33
翌日。
貴重な休日の日中を二日酔いで潰してしまった陽菜子は、午後も遅い時間になってどうにか身体が動くようになると、多大な反省および自責の念とともに自分の部屋を徹底的に掃除し、磨きあげた。
缶づめのトマトソースを使ったパスタと、電子レンジを利用して作った蒸し鶏を乗せた夏野菜のサラダ――どちらも光姉妹に教えてもらったレシピだ――で簡単な夕食を摂ったのち、今度は洗濯に取り掛かる。
女子寮では、洗濯機は共用で、廊下の突き当りにある専用の小部屋で行うことになっている。
たまった洗濯ものを詰め込んだ籠を抱えて、陽菜子は蛍光灯の白い灯りが照らす廊下をぺたぺた歩く。構造上外光が入らない廊下は、人の気配が全くせず、しんと静まり返っていた。同じフロアの住人たちは皆出かけているのだろうか、左右に並ぶ部屋の扉の奥から微かな生活音すら聞こえてこず、まったく無人のようだ。
――それでなぁ、それ以来、……
昨晩聞いた怪談が、不意に耳の奥によみがえってきて、陽菜子は慌てて首を振った。
(嘘ウソうそ。あれは作り話なんだって!)
――しくしくしくって、すすり泣きが……
(聞こえなーい。何にも、聞こえなーい!)
折悪しく切れかかっている蛍光灯がちかちかとまたたいて、廊下に厭な明暗を作る。陽菜子は半分目を閉じて、慣れた通路を小走りに駆け抜けた。
重い扉を体当たりするように開けて、狭い洗濯室へと飛び込む。
壁の片面に洗濯機と乾燥機がずらりと並んだ細長い室内は、突き当りの天井近くに小さく窓が切られているものの、宵闇が降り切った今の時間帯では、明かりとりの用には立たない。手探りで入口わきの壁にあるはずの電灯のスイッチを探していると。
「……ぅ」
部屋の奥から、微かなうめき声が聞こえてきた。
「ひっ」
陽菜子の手から、洗濯かごが滑り落ちる。昨日金曜日に来ていた長襦袢や肌襦袢などがばさっと足元に広がった。
「……ぅ、ん……んんん?」
陽菜子の声ならぬ悲鳴に反応したように、声は不満そうな響きを足して続く。
薄い紺色をした闇の紗が降りた部屋の奥で、もぞもぞと、白い何かが動き始める。
限界だった。
「う……あぅ……うぇぇん」
人間、あんまり恐怖が過ぎると、声も出なくなるらしい。
陽菜子は情けない鳴き声を漏らすと、その場にへたへたとへたり込んだ。
逃げなきゃ、と頭では思うものの、身体が動かない。
腰が抜ける、と云う言葉を、初めて体験した。
と。
「……舟生さん?」
耳に憶えのある声が陽菜子の名を呼んだ。
「ふぇっ?」
返事にもならないような、泣き声で陽菜子が返すと、やっぱり舟生さんでしたかぁ、と、のんびり間延びした声がささやいた。
「四方田、さん……?」
記憶にある声と名前を照らし合わせて訊ねると、陽菜子のすぐ脇までやってきた彼女は、そうですぅ、と頷いて電灯のスイッチを入れた。
「うっかり寝ちゃいましたねー」
しらじらと漂白されたような蛍光灯の明かりで満ちた室内で、白いひざ丈のTシャツ一枚という無防備な姿をさらしながら、陽菜子と同じ五階フロアに住む一年科の四方田典子は小さくあくびした。「今何時だか、御存じですかー?」
真っ白いうりざね顔に張り付いた自分の長い黒髪数筋を指先ではねのける四方田を凝視しながら、陽菜子は訥々答えた。
「じゅ、……一九時ちょっと過ぎ、……です」
「そうかー。もうそんな時間なんだー」
ちょっと寝すぎちゃったなぁ、と四方田は目をこする。「洗濯も終わってるなぁ」
そう云うと、洗濯機の中身を乾燥機に移して、スイッチを入れる。
ごうんごうんごうん、と勢いよく廻り始めた機械に、よし、と満足げな目をくれる四方田に、陽菜子は恐る恐る尋ねた。
「四方田さん……寝ていたんですか?」
「うん」
「ここで?」
「そうよぉ?」
何故そんなことを訊ねるのかと、不思議がる表情で四方田は頷く。
「ここ、……洗濯室ですよね?床もベンチも、固いですよね?」
「そうね。でも、意外と寝心地いいのよ?片付いているし」
「片付いて……る?寝心地がいい……?」
確かに、洗濯機と乾燥機、それに手洗い用の流しと蛇口、それに物を置いたりするのに使う木製のベンチしかない室内は、そう形容しても差支えはないかもしれない。が、所詮は一つの用途のために作られた作業室だ。床は人一人が通るくらいの幅しかないし、ベンチはクッションなど全くない、固いものだ。とてもではないが、四方田の云うような環境にはないように思われる。
陽菜子の戸惑いを受けて、四方田は軽く苦笑した。
「私の部屋ね、今、物がいっぱいで、足の踏み場が無いの」
私、片付けるのが下手なのよう、と邪気のない笑顔で云う四方田に、陽菜子は訥々、
「べ、ベットは……」
「そこは、着物や帯なんかの、埃やゴミをつけて汚しちゃいけないものを置くところだから。やっぱり寝る場所が無いのよねー」
「え?え?え?」
足の踏み場や寝る場所が無い部屋と云うのは、どんなものなんだろうか。陽菜子には想像がつかなかった。
(見たい……けど、見たくないかも)
正直怖かった。
怯える陽菜子に頓着せず、四方田は、
「乾燥機つけるとここって、とたんに暑くなるのよねぇ……」
と残念そうに呟いて、「しょうがない、お部屋に戻りますかー」
じゃあね、と微笑んで陽菜子の脇を通り過ぎて行った。
ぺったん、ぺったんと、ゆっくりとした足音が去って行くのを背中で聞きながら。
「ふ、ふふふふふ……」
陽菜子は、床に散らばった長襦袢をギュッと握りしめた。おかしくもないのに低い笑いが身体の底から湧いてきて止まらない。
「幽霊の、正体見たり……って云うか、一年科の方々も、変人の住処かっ!」
この学園に、(あたし以外の)普通の人間はいないのか。
絶望に似た感情の起伏が収まるのを待って、陽菜子は洗濯ものをかき集め、洗濯機に放り入れた。
こんなことで一々驚いていたら、この学園では生きていけない。
それくらいは、判るようになっていた。
茶道学園が属する茶道の流派では、門下生は、稽古の進行度に合わせて「許状」を発行してもらうことになっている。
学園に入学してから受けた説明によれば、許状とは「その稽古をしても良い」という許可証であって、けしてその稽古内容を身につけた、と云う証明書ではないのだそうだ。また、まだ陽菜子たち一年生はそこまでいっていないが、いわゆる「上の点前」と呼ばれる特別な点前になると、棚や茶碗、茶入など、その点前でなければ扱えない、特別な道具を使って行うことになるのだそうだが、許状を持たないものは、その道具のしつらえさえ見ることは許されないのだという。
茶道学園は、生徒各人の許状の所持具合や本人の意思判断によって、学ぶ時間や内容を細かに選択できることになっている。
陽菜子のように何も知らない素人に、3年をかけて茶道の基礎素養を叩きこむ「茶道科」、
現在一般に公開されている稽古内容は全て身に着けて、人によっては弟子を持って自分の社中を持っている、いわゆる先生と呼ばれるひとが、更なる研鑽を求めて入る「研鑽科」――これは、三カ月と六カ月と、二つの長さの研修期間を選択できるようになっている――、
そうして、
茶道科が3年かけて学ぶ内容を、一年間に凝縮して学ぶ「一年科」。
在籍する科は違えど、入学に際して寮に入ることが義務付けられているところは同じだ。
入寮者は、学年や選択科がバラけるように、各階に振り分けられる。授業ではほとんど交流のない他の選択科のひととも友誼が持てるように、という学園の心遣いなのか、そのあたりのことは陽菜子にも判らないけれど、とにかく陽菜子のいる5階にも、そんな次第で他の選択コースの生徒が数名、暮らしていた。
年齢や許状の状態が近い先輩方は色々と親交を深めているらしかったけれど、今まで学園生活に慣れるのに精いっぱいだった陽菜子は、他所の科の生徒まで気を配る余裕がほとんどなく、顔を合わせれば挨拶をする程度の付き合いしかしてこなかった。
ひとりがそうだからと云って、全員が同じだとは限らないはずなのだが、いかんせん、最初の邂逅が強烈に過ぎた。陽菜子の中ではもうすっかり、
学園生=濃いひとたち
という図式が出来上がってしまっていた。
例外は認められない。