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伝統の古き都と謳われる京都の玄関口というイメージとは裏腹に、京都駅は近代的な外観をしている。
建てられた当初は賛否両論の意見が喧々囂々寄せられたと云う、ガラスと鉄骨の目立つ壮大な建築物は、左右に百貨店やホテル等を抱き込んで高く高くそびえ立ち、古き都を睥睨する。中央口前広場に設置されたバスターミナルを挟んで向かいにそそり立つ京都タワと並んで、今では京都の代表的な建築物だ。
駅には各鉄道路線やバス、地下鉄などが集中してつながっているため、日々の利用者数も膨大だ。加えて土日ともなれば、大勢の観光客がこれに加わるため、混雑は想像を絶するものとなる。
バスから降りたった陽菜子は、とたんむわりと全身を包み込んだ熱気とともに、目の前に展開する人ごみに、思わず眉をしかめた。
ささやかな規模の地方都市で生まれ育った陽菜子は、雑踏が苦手だ。人波にもまれていると、酔ってしまいそうになる。
(沙織はどこにいるかなぁ……)
待ち合わせは京都駅中央口前でと、漠然と決めるのみにとどめてあった。陽菜子が、細かく指定できるほど京都駅前に詳しくないと――京都市でも北の方で暮らしている陽菜子は、京都市の南端にある京都駅にはほとんど用が無いのである――云うと、沙織が、いざとなれば携帯で連絡を取り合えるから大丈夫だよね、と楽観的に云い切ったのだ。休日の京都駅前の混雑ぶりを何度か経験している陽菜子にはそれは、あまりお薦めできる考えではなかったのだが、沙織は東京の人ごみで慣れているから、と云い切った。そうまで云われて、それ以上抗弁する気も気力も出なかった陽菜子は、云われるままそれを飲みこんだ。
(会えなかったらこのまま、帰っちゃっても……良くないよね、やっぱり)
大変心ひかれる行為だが、それは人間として、してはいけないことだろう。やはり。がっくりうなだれた途端、首筋から汗の粒が流れて肌を伝わり落ちていった。
厚い雲に覆われた京都は、今日も蒸し暑かった。
バスターミナルから駅の中央口前までゆっくり、人の流れに乗りつつ日陰を縫うようにして歩きながら、陽菜子は前方に目を凝らした。
日曜日の京都駅前広場は、人で溢れていた。
大きな旅行鞄を抱えたカップル、声高に何事かを話しながら大勢で移動する観光ツアの集団、大きなリュックを背負った外国人バックパッカ、小ぶりなカートをからころ引きずる初老の夫婦、……
観光ガイドブックを片手に右往左往する大勢の観光客の間を縫うように、地元民がややうんざりしたような無表情でさっさと歩き抜けてゆく。うんざり顔なのは、この人出もそうだが、蒸し暑さも原因なのだろうと、陽菜子は推測する。周囲を山に囲まれた盆地に展開する京都市は、夏の暑さが逃げにくい構造になっている。
額やこめかみや首筋や、際限なく浮いてくる汗をぬぐいぬぐい、のろのろとした足取りで駅建物前に歩いて行く。
(いない、なぁ……)
アクリルガラス張りの案内板の前できょろきょろ、周囲を見回していると。
「陽菜子?」
うわぁやっと会えたひさしぶりぃ、という朗らかな咲い声と共に、肩をぽんぽんと軽く叩かれた。
「沙織?」
振り返って見た陽菜子は、驚いた。「びっくり。変わったねぇ!」
陽菜子の記憶にある沙織は、黒縁の眼鏡をかけ、背中の半ばまで伸ばした黒髪をいつも適当に結んでいた。年相応に身だしなみこそ清潔に保っていたものの、それ以上目立つところは何もない、どこにでもいる女子高生だった。
それが。
「そう?」
肩にふわりとかかる栗色の髪を払いのけて、沙織はやわらかくほほ笑んだ。
2年ぶりに会った彼女は東京の女子大学生らしい、華やかな雰囲気を身にまとっていた。
よくよく手入れされて柔らかな艶を放ちつつゆるいカールを描くセミロングの栗色の髪。ラインストーンを散りばめた、凝ったネイル。洗練された化粧。コンタクトにしたのだろう、ほほ笑む両目は記憶にあるよりおおきくて、長いまつ毛とブラウン系のシャドウが印象的だ。近寄るとふんわり、あまい花の香に似た香水が感じられる。きっとブランドものなのだろう、水色地にバラ色の花柄が散ったひざ丈のノースリーブプリーツワンピースに軽やかなミュールを着つけ、露出の多いデコルテは、昼の明かりをはじいてキラキラきらめくガラスビーズのネックレスが飾っている。
雑誌から抜け出したようなきらびやかなコーディネイトに身を包んだ沙織は、陽菜子がこうなりたいと胸に描いていた大学生そのものだった。
「陽菜子は全然変わってないねぇ。すぐに判ったよ」
朗らかに咲う沙織に、さっそく陽菜子は胸をえぐられた。
(これでも一応、コーディネイトとか気を遣ったんだけどなぁ)
陽菜子が今日着ているのは、紺色地に白の水玉模様の、半袖ひざ丈のワンピースにレギンス。足元はハイカットの紺色スニーカ。手に持っているのは、最近寺町京極のセレクトショップで買ったマルシェバックだ。ざっくりした外観と革の持ち手、それにセットで中に入れて使う木綿製の巾着袋のプリント模様が可愛くて気に入っているのだが、沙織が下げるルイヴィトンモノグラムのトートに比べると、チープ感が半端ない。
(ガキっぽいよね、たしかに)
がっくり落ち込む陽菜子の胸中に気付かない様子で、沙織ははしゃぐ。
「良かった。陽菜子が着物で来たりしたら、どうしようかって、ちょっと心配してたんだ」
「着物で?この暑いのに、そんなことしないよ」
「やっぱり、着物は暑いんだ」
「洋服の時と、感じる暑さの質は違うけどね。着物は伊達締めで胸のすぐ下をきゅっと締めてるせいか、首から上はあんまり汗をかかない気がするし、首筋や腋や足元とかが開いているから、そこから風が通って、思ったよりも涼しく感じられるよ。むしろ洋服の時の方が、全身から際限なく汗が出てくるから、タチ悪いし気持ち悪いわ」
「そうなんだ」
長いまつげをぱちぱちと瞬いて、沙織は感心する。
「とはいえ、暑いことは暑いし、まったく汗をかかないってわけじゃないから、脱いだ後の手入れや洗濯が大変なの」
長襦袢や肌襦袢は洗える物を使っているから洗濯機に任せて構わないのだが、問題は気軽に洗えない着物と、構造上洗うことのできない帯だ。京都の半端ない暑さの中では、少し動けばすぐに夏帯の上までにじむくらい大量の汗が出てくる。汗汚れもある程度までは、霧吹きで真水を吹いた後、風に当てることで飛ばせるが、それでも限度はある。汗臭い物を着こむだなんて、陽菜子は絶対したくなかった。「だから自分から好き好んで着ようとは思わないな。普段厭でも着なくちゃいけないんだし。休みのときくらい、好きな格好してたいわ」
「そっかー」
沙織はくすっと咲った。「前言撤回。陽菜子は変わったね」
「そう?」
「うん。何て云うか……余裕?が感じられる」
「よゆうぅ?」
何それ、と陽菜子は眉根を寄せる。ただでさえ沙織に会っていっぱいいっぱい、てんぱっているのに、どうして落ち着いた余裕が感じられると云うのだろう。
(気のせい……っていうか、勘違い?だよね)
そう云うことだろうとあたりをつけて、陽菜子は強引に話題を変えた。
「で?どこに行く?」
睡眠時間を3時間にまで切りつめて、ガイドブック十数冊を読みこんだ今の陽菜子に隙はない。
(西京区、右京区、北区、上京区、中京区、下京区、南区、左京区、東山区、山科区、伏見区、グルメ、観光、何でもどんと来い!)
固唾をのんで身構える陽菜子に、沙織は声高らかに、
「まずは下賀神社!糺の森!」
そう宣言した。「安部清貴様との思い出の地に行くの!」
「あー、……そう云えば沙織は、『千年の都の中で』派だったっけ」
そのテンションの高さにいささか引くものを覚えながら、陽菜子はボソボソ呟いた。
今や数社が複数の人気タイトルシリーズを作成している乙ゲーシリーズのなかでも、沙織は、京都を舞台にした『千年の都の中で』と云うゲームのファンだった。
『天使の休日』シリーズを作成しているのと同じ会社が作成していて「ロマンティック・ガーデン」にも毎月紹介記事が掲載されるため、ゲーム未プレイの陽菜子も、ストーリだけは知っている、やはりこの分野では人気のシリーズだ。
主人公は、現代日本に暮らす平凡な女子高生(やはり名前はプレイヤが好きに決められる)。彼女はひょんなことから時空のはざまを超えて、古の時代の京都を模した「都」に呼び出されてしまう。
この異世界の都には、都の平穏を護る守護神に祈りを捧げる「巫女」と云う名の位職があり、都が不穏な情勢に陥るたびに、都を救うため、守護神がこれを選んで遣わすのだという。
人間の身でありながら任意に都の守護神を呼び出して意思の疎通を図れるのは巫女だけであり、そうして守護神に頼めば時空を超えることも可能らしい。
そう聞かされた主人公は、自分が暮らしていた現代日本へ戻るため、自分の中に眠っている巫女としての素養を磨いてゆくこととなる。
このゲームにおける乙ゲーとしての要素――つまり攻略キャラクタなる美形の男性キャラクタ――は、巫女を支える「司」という役柄の男たちだ。不穏な情勢にさらされている都には、人々の不安や悲哀、それに恨みや怒りといった負の感情が凝った「念」と呼ばれるモノが数多出没しており、人々に直接かつ物理的な危害を加えている。木火土金水という五行の力を司る彼らは、主人公と行動を共にして都の各所に赴き、念を浄化する巫女の補佐をする。そうすることによって主人公の巫女としてのレヴェルも上がり、さらに大きくて強力な念を浄化することが可能となってゆくのだ。
もちろん念が出現するにはそれだけの事情と理由があるので、その根本的な原因も解決しなければならない。さもないと念は何度でも復活することとなってしまう。だから主人公は念の出没スポット周辺で聞き込みを行って、問題の事情背景を探り、司たちと協力し合って、ひとつひとつ問題を解決してゆく。
乙ゲーの攻略キャラらしく、一癖も二癖もある美形たちと悶着を起こしつつ事件を通して親密度と好感度をあげてゆき、ついには主人公をこの都に召喚した原因ともなった、巨大な念の塊と対決する――というのが、現在三作まで発表されているシリーズを通した基本的な流れである。
「念」などいう不気味なものが跋扈する異世界ではあるけれど、歴史的には現実世界とリンクしている「都」世界だから、だいたいの地理や建造物は現実の京都とほぼ同じものがゲーム中にも存在している。
ゆえに、ファンの間では「聖地巡礼」と称して京都を訪れる者も多いらしい。「ロマンティック・ガーデン」の読者投稿欄にも、そうした巡礼の旅の思い出を綴った投書が毎月何通も掲載されている。
沙織もどうやらそうした「巡礼」のために京都を訪れた口らしい。
「昨日は右京区に行って来たの。広隆寺とか梅宮大社とか仁和寺とか。清貴様とのイベント順に巡るのは、結構時間と手間がかかったけれど、でもその分感動的だったよ!」
目をキラキラさせて、沙織は話す。そのテンションのあまりの高さに、陽菜子は思わずのけぞった。
「あー、良かったですねー」
おざなりに返した相槌だのに、沙織は本気で、大仰に頷いた。
「本当に、凄く楽しかったよ!清貴さまの声まで聞こえた気がした!」
「……」
それは、幻聴と云うものではないのですか、と云う台詞を、陽菜子は曖昧な頬笑みで飲みこんだ。