08
入学式は、特に目立って珍しいこともなく、粛々と進行して終わった。
陽菜子にとっては感動も何もない、小、中、高校のそれと同じものだったのだが、他の人にとっては違ったらしい。
「まさかお家元に、こんな近くでお会いできるだなんて、思ってなかったわぁ!」
閉式後、先生方が特別に一服点ててくださるという別の会場へ移りながら、美沙が、感激の面持ちでうっとりとつぶやいた。
新入学生最年長者である彼女は、代表して、壇上の家元の前で誓いの言葉を読んだのだが、それがよほど嬉しかったらしい。頬をうっとり上気させて、目をうるませていた。濃紺の紋付色無地に銀糸を基調にした色鮮やかな刺繍の袋帯を合わせた彼女の姿は、どこの姐さんですかと聞きたくなるくらい粋な雰囲気を放っているのに、加えてそんな表情をした日には、女の陽菜子もどきどきするくらい艶やかに目に映った。そのせいだろう、父兄の何人かは、はしゃぐ彼女のほうに先刻からちらちらと視線を送っているのだが、本人はそんなことには全く気付かずにうっとりと陶酔を続けている。
「良かったですね」
陽菜子がお愛想でそう云うと、美沙は真面目に頷いた。
「ええ。もう、一生の思い出だわ!」
「大桃さんは、お家元のファンなんですか?」
軽い気持ちで訊いた陽菜子の言葉に、美沙は陶酔を忘れて両目をしばたたいた。
「『ファン』?そんな失礼な感情は持ってないわ」
「失礼、……なんですか」
「そうよぉ。だってお家元よ?ファンだなんて軽薄な感情を抱いたら、失礼じゃない」
「お家元、ですか……?」
意味がよく解らないままその言葉を繰り返すと、美沙は一人で合点してくれた。
「そう、お家元。私たちが属するこの流派を束ねる長であり、茶の道に深く深く精通されていらっしゃるお方。私は、淡交会の地区大会でお家元が私の地元へいらしてくださった際に、お点前を拝見させていただいたことがあるけれど、ただただ圧倒されたわ」
私ごときがこんな云い方をするだなんて失礼だけれど――と前置きした後、美沙はため息交じりにささやくように呟いた。「すごかった!」
「わたしも、献茶式でお家元のお手前を拝見したことがあります」
瑠璃子が会話に加わった。
「『献茶式』?」
「神社仏閣などで、神仏にお茶を差し上げる儀式のことですわ」
首をひねった陽菜子に簡潔な説明をしてから、瑠璃子は続けた。
「御父君であられる大宗匠様とはまた違った趣のお点前でいらっしゃいますよね、お家元は」
「うん。大宗匠さまはなんて云うか……」
「舞台のよう――ではありませんこと?とても華やかで、印象的ですの。感銘を受けると云う点ではお家元と同じですわね」
瑠璃子と並んで歩いていた青子がにこにこ云った。
今日の双子は、地模様のある薄桃色の色無地で、クリーム地に色とりどりの花をあしらった袋帯から、薄水色の帯揚げ、青色の帯締めに至るまでそっくり同じものを身につけており、美沙とはまた違った意味で人目を引いていた。
「確かに、そうね」
美沙が頷いて同意する。
「お点前には、その人の性格や人柄が表れるって、本当ですわね」
青子が云った。
「お偉い先生方は、生徒のお点前を見れば、その人となりが解るってお話ですわ」
すごいですわねぇ、と瑠璃子が畏敬半分、驚き半分の表情で云った。
「お見通しってわけだ。……そう云えば、昔この学校では、入学試験の際、受験者全員に平点前をさせていたって、聞いたことがある。どんなに長い時間面接をするより、そっちの方が受験生のことを良く理解できたんだって」
「平点前」とは、複雑な手順を挟んだり特別な扱いを必要とする道具を使わない、茶道においては基本の手順のことである。
美沙の言に、そんな入試方法が無くてよかったと、陽菜子はそっと胸をなでおろした。
(……あ。でもそんな選抜試験だったら、もしかしたらあたし、落ちてた?)
だとしたら、惜しいことをした――のかも知れない。
はたしてどちらが良かったのだろうと、ひそかに頭を悩ませていた陽菜子は、美沙が話しかけてくれていたことに、遅れて気がついた。
「ごめんなさい。今、聞き逃しちゃいました」
「あのね、あちらにいらっしゃるのは、朝話してらしたあなたのお祖母様よね?先ほどからあなたのことを呼んでいらっしゃるみたいよ」
「えっ?」
慌てて彼女の指差す方角へ眼をやってみれば確かに、同年代らしい男女二人と一緒にいる美耶子が、にこにこ手招きをしていた。
「ごめんなさい。ちょっと、行ってきます」
短く断ってから、小走りに祖母のところへと小走りで駆けつける。
「お祖母ちゃん、何?」
「丁度良いから、お前を紹介しておこうと思ってね」
美耶子は云いながら陽菜子の背を押して、自分の前へと出した。
「孫の陽菜子です。今年から学園にお世話になりますんで、よろしくお願いしますよ」
とたん、あらまぁ、と年齢に似合わない華やかな歓声が上がった。
「みやちゃんのお孫さん!初めまして、こんにちはぁ」
「こんにち――」
三人いたうちの一人、綿菓子のようにまっ白い頭髪をふんわりと結いあげた、見るからに温和そうなご婦人が、陽菜子に向かってほんわりと微笑みかけてくれた。灰色を帯びた淡い水色の着物に金糸銀糸刺繍の帯を締めた彼女は、どこぞの良家の奥方様なのだろうと思えるような、貴族的かつ上品なオーラに包まれている。こちらを包み込んで温めてくれるようなそのあたたかな笑みに釣られてにっこり、微笑みかえした陽菜子はしかし次の瞬間、彼女が続けた言葉に愕然となった。
「本当、若いころのみやちゃんにそっくり!まるであの頃に戻ったみたい。懐かしいわぁ!」
「――は?」
(あたし、お祖母ちゃんにそっくりなのっ?)
凍りついた陽菜子に追い打ちをかけるように、傍らに立つ男性がうんうんと楽しそうに頷いた。
「なるほど、目元や鼻の形が良く似ている。道理で懐かしい感じがしたわけだ」
「中身もそっくりなんだよ。あいにくとね」
美耶子が楽しそうな口調で返す。
(うぞっ!)
ショックだった。
自分では全く似ていない――むしろ似ていたくない――と思いこんでいただけに、その言葉はひときわショックだった。
(いやでも、中身うんぬんなんて、目に見えるものじゃないし、数値がとれるわけでもない。だから美耶子祖母ちゃんの思い込みってことも……あるよね?)
そう思いたかった。
外面の薄皮一枚では愛想笑顔をキープしつつ、内心必死に祈る陽菜子を知ってか知らずか、美耶子はにこにこと続ける。
「この子は今まで全く茶道に触れたことがなくてね。全くのど素人なんだよ。だからいろいろとご迷惑をおかけするかも知れないけれど、遠慮なく、びしびし叩き込んでやってくださいよ」
陽菜子はぎょっと目を剥いた。
(いやいやいや、スパルタは厭だよ!他人事だと思って、気軽にお願いしないでよ!)
外面用にかぶった猫の皮を取り払って、素の態度で祖母を睨みつけるものの、美耶子は全く意に介そうとしない。
むろん、云われた方も陽菜子のことなど頓着せず、鷹揚に頷いた。
「ええ、任せてちょうだい」
「これは楽しみだねぇ」
「こちらの相本宗美先生は、業躰先生」
男性を手のひらで指して、美耶子が陽菜子に紹介してくれた。ちなみに業躰先生とは、これから陽菜子が習うことになる茶道流派に独特の呼称で、簡単にいえば家元直属の弟子のことなのだそうだ。
「それと、こちらの鶴来宗良先生は、」
続けて女性の方に手のひらを向ける。
「あたしと学園の同期生で、さっきの式の中でも紹介があったけれど、今も学園に講師としていらしてくださっているんだよ」
「そ、それは何と云いますか……」
三人の視線が、何かを期待するようにじっと陽菜子に注がれる。一応KY人間ではないつもりの陽菜子はもちろん、彼らが期待している次の言葉は推測できたし、それをあえて無視できるほど強い心臓は、持ち合わせていなかった。あいにくと。
それでも五秒間ほど、はかないながらも抵抗を試みたのち、陽菜子はがっくり肩と頭を落としてお辞儀した。
「……よろしくお願いいたします」
「はい。よろしく」
「よろしくどうぞ」
相本と鶴来は穏やかに頷いて返してくれたけれど、美耶子は不満そうにしかめた顔で、陽菜子を見とがめた。
「お辞儀の姿勢がなってないね。式が始まる前に習わなかったのかい?」
「……習いました。けど……」
実際、その通りにやったつもりだったのだ。どこがどう違っていて、美耶子の目にかなわなかったのか。陽菜子には全く判らなかった。
美耶子は、まあいいや、とかすかに息をついた。
「明日から、みっちり教えてもらいなさい」
「はーい」
もしかしたら、今のは単なる云いがかり的な物云いだったんじゃないのかな、などと思いながら、陽菜子は返事した。
(そうだよね。きっとお祖母ちゃんは、あたしが何をしても気に食わないんだ)
やっぱりこの祖母は嫌いだ、と陽菜子は改めて思った。