09
入学式翌日。
授業初日。
時計代わりにつけっぱなしにしているテレビの画面が七時半を報せるなか、陽菜子は、例によって着物と格闘していた。
昨日の経験を鑑みて、今日はさらに早く、五時半に起きて着付けを始めたと云うのに、今の今になっても着つけが終わらない。終わるどころか、おはしょりと襟を満足に整えることさえできていないのだ。
(絶対間に合わない~!)
陽菜子が入学した茶道科の一年生は、八時一五分までに登校して、校舎三階の大広間に着座、朝礼の開始を待つようにと云われているのだが、全く間に合う気がしない。
頼みの部屋親月見里は、茶室の掃除と授業の支度をしなければいけない、水谷当番なのだと云って、一時間半前に寮を出てしまっていた。
(もう駄目~!)
そう思った、その瞬間。部屋のドアがこんこんと軽やかにノックされ、
「陽菜子さん、」
「おはようございます」
「「着付けの具合はいかがですか?」」
双子の声が聞こえた。
(救いの神!)
本気でそう思った。
「全然ダメ~ぇ」
半泣きでドアを開けると、廊下に並んでいた双子は、きょとんと顔を見合わせた。
「あらあら、」
「まあまあ」
「たいへん、」
「ですわね」
「でも、今のところとても綺麗に着つけていらっしゃるわ」
「着物雑誌に掲載されても大丈夫なくらい」
「そんなことないよぅ。とにかく、入って入って」
「「では、おじゃまいたします」」
双子は、陽菜子の手招きに従って部屋に入ってきた。
今朝の彼女たちは、瑠璃子がレモン色の地に薄緑色の小花模様を散らした小紋に緑色の帯、青子が水色の地にパステルカラーで水玉を散らした小紋に桃色の帯と、まるで関連性のない物を身につけており、それぞれ意識して互いからの区別を図っているようだった。
「二時間かけて、まだここまでしかできてないの!」
ひどいでしょぅ、ダメだよねぇ、と陽菜子が訴えると、双子はそろってにっこりほほ笑んで、シンメトリに首を振った。
「大丈夫ですわ。着つけの早さなんて、結局は慣れですから」
「こんなにお綺麗に着つけることのできる陽菜子さんなら、すぐに慣れますわ」
「ダメだよ。全然ダメ。今日間に合わなくちゃ、意味ないでしょう」
「でも、あとは帯だけですわよね?」
「襟元を固定するための伊達締めを締めて、帯を締めるだけ」
「残り時間は三〇分。楽勝ですわ」
「瑠璃子さんや青子さんはそうだろうけれど、あたしは無理だよう!」
昨日みたいに手伝って~と訴える。
が、双子たちはまた首を振った。
「まずは、おひとりでできるところまで頑張ってくださいましな」
「コツと判らないところはお教えいたしますから」
「そんなぁ!」
「だって、これは陽菜子さんが身につけなければいけないことなんですのよ?」
「これから毎日、私たちがお手伝いするのは簡単ですが、それでは陽菜子さんの身につきませんでしょう?」
お着物が身についても、着つけ方が身につけられなかったら何にもなりませんわと青子は云う。
「私たちは、今後一生涯陽菜子さんのおそばについて、お世話をするわけにはいかないのですから」
瑠璃子が云った。
「それは……そうだけど、さぁ……」
それは正論だが、今は慣れていない、云わば非常事態ではないか。もうちょっと助けてくれても良いのに――と陽菜子は少し恨めしく思う。が、双子たちは意に介さず、にっこりと邪気のない爽やかな笑顔で陽菜子のそんな甘えを退けた。
「頑張りましょう?今日締める帯は……こちらですわね?」
開けてよろしいかしらと、瑠璃子がベッドの上にポンと置かれた畳紙を指して尋ねる。陽菜子は、青子から手渡された伊達締めを思い切り締めながら、こくこくうなずいた。
「うん、お願い」
「お任せあれ。……あら、すてき!」
畳紙を開くなり華やかな歓声を漏らした瑠璃子に釣られて、彼女の肩越しに中身をのぞいた青子もあらぁ、と声を上げた。
「本当、可愛い!ヒナ鳥の図柄の刺繍ですのね」
「陽菜子さんのお名前に因んだのかしら?凝っていらっしゃるわね」
「そ、そかな?ありがとう。実は自分でもそれ、気に入ってるの」
褒められてへにょっと相好を崩した陽菜子に、瑠璃子はええ、と頷いた。
「今日のお着物にもぴったりですし、陽菜子さんのお着物をお選びになられた方は、趣味が良くていらっしゃるわ。……はい、ここを持ってきゅっと引っ張ってくださいましな」
「こうするの?――あたしの着物は全部、お母さんとお祖母ちゃんが用意してくれたんだ」
「そうそう、お上手ですわ。陽菜子さんのお祖母様って、昨日の入学式にいらしてた、凛としていらして品のよい方ですわね?――はい、ここを紐で絞めて……」
「こうね?――品がいいかは判らないけど、たぶんそれがうちのお祖母ちゃん。この学園の卒業生なんだって」
「今もお茶をされていらっしゃるのかしら?はい、帯枕。これをこの向きでここにこう当てて、こう持ち上げて、――あの後で私たちが招待させていただきました先生方主催のお茶会で、とても楽しいお正客さまをしてくださいましたわね」
「うー、難しいなぁ。腕がねじれる感じ。――お祖母ちゃんは、地元でお茶の先生してる。ところで『おしょーきゃく』……って、なに?」
「お茶会の主賓ですわ。お亭主様と色々な会話を交わすことで、そのお席を盛り上げたり、お席の趣向を察して話題に取り上げたりします、とても難しくて重要なお役目ですの。――ええ、そんな風に持って行って……そう。お上手ですわ」
「お茶会の成功不成功は、お正客に負っているところもおおきいですから。なまじかな方では務まりませんわ。――帯揚げと帯締めは、こちらでよろしいんですの?」
青子が壁のフックにかかっているハンガーを指差して訊いてくる。陽菜子は、そうなのそれ使うの、と頷いた。
「では、はい、どうぞ。それで昨日のお祖母様ですけれど、素晴らしかったですわ。ご亭主様との当意即妙なやり取りに加えて、その場に居合わせた皆にも、お席の趣向の細かなところまで教えてくださって。しかもそれが押しつけがましくもなく、恩着せがましくもないんですもの」
「わたし、亭主役をされていらした先生と陽菜子さんのお祖母様のやり取りがあんまり楽しくて、何度も笑ってしまいましたわ」
「私もですわ。あんなに楽しいお茶会って、あんまりないことですもの。本当に、陽菜子さんのお祖母様は素晴らしい方ですわね」
「あはは……まあ、ね……」
お茶のことは知らないけれど、人格はひどいんだよぅ――と声に出さずに呟いて、陽菜子は空笑いする。
(あたしはいっつも、理不尽にいじめられてるんだから!)
祖母が終始喋りづめだったことに加えて、初めて参加する「お茶会」の緊張で、昨日は出された抹茶を味わう余裕もなかった。お菓子の取り方から始まって、食べ方、お茶碗の持ち方、全部判らないから、とにかく周りの人たちのすることを見てまねすることに必死だったのだ。
(お茶って、疲れるものだよなぁ)
皆、どうしてこんなものに夢中なのか、陽菜子にはちっとも判らなかった。
そんな陽菜子の声にならない声などもちろん聞こえない二人は、ひとしきり美耶子を褒め称えたのち、帯締めを締めた陽菜子の帯と肩を、それぞれぽん、と軽くたたいた。
「「はい、出来上がり」」
二人揃って云ったのち、口々に話し始める。
「お綺麗ですわ」
「時間もちょうど、間に合いましてよ?」
壁に掛けた時計は八時五分前を指していた。朝礼に参加するのに丁度いい時間だ。
「うん、二人とも、ありがとう。おかげで助かった」
「「ではご一緒に、参りましょうか?」」
「うん!」
双子たちと一緒の学年で良かったと、そう思った。
今後お茶なんてものを勉強してゆくにしても、彼女たちが一緒なら、頑張れるような気がした。
その気持ちを素直に口にすると、双子もそろって、わたくしもですわ、とほほ笑んでくれた。
「陽菜子さんとご一緒できて、嬉しいです」
ほんわり咲う二人の笑顔は、眺めているだけでもほんのり胸が暖まるような、柔らかで温かいもので、陽菜子も無意識のうちににっこり、咲い返していた。