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高い木々が密集して生える糺の森に一歩足を踏み入れると、空気がすっと涼味を帯びた。
気のせいではない。見上げれば、青空が見えないほどうっそりと枝葉が茂っている。あれらに遮られて、強い日差しもさほど入ってこれないのだ。かといって、森の中には暗くてじめじめした、というような陰鬱とした印象はない。すっとまっすぐ天を突くように高く伸びている木々が多いせいか、厳かで清い印象を受ける。住宅地に囲まれた、交通量の多い大きな道路がすぐ近くを通っているとは思えないような静けさだ。
静謐、という言葉を、陽菜子はここに来るごとに思い出す。
「涼しいね」
陽菜子の隣で沙織も、ほっとしたように息をついていた。「それだけじゃなくて、何て云うか……背筋がすっと伸びる感じがする」
「下鴨神社が建てられるよりはるか以前から、この土地を守ってきた森だからね」
原生林なんだよ、と陽菜子は学園の授業の一環でここを訪れた際、教えてもらったことを口にする。「原生林と云っても、ある程度人の手が入っているそうだけれどもね。今も東京ドーム数個分の面積があるんだけれど、応仁の乱で燃やされる前は、その3倍はあったらしいよ」
「応仁の乱って、京都の人が『こないだの戦争』って呼ぶヤツだよね」
「それは、……聞いたことないなぁ。ネタとして、よその人が云うのはよく聞くけど」
雪や高矢など、生粋の京都人と会話していても、そんな云い方は出てきたことがない。
「そうなんだ。ネタなんだ」
沙織は残念そうに首をかしげ、……
「かゆい」
伸びた首筋をがりがりかきむしった。「蚊がいる!」
うわあ、もう4か所も刺されてる!と露出した腕や足を確認しながら沙織は叫ぶ。
「そうそう。ここって結構、蚊がいるんだよね」
水や緑が豊富で、かつ常に人の気配があるせいか、糺の森はこの季節、蚊の住処ともなっているのだ。
「陽菜子は刺されないの?」
騒ぐ沙織を前に恬然としている陽菜子に、沙織が不思議そうに訊ねる。
「あたしは、虫よけスプレしてきたから」
水と緑の多い神社仏閣の境内や鎮守の森は、この時期虫が大量発生する、野趣あふれる環境と化すのだ。そのことを知っていた陽菜子は、出がけに虫よけスプレを塗ってくることを忘れなかったのだが。
「ずるい!」
沙織から拗ねたように睨まれた陽菜子は、戸惑った。
「いや、ずるいって云われても……」
神社に緑が多いのは知れたことだし、緑が多ければ虫も大量発生するなんて、それこそ考えるまでもないことだろう。実際、緑が多い環境にある学園では、毎日蚊との戦い――もしくは人間が一方的に献血することを強いられているのだ
「近くのコンビニで、かゆみ止めと虫よけ買う?」
糺の森は住宅地に囲まれているので、付近にはちゃんと、コンビニもあるのだ。だから恐る恐る、遠慮しいしい陽菜子がそう提案すると、沙織は少し迷うそぶりを見せたものの、
「いい!」
と首を振った。「先に清貴様との思い出の場所に行くの!」
「さよですか」
「そうなの。だから泉川に行こう!」
虫さされのかゆみを振り払うように、沙織はすくっと立ち上がって歩き始める。陽菜子は慌てて後を追った。
「そっちじゃないよ。こっちこっち!そっち行くと、別の出口に行っちゃうよ~」
すたすたと勢いよく歩いていた沙織は、照れ隠しのように、これまたさかさかと急ぎ足で引きかえして、陽菜子を追いこしてゆく。陽菜子は慌ててそのあとを追いかけた。
「待ってよ~」
聖なる森に似つかわしく、糺の森には、何本か清水の流れる小川が通っている。そのうち、沙織が目指す泉川は、もとは高野川の支流であり、境内に源泉のある御手洗川を取りこんで、糺の森の東側を静かに流れている。特に護岸工事などがなされていない小川は、はるか昔を偲ぶに足る、静かなたたずまいでさらさらと続いている。
ゲームでは、主人公を護ろうと一途になるあまり体調を崩してしまったのに、それでもなお無理をして戦いに身を投じ、結果として念に取り憑かれてしまった清貴を救うため、危険を承知で御手洗池を訪れようとする主人公を、主人公を想う心と、主人公を狙う念が体内で融合した清貴が追ってくるのだが、その主人公と清貴が邂逅する場所が、この泉川のほとりなのだ。
「あああああっ!本当に、あの場面通りの背景だ!」
感激するあまり、奇声を発する沙織をなだめすかしつつ、彼女が満足するまで、携帯やデジカメで記念撮影を行うことおおよそ20分。
「ありがとう!おかげで長年の夢がかなったよ!」
陽菜子から受け取ったデジカメの画面を確認しながら、沙織が満面の笑顔で礼を云う。
「お役にたてて何より」
陽菜子はげっそり疲れた顔でそう頷いた。
(他人の目が痛い……)
どうして人間は、すぐ傍にいる他人のテンションがあがると、自分は反対に醒めてしまうのだろう。はしゃぎながらゲームの思い出を語ったり、思い出のポーズを模す沙織を撮影しながら、陽菜子は、自分たちを見つめる他の観光客や、地元の人たちの目が気になって仕方がなかった。
(あたしが乙ゲー語る時も、こんなテンションなのかな?)
だとしたら、今後話す時と場所には気をつけようと、そう思った。
「じゃ、行こうか」
一刻も早くこの場を立ち去りたかった陽菜子がそう云うと、沙織は、
「せっかくだから、参拝して行こうよ」
と云いだした。
「参拝?」
「だって、ここまで来て本殿にお参りしないで変えるだなんて、無礼でしょ?」
「それはまあ、……」
その通りだと納得した陽菜子も、しぶしぶ頷いた。
「じゃ、行こう!」
陽菜子の心中を知ってか知らずか、沙織は元気よく、また前に立って歩き始めた。
陽菜子はこれまで知らなかったのだけれど、神社にもお参りの作法と云うものがあるのだそうだ。
「まず最初に小さく礼、次いで前より大きくもう一度礼をして、二度柏手を打って、お祈りするのね」
事前に調べてきたという沙織が教えてくれた。「お祈りが終わったら、最後にまた一礼するの」
それぞれの所作の詳しい理由まで教えてくれる沙織に、陽菜子は素直に感嘆した。
「あたし、神社はお賽銭投げて柏手打てばそれでいいって、そう思ってた」
「こういう決まりごとはきちんとしないと、神様にも失礼でしょう」
「そっかー」
教えられたとおりにお参りを済ませると、沙織は晴れ晴れとした笑顔で改めて陽菜子に礼を云った。
「ありがとう、陽菜子のおかげで京都に来た第一の目的が達成できたよ」
「もう気はすんだの?」
「とりあえず、下賀茂神社ではね」
そうしたら次はどこに行く、という陽菜子の問いかけに、沙織はにっこり、
「けっこう歩き回ってのども乾いたし、お茶飲まない?」
「そうだね。じゃあ、名物の申餅でも食べる?」
境内の休憩所を指して陽菜子が提案すると、沙織は「それもいいけれど、」と軽く首を傾げて提案した。
「町屋カフェに行かない?」
「町屋カフェ?」
「そ」
彼女の調べたところによると、神社から歩いて五分もしないところに、町屋を改造した雰囲気のいい喫茶店があるのだそうだ。
「和スイーツが豊富でね、美味しいんだって。最近開いたばかりのお店で、ガイドブックには載ってないけど、ネットでは評判いいの」
「へえ、いいねぇ」
沙織の携帯でそのお店のホームページを見せてもらった陽菜子も、一も二もなく賛成した。
「じゃ、行こうか。こっちみたいだよ」
沙織の(携帯の)案内で歩くこと少し。何でもない住宅街の一隅に、ひっそりと隠れるようにしてそのお店はあった。
「うわぁ、……かわいい!」
「だねぇ!」
店主の好みなのだろう、観葉植物とパッチワークキルトの作品がさり気なく効果的に配置された店内は、お店と云うよりも誰か知人か親類の私宅のようで、ほんわりと暖かな、くつろげる雰囲気だった。
「ここにこんなお店があるなんて、全然知らなかった」
ペチュニアやベゴニアなど、色とりどりの花々が夏の陽射しに照らされてゆったり咲き誇っている中庭に面した席に案内されるなり、陽菜子は興奮を抑えた声でそう沙織に話しかけた。
「私もネットで偶然見つけたお店なんだけれど、本当に、いい感じね」
漆喰塗の壁面の一方には作り付けの書棚があって、絵柄のかわいい外国の絵本やパッチワークのぬいぐるみ、ガラスのオーナメントなどが飾られてある。お店の人に聞いたところ、飾ってあるパッチワーク作品は皆、オーナの手作りなのだという。
「メニュもおいしそう。何にしよう……?」
パッチワークキルトの表紙を開いた二人は、額を寄せ合って、真剣に悩み始めた。
「一応訊くけれど、抹茶パフェとか抹茶シフォンケーキとか、陽菜子はもう平気?」
「うん、抹茶そのものに対する苦手感情は消えたから、食べられるよ」
「なら、これを頼んでも大丈夫か。どうせならそれぞれが頼んだケーキやお菓子はちょっとずつ交換して味見したいもんね。……ああ、でも迷うなぁ……っ!」
散々悩んだ末に結局、陽菜子は葛切りにアイスグリンティを、沙織は生菓子と抹茶のセットをそれぞれ頼んだ。
「しっかし、今日は陽菜子が来てくれてよかったわ」
注文を終えてから、沙織がしみじみそう云った。
「どうして?」
確かに、写真を撮るにはある程度役に立ったかも知れないが、それだけだ。昨日も無事に「清貴様との思い出の地巡り」を終えた沙織なのだから、今日だって、陽菜子がいなくても観光はできただろう。そんなことを沙織に告げると、彼女は、
「観光は良いのよ、観光はね」
と顔をしかめた。「問題は、食事。ほら、一人でレストランやカフェに入るのって、恥ずかしいでしょ?」
おかげで昨日は、昼はハンバーガショップ、夜はコンビニで買った弁当をホテルの部屋に持ち込んで済ませたのだそうだ。
「せっかく京都に来たのに、こんな貧しい食生活しなければいけないだなんて、悲し過ぎるじゃない?」
「だったらお店に行けばいいのに」
京都のお店を知らないと云うのなら、今沙織がしたように、ネットやガイドブックで適当な店を探して行けばいいだけの話だ。そう云うと、沙織は両目を見開いてかぶりを振った。
「無理よぅ。一人でお店に入って食事するだなんて、本当に、無理」
陽菜子だってそうでしょうと訊ねられた陽菜子は、首をかしげた。
「あたし、京都に来てから週末は大体、一人で出かけてるし、食事の時間になったらそこらへんのカフェや喫茶店に入るけど?」
大学や専門学校の多い京都市には、学生層をターゲットにしたおしゃれなカフェや喫茶店が多い。開放的な作りの店が多いので、陽菜子も気後れせずに気楽に入って利用しているのだが。
そんな話をすると、沙織は本気で驚いた。
「えええっ!何でそんなことできるの?陽菜子、今行ってる学校に友達いないの?」
「いるよ、もちろん」
ただ、朝起きてから夜眠るまで、四六時中顔を突き合わせて協力し合う生活をしているせいか、週末などの休みの日まで学園の友人たちと一緒に行動したいとは、あまり思えないのだ。
おかげで陽菜子も「おひとりさま」に慣れてしまった。
そう説明しても、沙織は頑として受け入れない。
「おかしいよ!ひとりでそんな風にふらふら出かけられるだなんて、絶対おかしい。さびしいじゃない!」
「そうでもないよ」
何度云っても納得してくれない沙織に、陽菜子は少しうんざりした。
(どうして、自分と違う価値観や行動をする人もいるって、思えないのかな)
沙織はこんなに狭量な子だったかな、といぶかしく思った。