04
「それだけかい?」
十数秒の間をおいて、矢橋が遠慮がちに訊ねてくる。
「はい」
陽菜子はこっくりうなずいた。それだけも何も、他に云い様がなかった。
「ふーん……。まあ、ここにいれば、抹茶だけはいくらでも飲めるからなぁ……」
まぁ、頑張って飲んでください、と締めくくられたことで、自分の番は終わったのだと判断した陽菜子は、もう一度お辞儀すると、自分の席に戻った。
「舟生さんの自己紹介も、楽しかったわ」
椅子に座るや否や、瑠璃子がそう小声で話しかけてきた。
「そう?」
自分ではそんなつもりはなかった陽菜子は、真面目に驚いた。
「ありがとう、光さん」
「瑠璃子でいいわ。『光』は二人いるんですもの。名前を呼んでいただかないと、どちらがどちらだか解らないでしょう?」
「じゃあ、あたしも『陽菜子』でよろしく」
「ええ、よろしく陽菜子さん」
瑠璃子はにっこり微笑んで続けた。「それでね、あなたのさっきの言葉。抹茶を飲んでみたいだなんて、これ以上ないくらいストレートかつシンプルで、ものすごくインパクトがあったわ」
「気に入ってもらえたなら、嬉しい。ありがとう」
陽菜子の次の番にあたる男の子が、
「粗隼亮です」
と低く良く通る声で自己紹介する中、陽菜子と瑠璃子はこそこそと声を抑えて会話を続けた。
「どういたしまして。陽菜子さんは、お抹茶がお好きなの?」
「どうなんだろう。今まで飲んだことがないから、何とも云えないなぁ」
「えっ。飲んだこと、ないの?」
「うん。お抹茶と云うか、そこにまつわるもろもろのことが厭で、意識して避けてたから」
「そう……えっ?じゃあな――」
何故この学園に来たのかと、瑠璃子は訊きかけたのだろう。実際、驚いた彼女の顔にはそんな疑問が浮いていた。が、ほぼ初対面である今ここで、そんな立ち入ったことを訊ねるのはよろしくないと判断したのか、瑠璃子は思い直したようににっこり微笑んだ。
「お抹茶味のお菓子はお好きなのかしら?」
「それも、食べたことないから判らない」
これまでの人生、陽菜子は、抹茶と名のつくものは何であれ、全て、徹底的に避けていたのだ。
「そ、そう……」
瑠璃子が絶句する。と。
通路を挟んだ隣りの席で、二人の会話を聞いていたらしい、女性がぷっと吹き出した。
「あ、ごめんごめん」
盗み聞きするつもりはなかったんだけれどもね、とアーモンド形の大きな目を細めて咲いながら謝る彼女の名前を、陽菜子は必死に、先刻聞いたばかりの自己紹介の記憶から引き出した。
「構いません。ええと、……大桃さん?」
大桃美紗は、学年番号一番。この学園は、どうやら年齢の高い順から番号を割り振っているらしいので、つまり彼女が今年の新入生16名中もっとも年かさということになる。
(この人、何歳なんだろう?)
黙っていると怒っているようにも見えるシャープな顔立ちは、二十代後半から三十代前半に見える。が、今こうしてにっこり微笑みかけてもらうと、受ける印象は急に若くなる。着ているのは飾り気はないが身体によくあった紺色のスーツと白いカッタシャツで、そこから推し量ることもできない。
年齢不詳だ。
その美紗は、にこにこ咲いながら少し身を乗り出して、やはり小声で会話に加わった。ローズ系の香水でもつけているのだろうか、あまい香りがふわっと遠慮がちに香った。
「いやね、抹茶を飲んだことがない、抹茶味のお菓子も食べたことがない、つまり抹茶の味を全く知らずにこの学園に来たって、それはすごい思い切ったことしたなあって、そう思って。すごいよね」
「本当に、そう思います」
瑠璃子が力強い相槌を打った。
「舟生さんは、じゃあ、お茶を習ったこともないんだ?まっさらでここに来たの?」
美紗の問いに、陽菜子ははい、とうなずいた。
「全く無いんです」
「あー……、それは大変だー」
美紗が情感をたっぷりこめた口調で嘆き、
「確かにそうですね。歩き方や、お道具の名前を憶えることから始めなければいけないってことですものね」
瑠璃子がやはり、同情の表情で点頭した。
「そ、そんなに大変なんだ……」
「ええ。わたしは、お手前のお道具の名前を憶えるのだけでも、まるまる1月かかったわ」
せいちゃんと二人で頑張ったのよと瑠璃子が云い、美紗がそうそう、と同意する。
「あたしもそうだった。もっともお稽古が週一だったってせいもあるんだろうけれど。前回習ったことを、次回にはすっかり忘れてたのよ」
「わたしは、始めたのが学校の部活でしたから、お稽古は、先生がいらしてくださる週一回のほか、先輩に見ていただける二回と、あわせて週三回のペースでありましたけれど、ほら、お道具の名前って、普段では絶対使わないようなものばかりですよね。だから頭が戸惑っちゃって……」
「『茶筅』とか『茶杓』とか『茶巾』とか、なんじゃそりゃ、だったよね」
「わたし、焦った時なんかは今でも時々間違えます。『次はお茶筅を取って』って先生にご指示いただいたのにお茶巾を取ることなんて、しょっちゅうです」
「あるあるある!」
当時の苦労を楽しそうに語る二人を前に、陽菜子はだんだん不安になってきた。
(『ちゃせん』?『ちゃしゃく』?『ちゃきん』?何それ?)
そんな陽菜子の様子を見て取った美紗が、励ますようにまたにっこり咲った。
「ごめんね。始まる前から不安になるようなこと云っちゃって。けど、大丈夫。舟生さんは若いんだし、これから毎日授業でお稽古するんだし、だからきっとすぐに憶えるわよ」
「だと、いいんですけれど……」
本当にそうあってほしいものだと、陽菜子は心の底から願った。
厭々入ったところではあるけれど、成績不良で落ちこぼれるのは、勘弁してもらいたかった。
(そんなことになったらまた、美耶子祖母ちゃんに何を云われるかわからないし)
第一、悔しい。
陽菜子は負けず嫌いな性格ではないつもりだけれど、抹茶をお湯で溶いて泡立てて飲むだけの、年寄りたちの暇つぶしの道楽だと軽く見ていたものに、向こうから拒絶されるだなんて、やはり嫌だった。