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あの日以来、陽菜子の中では二つの声がせめぎ合っていた。真面目にお茶に打ち込もうとしようとすればするほど、
――所詮は遊び。遊芸に真剣に打ち込んでも仕方がない。
と云う声が聞こえて来て、陽菜子をあざ笑うのだ。
そうじゃない、遊びじゃない、とその度ごとに陽菜子は打ち消そうと努めた。けれど、否定しきれなかった。
だって、その声は陽菜子自身のものでもあったから。
沙織に云われる前から、陽菜子も思っていたのだ。お茶は遊び。趣味の習いごと。お茶の先生やお茶人と呼ばれる人たちだって、だから大して偉いものじゃない。云ってみればカルチャスクールの講師のような存在なのだと。
学園に来て、学者や研究者もかくやというような広範かつ深淵な知識を蓄えた先生方にお会いして、陽菜子のそうした思い込みは間違いだったと気がついた。彼らは知識やお茶に対する造詣はもちろん、茶道に向き合う姿勢は傍から見ていて恐ろしいくらいに真摯かつ真剣だった。身を削るような、人生を賭して茶と対峙する彼らの姿を一たび目にすれば、お茶は単なる遊興だなんて、間違っても云えなかった。
けれど、だからといって長年の思い込みが全部消えてなくなるわけではなくて、……
結果として、同じところをぐるぐる廻るような、思考の袋小路に迷い込んでしまった。
「悩んでいるね、青少年」
美沙がそう云って陽菜子の背後から肩を抱いてきたのは、金曜日の放課後のことだった。黙々と帰り支度を進めていた陽菜子は、肩に腕を回された瞬間こそ、びくりと身体をすくめたものの、相手が美沙だと判ると、ふっと肩を落として息を吐いた。
「美沙さんでしたか」
「あらぁ。本当に元気ないのね」
大丈夫、と顔を覗き込んでくる美沙から微妙に目をそらして、陽菜子は曖昧に頷いた。
「大丈夫です」
「そう?じゃあ、飲みに行こうか」
にこにこ咲う美沙を、陽菜子はあきれ顔で見返した。
「何で、そう云う話の流れになるんですか?」
「この間ね、四条河原町で良いお店見つけたの」
「いやあの、そう云うことは聞いていないんですけれど……」
「イタリアン系の料理を出すお店で、なかでも炭火焼が売りなんだけれど、他の料理も美味しいの。お値段もリーズナブル。それに何より、置いてあるワインの種類が豊富!フランスイタリアスペインドイツチリ……、ボトルなら常時三十種以上、グラスワインも十五種類は揃えてあるの!ね、凄いでしょう」
「それは確かに、魅力的です」
いつの間にか側に来ていた晶子が、目をキラキラさせて話に加わった。
「あら、晶子ちゃん。じゃああなたも行く?」
「はい!私、ワインが大好きなんです!」
「よーし。じゃあ、今日は三人で四条河原町に繰り出そうか!」
「はい!」
盛り上がる二人に、陽菜子は疲れた声を絞り出した。
「あの、あたしは別に、行くとは云ってないんですが」
寮から四条河原町までは、バスで三十分ほどかかる。こんな鬱々とした気持ちで遠出するだなんて、考えただけでも億劫だった。だから断ったのだけれど、美沙は聞き入れなかった。
「せっかくの金曜日だし、寮にこもってたらもったいないでしょう?明日のことを考えないで、飲みに出かけられるチャンスなんだよ?」
「いやだから……」
本気で拒否にかかった陽菜子を、美沙はにっこりと、有無を云わさぬ迫力をたたえた表情で黙らせた。
「あのね。気持ちが落ち込んだ時は、まず身体を甘やかしてあげるの。美味しいものをお腹いっぱい食べて、美味しいお酒を飲んで、身体がごきげんになったら、気持ちもそれに釣られてちょっとは上向きになるからね。何もしないで一人で膝を抱え込んでいても、鬱々として落ち込むだけだよ」
「……」
美沙の云うことにも一理あるかなと、陽菜子は思った。それに、……
(心配してくれてるんだよね?)
自分では隠していたつもりだったのだけれど、美沙は年の功で――と云うと、美沙はきっと怒るだろうが、事実だ――気づいていたのだろう。それで、気遣ってくれたのだ。だったら、厚意はきちんと受け取らなければいけない。
「じゃあ、……行きます」
陽菜子が頷くと、美沙は嬉しそうににーっこりと、花が咲くように咲った。
「よーし!じゃあ、今夜は四条河原町だあ!」
飲むぞお――と美沙が気勢を上げ、晶子がそれに追従する様子を見た陽菜子は、内心首をかしげた。
(あたしのこと心配して、励ましてくれようとしてる……ん、だよね?)
そんな推測に対する自信は、美沙の案内でたどり着いた店に落ち着くと、さらに喪失した。
「ここのボトルワインがまた、種類が豊富でねえ。いろいろ試してみたかったんだけれど、一人で来ると、さすがに何本も空けられないでしょう?それで一緒に来てくれる人を探していたんだぁ」
店に着くなり早速注文した白ワインを味わいながら、美沙は嬉しそうに云う。
「そう云うことなら、いつでも喜んで、お相伴させていただきますわ」
美沙さんの探してくるお店は外れがありませんから、と晶子もかぷかぷと、水のようにグラスを干す。
「陽菜ちゃんは、飲んでるかなぁ」
「はい。美味しいです」
実際、ワインも、その日入荷した素材によって日替わりで提供してくれる料理も、みんな美味しかった。
陽菜子たちはそれぞれ、前菜二種と炭火焼の軽いメイン、そしてパスタとドルチェのついた軽いコースをお願いした。前菜二種のうちの一種の献立とメインの素材、そしてパスタのソースが客の方で指定できる、かなり自由度の高いコースで、美沙は生ハムサラダ、晶子はチーズの盛り合わせ、そして陽菜子は豚肉のパテをお願いした。それぞれ一口ずつ交換して味見をしてみたら、どれもワインに合う、理性の飛ぶような美味しさで、陽菜子はしばらく無言で、年頃の乙女にあるまじき食に対する集中力を見せて瞬く間に完食した。
美沙と晶子は、陽菜子ほどの速度ではないものの、やはり美味しそうに、ワインと交互に料理を口に運んでゆく。
前菜のもう一種は、スズキのカルパッチョだった。バジルの風味がふわっと口に広がるジェノベーゼソースと、皿の上から全体にかけられた大粒の海塩の加減が絶妙で、これまたワインにあう。
(ああ、もう。どうにでもなーあれ)
やけっぱちな気持ちで、陽菜子はワインを煽った。
程よく冷やされた白ワインはフルーティで、ジュースのようにさらさらと陽菜子の咽喉を通り過ぎて行った。
「だぁからですね。あたしはぁ、めっちゃくちゃ腹たったわけですよう」
……おおよそ一時間後。
陽菜子は真っ赤に上気した顔で、沙織との間に起きた出来事を、愚痴交じりに二人に話していた。「なーんであんたにそんなこと云われなくちゃいけなんだって。あんたは結局、一人で何かを始める気力も度胸も無い、単なるあまちゃんなんじゃない。お父さんお母さんの脛をがりがりかじっておきながら、なーにが売れっ子ゲームのシナリオライタになる、だ。なれるもんなんらなってみろっつーの!」
手に握り締めたワイングラスをだんっと、カウンターに勢い良く叩きつける。「おかーり!」
「はいはい」
陽菜子の酔態を楽しむように、美沙がボトルのワインを注ぐ。
「陽菜子さん、今日は荒れていらっしゃいますねぇ」
白皙の肌を僅かに紅に染めた晶子が、やはりグラスを干しながらのんびりと云った。
飲み過ぎだろう少しは控えなさいなどと、理性的に注意してくれる人物は、その場に存在しなかった。あいにくと。
「陽菜ちゃんは、友離れ期に入ったのね」
自分のグラスに、残りのワインを注ぎ切りながら、美沙が云う。その隣では、晶子がワインメニュを広げて、新しく注文する品を選び始めていた。
「ともばなれきぃ?」
「私が勝手に作った言葉なんだけれど、ほら、親離れ子離れって言葉があるでしょう。それまでぴったりと、まるで一人の人のように一緒にいた親子が、互いに互いは自分と別個の人間なんだって認識して自立する時期のことなの。それまで親子は精神的にもぺったり隙間なく張り付いていたから、離れるのは凄く大変だけれど、その痛みも含めて、成長の証なの」
「へぇ。美沙さん、よくしってるねぇー。さすが年のこ……」
「うるさい」
ぐでんぐでんと、テーブルに上半身をあつける陽菜子の頭を、美沙はぺしっと、容赦なく叩く。「それと同じことが、女の子同士の友だちの間にも起こるのよ。ほら、女の子の友だちづきあいって、本人たちの性格にもよるけれど、それこそ四六時中糊で張り付けたようにぴったり一緒、ってことがままあるでしょう?学校では、トイレ行く時まで一緒、放課後ももちろん一緒。それぞれの自宅に帰ったら、携帯やパソコンのスカイプなんかを活用してつながり続ける。一緒の時間を共有して、考え方も一緒に揃えて、二人なのに一個の人間のようにふるまうことが、友情だって思ってる」
「それ、高校の時のあたしと沙織だ」
当時のことを思い出した陽菜子はうっすら涙ぐむ。「楽しかったなぁ……」
けんか別れこそしたけれど、沙織と過ごした三年間が楽しかったことまでは、否定できない。
ぐずぐず鼻をすする陽菜子の頭を、美沙はくしゃっとかき混ぜた。
「そうね。いっときなら、そんな人間付き合いを経験するのも良いことかも知れないわね。けれど、二人は二人で、同じ人間じゃないんだから、いつまでもそんなことはできないでしょう?いつかは、それぞれ自分の道に帰って行かなければいけない。この場合の自分の道って云うのは、自分で自分の人生を決めて、動いて、その落とし前も自分でつける覚悟を決めることね。それが一個の大人として必要な心構えなの。これができないと、何歳になっても、常に誰かと一緒にいたがって、周囲にべったり依存しておきながら、いざとなると『○○さんが良いって云ったんじゃない。だからやったのに』って他人に責任転嫁する無責任な人になるのよ」
「経験がおありなんですか?」
晶子が、新しく来たロゼワインを嬉しそうに飲みながら訊いた。
「どこにでもいるのよ。そういう人って」
ロゼワインを自分のグラスに注ぎながら、美沙は顔をしかめる。「年齢も関係ないしね。面倒くさいの」
「らからと云ってれすよう、」
自分のグラスにもロゼワインを注げと、グラスを持ち上げてねだりながら、陽菜子は唇を尖らせる。「あたしが毎日遊んで暮らしてるって、あんなこと決めつけて云う権利は、沙織には無いれすよぉ。そもそもお前はお茶の何を知ってるんらって話。学園での生活の何を知ってるんらっつーの。知らないのに知ったような口きくなぁ!」
「でも、沙織さん台詞って、云ってみれば世間一般の認識ですよね」
美沙の手からボトルを取り上げて、陽菜子のグラスに注ぎながら、晶子が云った。「お茶は趣味遊び。そんな世間知になっていることを、いわゆるお茶人と云われている、茶道に真剣に向き合っていらっしゃる方々は苦々しく感じていると、以前どちらかで耳にした覚えがあります」
「お茶を習いたいって人の中にも、色んな志望理由があるから、それは仕方ないと思う」
美沙が冷静に云う。「所謂平点前の順や飲み方を覚えれば十分、あとはそのお社中で仲良くお茶飲みしたいわっていう、云ってみればカルチャ教室の気分で習いに来ている人もいれば、ゆくゆくは茶人として独り立ちしたいって人まで、十人十色だからね」
「あたしは遊び暮らしてなんかない~」
「とどのつまり陽菜さんは、お友だちに自分が遊び暮らしていると思われて、面と向かって云われたことがショックでしたのね」
「あたしは、遊んれなんかない~」
「はいはい」
美沙は、陽菜子の背中をポンポンと叩いて慰める。「陽菜ちゃんは、毎日頑張ってるものね。……でも私思うんだけれど、お茶ってある意味、遊びの一種なんじゃないかな」
「美沙さんったら!そんなこと云うんら~!!」
「この場合の遊びって云うのは、機械なんかの組み立て部品の結合に作るゆとりのことね。このゆとりが無いと、部品に急激な力がかかり過ぎて、摩耗や破損が激しくなる場合があるの。だから、機械としては必要不可欠な余裕なのね。他に、機械が稼働する際に遊びが必要な場合もあるわね。車のハンドルにも、ある程度の遊びがあるでしょう?これが無いと、反応が激しくなりすぎて、かえって事故が起きやすくなるのよ」
「へえ~。よくご存じれすね~。やっぱりとし――」
「年の功云うな。それで、お茶ね。茶道も、世間におけるこの遊びなんじゃないかって、そう思う時がある。この社会に対する余裕ね。余裕が無いと、みんなぎすぎすしてしまうでしょう」
「確かにお茶は、余裕が無いとできないことですよね」
晶子が頷いた。「私たちが毎日学園で頂いてます生菓子がお幾らか、ご存知ですか?同じものをそれぞれのお店で買おうとしますと、五〇〇円くらいかかるんです。本当にお腹が空いて空いて余裕が無い時に、一口二口で終わってしまう生菓子なんて、どなたも買われないですよね。五〇〇円あれば、おうどんや牛丼のチェーン店で、お腹いっぱい食べることができますもの。つまり、生菓子を買ってお茶の点前をしようと思い立つこと自体が、精神的にも物質的にも余裕のある証なんです」
「なるほどねぇ……。ところであきちゃんは、あのチェーン店に行ったことあるの?」
「いえ、無いです。何となく入りづらくて……。興味はあるのですが」
「なるほどねぇ」
二人の会話を、陽菜子はうつらうつらと、半ば夢見心地で聞いていた。
「陽菜ちゃん?……って、潰れたか」
「では、タクシで寮まで帰ることにいたしましょう。……と云うことは、もう一本空ける時間余裕ができたと云うことですね」
「確かに。じゃあ今度は何にする?」
楽しそうに相談する二人の声が遠ざかる。
その夜は、車の運転をする美沙と、助手席で生菓子を頬張る晶子を眺めつつ、後部座席でお茶を点てる自分、というわけのわからない夢を見た。