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学園には本人から、欠席するとの電話連絡が入ったらしい。その日ひとつの当番にもあたっていなかった莉都の欠席は、さほど騒ぎを起こすこともなく、静かに受け止められた。
もちろん皆、同期生の急な欠席を心配したけれど、各々当番や学園での仕事に追われて、深く突き詰める暇がなかった。
別れ際の硬い表情が気になった陽菜子だとても、次に莉都のことを思い出したのは、夕刻。食堂で夕食を食べて寮の自室に戻ってからだった。
(大丈夫かな……?)
それまで忘れていたとはいえ、思い出したら急に心配になった。
(けど、体調が悪いなら、お見舞いに押し掛けるのも迷惑だろうし……)
悩んだすえ、陽菜子は向いのスーパで、プリンと、桃の果肉入りヨーグルトを買って、それらを入れた小袋に、
――病気ですか?お大事に。
と、当たり障りのないメッセージを書いたメモを同封して、莉都の部屋のドアノブにかけるだけにとどめておいた。
メールや電話、部屋の呼び鈴で知らせるわけでもなく、単に置いてきただけの見舞いの品に莉都が気がつくまで、しばらく時間が要ったらしい。莉都からお礼のメールが届いたのは、陽菜子がそろそろ寝ようかと、その日も懲りずにやり込みを続けていた「天使の休日Ⅲ」のデータをセーブして、ゲーム機の電源を落としたときのことだった。
――ヨーグルトとプリン、ありがとう。私は元気です。心配かけてごめんなさい。お礼の品を、舟生さんのお部屋のドアにかけておきます。よかったら食べてください。
慌ててドアを開けると、ちょうど小ぶりな紙袋をドアノブにかけようとしていたところだったらしい、莉都とまともに目があった。
数秒ほど、互いに無言で見つめ合う。
先日から切れかけたまま放置されている廊下の蛍光灯が、ちちちっと瞬いた。
その微かな音と明滅にはっと我に返った陽菜子は、小さく口を開いた。
「……今晩は」
夜も遅い時刻のせいか、押さえたつもりの声は意外と廊下に響いて、少し気後れする。寮の各部屋のドアは、さほど防音に優れているわけではないので、こう周囲が静かだと、廊下のしゃべり声が室内にも届いてしまうのだ。
「今晩は」
莉都はかすれてひび割れた声で微かにそう返す。陽菜子は眉をひそめた。
「あの、……こんなことを云うのもなんだけれど」
大丈夫に見えないんだけれど。
陽菜子の目の前に立つ莉都は、普段印象的な切れ長の目は真っ赤だし、涼やかなまぶたも腫れあがっている。鼻の下や頬の肌が軽く荒れていること、更に咽喉の疲れが感じられるひび割れた声などから、彼女があの後一日中泣いていたらしいことがうかがえた。
「本当に大丈夫だから」
じゃあ、と軽くうなずいて身を翻しかけた莉都の腕を、陽菜子は掴んで引きとめた。
「ちょっと話そう」
強引に部屋に連れ込んで、ローテーブルの前に座らせる。
「夜だから、カフェインの入ってないハーブティで良いかな?」
小峯から分けてもらったカモミールティをガラスのポットで淹れて、揃いのカップとソーサで出す。「はい、これ、蜂蜜。好みで入れてね」
部屋に連れ込まれて以来、所在なさげにしょんぼりと俯いて座っていた莉都は、耐熱硬質ガラス越しに淡いお茶の色彩が透けて見えるそのティーセットを目にしたとたん、かすかに口元をほころばせた。
「可愛いセット」
「気に入ってもらえて嬉しい」
四条河原町の雑貨屋さんで一目ぼれして衝動買いしたんだ、と陽菜子は自分の分のハーブティをカップに注ぎながら、ティーセットと出会った当時のことを詳しく話した。それは陽菜子にとってはかなり高い代物で、買うのは正直迷ったけれど、でもどうしても思いきることができなくて、財布をひっくり返して購入したこと。その後しばらくはお菓子も何も買うことができなくて、すごく寂しい思いをしたこと。けれどそのおかげでひと月で二キロ痩せたこと。云々。
一〇分ほどそうして陽菜子が一方的に話す間、莉都は静かに相槌を打ちながら、時折カモミールティを飲んでいた。
一通り話した陽菜子は、
「……で、」
話は変わるけれど、と口調を遠慮がちなものに変えた。「今日休んだのって、やっぱり、今朝のことが原因なの?」
莉都が答えるまで、少しの間が要った。
「うん」
私、何も知らなくて、と莉都は中身が半分に減ったカップの縁を人差し指でくるくるなぞりながら低く呟く。
陽菜子は弾かれたように首を振った。
「そんな!だって、色喪服のことなんて、あたしも知らなかったよ。与能本さんも見沢さんも、あたしたちの世代は大抵知らないんだ、文化の断絶だ、って云っていたし――」
「私ね、」
陽菜子の声が聞こえないように、莉都はぽつりぽつりと呟く。「一〇歳から一八歳まで、イギリスにいたの」
いわゆる帰国子女なんだ。
「親の仕事の都合でイギリス行ったの。かなり辺鄙な地方に住んでいたから日本人学校はもちろん、週末に日本語の学習を補佐してくれる補習授業校もなくて、学習は現地の学校で受けるのみだった。もちろん全部英語」
「……ってことは、行木さんは英語ペラペラ?だったら英会話とか教えてほしいな!」
目を輝かせた陽菜子に、莉都は静かにかぶりを振った。
「日常会話は困らない。けど、私の英語はイギリスの北の方の地方訛りで、かつミドルミドルロウアクラスの物だから、あんまり人には教えたくない。身につけても、あまり利益がないから」
「ミドルミドルロウアクラス……って、何?」
「階級の区分のひとつ。イギリスは、伝統的に階級社会で、その人が属す階級によって話す言葉が違うの」
「階級……?」
「上流階級とか中流階級とか。貴族階級や労働者階級もそれかな。イギリスは、王様や貴族様が今も普通に生きているから、今の日本にはなくなった階級ってものが、普通に存在しているの」
「話す言葉が違うって、英語じゃないの?」
「英語だよ。けれど、細かな云い回しやイントネーションが違うの。日本人が聞く機会が多いのは、王族や貴族が喋るアッパクラスか、もしくはオックスフォードやケンブリッジ大学で学んだ人が身につけるオックスブリッジじゃないかな。日本のニュースの海外枠で流れるのはそのあたりだから。けれど、あれをしゃべるのはごくごく一部の限られた人たちだけ。そうしてイギリス人は、相手の口調でその人の属する階級を聞き分けて、本能的に接し方を変えるの」
「それって、差別?」
「違う。区別。自分と違う階級出身の相手とは、価値観や考え方が違うでしょう?イギリス人は、無理に相手に合わせようとせず、互いに互いの価値観や考え方を尊重しようとするの。つまり自分が相手の方に踏み込まないから、相手にも踏み込んでくれるなって、線を引くのね。彼らの大部分は自分が引いた線のうちに生涯閉じこもって、決してこれを踏み越えようとはしない」
「でも、違う考え方に接するのも、良い刺激になるんじゃないの?」
「京都市と同じくらいの規模の地方都市をまるごと所有するような大貴族と、日雇いの労働者に共通の話題があると思う?話し合ったところで、何か良いことがある?」
「それは……やってみないと判らないし」
「せいぜい、雇用枠と労働者の権利を拡大してくれって、労働者が嘆願して終わり。そんなの会話じゃない」
もちろんこれは、日雇労働者を貶める意図はないの、と莉都は云う。
「これはたとえね。大貴族も日雇い労働者も、どちらもイングランド社会を形作る要素のひとつだから。思いついてあげてみただけ。そうして私の話す英語だけれど、」
ミドルミドルロウアクラス、つまり中産階級の真ん中、それもちょっと下より。
「イギリスにごまんといる中産階級の、微妙に真ん中から下寄りの立ち位置にいる人間の話す英語なんて、憶えても良いことないよ」
淡々と話す莉都を見つめること少し。
「行木さんは、イギリスに良くない思い出があるの?」
陽菜子の問いに、莉都は苦笑した。
「否。あっちの生活はそれなりに楽しかったよ。もちろん生粋の――先祖代々のイギリス人じゃないってことでこうむる不便はあったけれど、だからといって暮らしにくいってことはない。私には兄と弟がいるけれど、二人ともイギリスに永住するつもりらしいしね」
「お兄さんと弟がいるんだ。行木さんに似てるの?」
「外見は、そっくりだってよく云われた。けど、向こうの人には日本人の顔立ちの区別がつきにくいせいもあるんだと思う。実際、家族の中ではあまり似ていないって認識だった」
「似てないんだ」
「私は父親似だし、兄と弟は、母方の祖母の顔立ちだから。本当に似てない。それで、その兄と弟だけれど。階級社会に接したふたりが見せた反応は、対照的だった。兄は、上に食い込んでやるって、オックスフォードに行って、ロンドンの老舗店に幹部候補生として就職したし、」
「凄い!」
陽菜子の心の底からの讃嘆を、莉都は淡々と受け流した。
「弟は、高校卒業後に地方の雑貨製造会社に事務で就職して、今はアラブ人の彼女がいる」
おかげで色々と大変らしいと、莉都は云う。
「どうやら弟は、イギリスに住む日本人と云う少数枠のなかで、更に少数枠に属することを選択しているみたい。それが意識してのことか、無意識のことかはわからないけれど。中学の頃に出来た初カノは中国人だったし、次はインド人。とにかくいつも、日本人以外の有色人種《カラード》を選んでいたな」
「ふーん、……行木さんは、初彼は日本人だったの?」
陽菜子の好奇心から発した問いかけは聞こえなかったふりをして、莉都は言葉を継いだ。
「イギリスに住んでいるうちに、私は、自分が日本人なんだってことを強く意識するようになった。だから、大学は日本《こっち》のを選んだんだけれど、八年間日本を離れていたせいで、私は、日本人なら知っていて当然ってことを全く知らない。日本人なら判って当然ってことも、全然判らない」
「色喪服のことは……」
「色喪服のことは、単にきっかけ。血統と外見は日本人でも、中身が日本人じゃない。日本人なら知っている常識をあんまり知らなさすぎる。かといってイギリス人でもない。そんな中途半端な人間が私なんだって、そう思ったらなんだか悲しくて……」
莉都は俯いて鼻をすすりあげた。
泣くのかな、と陽菜子が心配して見つめる中、莉都は深呼吸をひとつ、陽菜子に、無理やり作ったともろに判る笑顔を向けた。
「そんなわけで、今日は学校をさぼっちゃったの。心配かけてごめん」
そんな風にほほ笑まれて、そんな風に云われたら、陽菜子にはもう、弱弱しくかぶりを振って微笑を返す以外にできなかった。
「うんん、私こそ、そんな重い事情があったなんて全然知らなくて、能天気に心配だ心配だって騒いで、ごめんね」
「話してなかったから。話さなければ知らないのは当然」
カップに残ったハーブティをくいっと飲みほした莉都は、そうしてやおらテーブルに手をついて立ち上がった。「話してたら大分遅くなったね。そろそろ戻るわ。話聞いてくれてありがとう。おかげでちょっとさっぱりした」
「役にたてたなら、良かったよ」
玄関に向かう莉都の後をついて行きながら、陽菜子はふと、思いついて訊ねた。「じゃあ、行木さんがお茶を始めたのは、自分が日本人だから、日本人として知っておくべきことだと思ったから、なの?」
「そうね。日本人として知っているべきことを知りたいと思ってこの学園に入った」
「……一応云わせてもらうと、今の日本でお茶をやっている人は少数だし、この学園での生活は更に輪をかけて特殊だと思う」
「そうだね」
莉都はそこでようやく、何のてらいもない笑顔を陽菜子に向けた。「私も入学して気がついた」




