶ明るくなってきていた。波はまだ姿を現さない太陽の光を浴びて、所々、砕けた硝子の小片かけらのように輝いている。

 明るくなり始めた朝の空と海を吸い込んでしまうかのように仰ぐ、その美紗の様子が飛び立つために羽ばたきの初動作をする渡り鳥を連想させた。実際に彼女は飛び立ってしまう。

 俺の手の届かない処。白々しく輝いて見える、月へ。

 一か月前に流れたニュース。それを知った時の感情が身内で鮮やかに再生される。

 月移民者に日本人が3人選ばれ、その中に美紗の名を見つけた驚き。それに関して事前に何も話がなかったので、随分と落ち込んだ。こちらから連絡を取りたくても、今までの一か月間、月への適応訓練のために連絡が取れなくて苛立った。

 月への移住。

 地球上での、人類生存可能範囲は年々狭まってきているが、人口は一向に減らない。

 科学者・技術者を月面上のドームに集めて、地球を眺めながらその蘇生法ないしは延命法を探らせる。月にはそのための実験場も造られた。例えばひとつのドームの中には、産業革命以前の地球の自然が小規模ながら再現されているという。日光を濁った大気によって遮られ、土と水を人間に汚されてしまった地球では不可能なことだった。

 また一方では、効率のよいドーム都市やスペースコロニーを開発していく。国際環境科学技術開発公社の試算によると、現状で月をドームだらけにし、コロニーを浮かばせたとしてもそこに収容できるのはざっと50億人。世界人口の70%にも満たない。残りの30%の同胞を見殺しにはできないし、人口は増えるものであって決して減るものではない。

 300人の月移民者は全て、「最低向こう5年は地球に戻って来ない」という条件に同意している。移民は、ていのいい口減らしも兼ねているのだ。

 若くして博士号を持つ美紗は、第一次月移住に志願し、選ばれた最初の300人のうちの一人なのだ。……そんなことはどうでもいい。人類にとって美紗は300人のうちの一人だ。しかし俺にとって、彼女は、唯一の。

 不意に体の中に熱い卵があるのを感じた。美紗に初めて会ったその瞬間に、その卵は生まれたのだろう。そして、自分でも気づかないうちに温めてきたのだ。卵には、俺の、美紗への思いがつめられている。

 暖められた卵は、今にもかえらんばかりだ。つややかな殻に醜いひびが入りはじめる。

 殻を割ってはいけない。卵は、そのままで充分に美しい。中に入っているものは必ずしも美しくはない。殻を割る勇気は、ない。

<行かないでくれ>

 ──思いの丈を全て吐き出せたらどんなにいいことだろう。しかし、そうできない理由がある。だから、力を込めた眼差しで美紗をみつめるだけだ。眼力で人を捕縛できるなら、今、そうしたい。

 美紗の後ろに、仲睦まじく肩を寄せて日の出の時を待っている老夫婦が見えた。にこやかな微笑みを浮かべてこちらをみつめる老人は、もしかすると、本物の朝日を待ちながら今は傍らにいる老婦人に求婚したのかもしれない。

 が、彼らが俺と美紗の関係を知ったらどう思うだろう。俺は美紗の、親の敵も同然なのだ。

「月に行くにあたって、私は或る人の養女になろうと思っているの」

 俺は言葉を失った。幾ら美紗の突飛な行動に慣れているとはいえ、さすがに今のには驚かされた。それは俺を含めた今の家族を捨てるという意味ではないか。

 美紗なら俺の気持ちに気づいているはず。その上で、拒んだのか。麻痺するような絶望感が体をむしばんでいく。周りで日の出を待ち切れずに騒ぐ子供の声が遠く聞こえる。そんな虚脱状態の中で、口だけが正常に働いた。

「おまえは、まだ父さんを憎んでいるのか」

 自分のことを出さなかったのは、拒絶されたことを確かめるのが怖かったから。

「或る意味ではその通り、或る意味では違う」

 俺に考えるいとまを与えないようにとでもしているのだろうか、美紗は即答した。

「あの人のせいで、私の母さんは」

 医師だった俺の父は、自分の息子の命を助けるために患者を見殺しにしたことがあった。その患者は、医師の息子と偶然にも同じ時期に命をとりとめるのに大量の輸血を必要とし、偶然にも同じ稀少な血液型の女性だった。

 父は息子に輸血をし、患者は出血多量で亡くなった。裁判になったが、血液が患者の命を救うには足りず、息子をこの世に呼び戻すには充分だったということで、父は、法的には罪を問われなかった

 患者には娘がいた。母子家庭で他に身寄りのなかった娘を、父は償いのためだろうか、養女にした。

 そして俺が高校に上がったばかりの春の宵に、俺は妹になる少女に会ったのだ。俺が彼女の母親を踏み越えて生き返った人間だと知った時、彼女はありったけの憎悪を俺にぶつけた。が、時が移ろうと、彼女は手を下した父を恨むようになったのだ。

 俺は緊張した顔つきでまじまじと、美紗を見た。現在もその胸の中を父への呪いで満たしているのだろうか。

 美紗の左胸についている柊のブローチが、朝の光を受けて目を射抜いた。その時、俺は気づいた。

「でも、もう、許したんだな」

 今、美紗が身につけているブローチは父が、彼女に贈ったものなのだ。

「ええ。私、養父ちちを許したわ。どうしようが私の母さんは帰って来ないもの。でもね、人間っていちど抱え込んでしまった感情はなかなか捨てられないものなのよ」

 美紗はいつの間にか下りてきた髪を、かき上げた。

 鼻が沈丁花の甘い香りを捉える。いや、それは錯覚だろう。記憶の中に閉じ込められた匂いが甦ってきただけだ。こんな処で目に見えない沈丁花が薫る筈がない。

 ここは、ホログラフィールームの中なのだから。

 現在の地球では肉眼で朝日を見ることはできない。それでも朝日を見ることを望む人々が、騙されるために入ってくる部屋。

 時間をわざわざ本物と合わせていても、ホログラフィーで完璧に騙せるのは、製作者が意図し得た感覚だけ。

「日が昇ってきたわ」

 美紗の声に俺だけでなく、その場にいた全員が東の空と設定されているスクリーンに視線を投げた。

「うわっ」

 両親に手をひかれ日の出を待っていた子供が声を上げた。しかし、それは歓喜の声ではない。嫌悪感に満ち満ちた声だ。おそらく初めて朝日のホログラフィーを見たのだろう。

 スモッグを通して届く弱々しい光を放つ太陽しか知らない世代には、忠実な太陽のホログラフィーは異常なものに映るらしい。

 そんな話を見聞きするにつけ、人類はもう戻れないのではないかと思う。俺には劣悪な環境のように思えても、新しい世代にとってはそれがベストの環境になるのではないか。それが進化というのではないか。だとしたら美紗がやろうとしていることは、一体……?

 暖かな感触が俺を思考の縁からすくいあげた。美紗が寄り添っていた。

 着ている薄手のTシャツを通して温もりが伝わってくる。狂おしい思いが体中を駆け巡る。美紗が愛しくてたまらない。美紗の体に触れたい。脳は指を動かす命令を送るが、指は微動だにしない。罪の意識が俺を縛る。今までこんなことは何度もあった。美紗を望むと、途端に体が動かなくなるのだ。

 「小さい美紗」の憎しみの目にみつめられるのを感じてしまう。忘れられる訳がない。自分が一人の人間を殺してしまったことを。

 ひときわ鮮烈な沈丁花の匂いが、鼻孔をくすぐっている……匂いの正体が知れた。甘い香りは花の香ではなく、俺だけが感じとれる、美紗が持っている匂いだったのだ。

 その途端、全てが見えなくなった。老夫婦も、太陽を気味悪がる子供も、頭から消えた。

 卵の殻が割れる音を、聞いた。俺は、無我夢中で美紗を抱き締めていた。初めて触れる柔らかな体に自制が効かなかった。血がたぎり始める。全身で美紗を感じていたい。その思いだけに衝き動かされていた。体の芯が火照り、甘美な痛みが神経をめぐる。

 いちばん近くにいる筈の美紗の声でさえ、遠くに聞こえる。

「私があの人を憎む理由はもう一つあるの。あの人が私を養女にしたのが哀れみにしか思えないのよ。アメリカに行くのだって我がまま半分だった。なのに、あの人は私のそんな望みを叶えてしまったわ。

 だけど、私が月に行けば、あなたは義兄あにではなくなるし、私はあの人の保護から離れられる。もう、哀れまれなくて済む」

 息が荒くなるのを必至に抑えようという俺の試みは成功しなかった。俺は美紗の頬をそっと両の掌で包んで、僅かに上を向かせた。溢れそうになる美紗への愛しさを、唇で伝えようとしたのだ。

 瞼を閉じ気味にして美紗は待っていた。

 俺と美紗の唇が軽く触れあう。より深く美紗を感じようと彼女を抱く腕に力を入れた。

 すると、美紗は腕から抜けてしまった。拒むというよりは、躱すようで、あまりにも自然だったので、一瞬何が起こったのか判らなかったぐらいだ。

 美紗の体を追いかけようと彼女の背中に手を伸ばす。その手が宙で凍りついた。俺は、もう、美紗を抱けなくなっていた。罪の意識が不意に甦ってきて縛りあげられていた。が、縛られたのは体だけだ。心は彼女への思いで、熱い。

 美紗は向き直って、口を開いた。高揚した心を抱えたまま、静かに美紗の声を聞く。

「あなたが月に来てくれたら、何がなんでも、いちど二人で帰ってこようと思うの。地球と月のお歴々方を敵にまわしてね。そして、私の大好きなこの星で……それまで」

 美紗は鞄を持つと、そのままホログラフィールームの出口へ歩いていく。少し先には、空港へ直結しているフロートカー乗り場があるのだ。

「美紗!」

 呼び声に美紗は歩みを止めた。

「月で、待っているわ」

 美紗は背を向けたままそう言うと、全てを振り切るように走り出す。追いかけることさえできない俺の手には、美紗の感触が痛いぐらいに残った。


 その翌日、第一期月移民300人を乗せたシャトルは地球を飛び立った。だが、その船が月に降りることはなかった。

 単純な整備ミスだった。燃料タンクに引火して、シャトルは地上僅か数百メートルで爆発した。300人の、それは盛大な火葬だった。

 科学のすいを集めて何千人もの技術者が数年をかけて完成させてシャトルは、棺に転じた。耐熱・機密性に優れたプラスティックとセラミックの中で、人々は最期の瞬間に何を思ったのだろう。


 真夜中の海辺に俺は立っている。足許あしもとの崖には波が押し寄せ岩に当たって砕け、飛沫しぶきを散らす。命知らずな挑戦が繰り返されている。だが俺は、その飛沫の中から白い鳥がたたんだ翼をゆっくり広げて生まれてくる瞬間を見た。白い鳥は天に向かって一度、鳴く。その声は潮騒の音にかき消されて、聞こえなかった。

 俺は苦笑した。ここはホログラフィールームだ。こんな時間なので、中には俺以外の生物は存在しない。言うまでもなく、波頭から生まれた白い鳥も。

 造られた幻覚の上に、造った幻覚を重ねて見ているだけなのだ。

 3年前に美紗を失ったその日から、月移民に選ばれることだけに心を傾けてきた。少しでも気を緩めると、満たされることのない渇きと飢えが襲った。いつしか目の前に白い鳥の幻が現れるようになった。月が空に在ると、白い鳥は決まって月へ向かって飛んでいく。

 月移民に選ばれた今でも、白い鳥を見なければならないのか。

 幻とホログラフィーを捨て去るために、掌中のIDカードを握りしめた。IDカードには俺の名ではなく、美紗の名が記されていた。その現代科学の結晶である厚さ3ミリの金属板は所有者の遺体が消滅してしまうような条件下でも、全く損傷せずに遺族の手に渡されたのである。

 IDカードの縁が手にくいこんで肌に白いあとをつける。鮮やかなまでの痛みだけが、現実だった。

 闇の中に偽物の潮騒が響き、押しつけがましい風が吹いて潮の香がする。映像と音と触感と匂いで構成されたおぞましいイミテーション。

 虚構で塗りたくられた風景にたたずむ俺の嗅覚が、不意に匂いを捉えた。よどんだ潮の香の中でその甘い匂いは鮮明だった。美紗の、沈丁花の香り──。

 白い鳥が再び現れた。鳥はいつもならまっしぐらに飛んでいく筈の月には見向きもせず、俺に向かってきた。

 手が届く距離まで来ると鳥の姿は昇華するドライアイスのように消え、代わりに人の姿をとった。

 この3年間、思い続けた美紗の姿だった。美紗は右手をさし伸べると、声のない穏やかな笑みを浮かべた。

 俺は美紗の手を取ろうと腕を伸ばした。が、その動作をやめた。なすべきことが見えたからだ。

 腕をひっこめ、代わりに口を開く。

「俺は大丈夫だ。遅くなるかもしれないけれど、必ず行くから先に行って待っていてくれ」

 その時の美紗の、晴れやかな顔を俺は一生忘れない。美紗は鳥に戻ると翼を羽ばたかせた。

 目指すは月だ。

 やがて幻の美紗の姿はホログラフィーの月光の中に融けて見えなくなった。

 本物の美紗の魂なら、偽物のホログラフィーの月ではなく、本物の月に辿たどり着けたろう。

 沈丁花の甘い香りが辺りに漂っている。

 それもまた幻なのだろう。だが最後の幻に違いない。

 俺は、ホログラフィールームを後にした。行く先には、月行きのシャトルが待っている。


――END

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