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全寮制の学校で四六時中一緒に生活しているとなると、意識しないでも貸し借りが多くなってくる。
まとまった額のお金の貸し借りは、その後深刻なケースに陥ることが多いため、学園からも禁止されていたし、生徒たちも意識して避けるようにしているのだが、小物類に関してはどうしようもない。
懐紙や袱紗、古帛紗などの懐中物を忘れた、扇子を忘れた、濃茶を飲んだ後に茶碗の飲み口をぬぐう小さな布もしくは紙を小茶巾というのだが、その小茶巾を入れる小茶巾入れを忘れた、筆記具を忘れた、ノートを忘れた、教科書を忘れた……
先生が聞いたら、
「それが茶道を学ぶ者の姿勢かっ!緊張感が足りない!」
と叱られること必至なくらい、誰かが何かを忘れてきて、他の誰かに借りるのはごく日常的なことだった。
生徒のほうでも一応意識して気を付けてはいるのだが、誰だってうっかりミスすることはある。
陽菜子は、もしもの時に備えて、懐紙は常に一畳以上、濃茶を飲んだ時に使う紙小茶巾はお店で売られている数十枚が入った一袋をそのまま、袱紗古帛紗/扇子/小茶巾入れはそれぞれ二枚/本/袋ずつをセットで持ち歩くようにしていたのだが、その日はついうっかり、それらを入れた数寄屋袋ごと自室に忘れてきてしまい、ちょうど複数ずつセットで持ち合わせていた同期生の爰島姫子に一式借りる次第となった。
(ちゃんと返さなくちゃ)
人に借りを受けたままにするのが基本的に嫌な陽菜子は、寮に帰るとさっそく、その日借りた懐中物一式と、お礼のチョコレート菓子ひと箱を持って、姫子の部屋を訪れた。
幸い姫子は在室していて、陽菜子のノックに快く応じてくれた。
「はーい。今あけまーす」
ととと、っと駆け寄ってくる軽い足音が聞こえたかと思うと扉が開き、
アリスが現れた。
ディズニのアニメ映画で主役を張っていた、あのアリスだ。水色のミニ丈ワンピースに白いエプロンドレスと白いタイツ。艶やかなセミロングをおろした頭には、ご丁寧にベルベットのリボンも結ばれている。小柄で童顔な彼女に、その装いはとても似合っていた。が、
(何故アリスがここにいる?)
「えっと……」
戸惑う陽菜子の反応はまるで無視して、姫子はにっこり、陽菜子を見上げた。
「陽菜子さん、こんばんはぁ。どうかしましたかぁ?」
舌足らずな甘いその声にはっと、訪問理由を思い出した陽菜子は、手にしていた紙袋を姫子に差し出した。
「これ。今日はありがとう。すごく助かった」
「ああ、お貸しした懐中物ですね。……うわあ、ご丁寧にお菓子まで。いただいていいんですか?ありがとうございますぅ」
嬉しそうに咲った姫子は、「良かったらどうぞぉ」と陽菜子の手を引いて自室に招き入れてくれた。
案内された部屋は、カラフルな衣装で溢れかえっていた。
それも、白雪姫、シンデレラ、ティンカーベル、オーロラ、ムーラン、ベル、ラプンツェル、……
ディズニーのアニメ映画のヒロインたちの衣装に交じって、今日姫子が着ていた着物が衣文かけにつるされているのが、かえって非日常的な光景に見えた。
「これって、……」
「かわいいでしょう?」
ミニー・マウスがにっこり手を振る模様の座卓――どうやら姫子の私物らしい――の脇に座った陽菜子の前に、紅茶を注いだコッカースパニエル(レディ、とアルファベットの筆記体で書いてあった)模様のカップに置きながら、姫子は屈託なくそう咲った。「わたし、ディズニ映画が大好きなんです」
特に主人公が女の子のストーリ。
「もう、うっとりしますよねぇ」
白い猫模様のピンクのトレイに自分の分の紅茶と砂糖壺、ミルクを満たしたピッチャ、それに陽菜子からもらったチョコレートスナックを乗せて運んできながら、姫子は嬉しそうに云う。
「さようですか」
としか、この部屋の状況に圧倒されたこの時の陽菜子には返せなかった。
人魚姫アリエルの顔がプリントされたお皿にお菓子を開けながら、姫子はうきうきと続ける。
「ディズニーのヒロインたちって、おとぎ話をベースにした物語の主人公ではありますけれど、おとぎ話のようにただただ状況に流されていくだけじゃなくて、みんな自分というものを持っていて、周囲や自分が幸せになるためには何をするのが一番良いのか、何が周囲には欠けていて必要なのか、調べてそれを得るために行動できる人なんですよ。ステキですよねぇ……」
「うん、良いよね……」
目の前で、バンビ模様のカップに二杯も三杯も砂糖を入れる姫子の所作に目を奪われながら、陽菜子も応じる。
(爰島さんって、こういうキャラだったんだ)
学年最年少、高校卒業直後に入学した爰島とは、年齢こそ近いものの、これまでいわゆる「年長側」と行動することの多かった陽菜子はこれまであまり付き合いがなかった。だから陽菜子のなかにおけるこれまでの姫子のイメージは、いつもにこにこと嬉しそうにしている、小柄でかわいい、押しはあまり強くない、どこにでもいそうな普通の女の子、というものだった。
実際彼女はいつもにこにこと嬉しそうに、可愛らしいお着物を着て学園に来ていたし、「毎日お着物着れるのって、楽しいですよねぇ」と嬉しそうに話しているのを聞いたこともある。その言葉の後、日本を代表する文豪谷崎潤一郎の小説『細雪』を挙げて「毎日お着物を着続けるのって、あの世界みたいですよねぇ」と続けていたことを思い出した陽菜子が、
「コスプレ、好きなの?」
と遠慮がちに尋ねると、
「大好きです!」
と屈託ない笑顔が返ってきた。「特に好きなのはディズニ系ですけれど、ほかにもしますよ。実家に置いてきてしまったので今は手元にないですけれど、マンガやアニメなら、……」
特にその方面には詳しくない陽菜子でも名前を知っている、ここ数年人気の少年漫画のヒロインや、アニメの主人公がつらつら挙げられる。
「ゲームなら、……」
新作の作成が製作会社から公式発表されるとニュース番組でも取り上げられるくらい国民的人気のRPGの大作や、シミュレーションRPGに続けて、『天使の休日』が挙げられたとき、陽菜子は素で吹いた。
「ご、ごめん!」
咽ながらも急いで紅茶に濡れたテーブルを拭く陽菜子を、姫子も驚いたように気遣った。
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫。それより――」
『天使の休日』、知ってるの?
聞かれた姫子は瞬間、きょとんと目をしばたたき、……
「はい。知ってますよ」
頷いた。「人気のシリーズですし、ストーリも設定も面白いですから、これまで発表されたものはすべてプレイしてます」
「あたしもなのっ!」
陽菜子は思わず叫んだ。
「舟生さんも、コスプレがお好きなんですか?」
姫子が大きな瞳をきらきら輝かせて訊いてくる。
陽菜子は申し訳ない気持ちで小さく首を振った。
「いやそっちはあんまり興味ないんだ――ごめん――、あたしが好きなのは、『天使の休日』の方」
「そうなんですかぁ。私、シリーズでは『Ⅲ』が今のところ一番好きなんですけれど、舟生さんはどれがお好きですか」
「それはもちろん、……
……。
その後しばらく、互いのゲーム談義や感想交換が続いた。
ディズニのアニメ映画以外にはほとんどの衣装を実家においてきたという姫子だったけれど、『天使の休日Ⅲ』の物は別だったそうで、主人公である天使の制服を出して見せてくれた。
「彼女の制服のスカートは、ボックスプリーツですよね。ボックスプリーツ自体は簡単な構造なんですけれど、地のチェック模様とバランスを合わせるのがけっこう大変でした」
「へー……」
裏地までしっかり張られていて、何も知らなければこのまま街着にもできそうなくらいしっかりした作りのスカートを、じっくり触れて見ていた陽菜子は、姫子のそんな説明にえっと声を上げた。「えっ。もしかしてこれ、爰島さんの手作り?」
「そうですよ」
だって売り物は高いですし、その割に布が薄くて作りもチャチですから、と姫子はごく当たり前のようにそう云う。「手作りすれば、布代をちょっと気張って良いものを使っても、裏地をつけても、市販品の四分の一の値段で手に入ります。飽きたらネットで売れば良いですし。いろいろ考えても、結局はお得なんです」
「すごいねぇ……」
「ミシンを使えばあっという間ですよ。このアリスの衣装も、学校に通いながら、都合一週間で作りましたし」
今出来立てなんです、と姫子はスカートをつまんで云う。
「もしかして……」
陽菜子はふと閃いた。「もしかして爰島さん、これらのうちのどれか衣装を着けている姿を、誰かに見られた?」
「はい。できたのが嬉しかったので、この階で暮らしていらっしゃるみなさんに、シンデレラを着て見せました。でも、けっこう昔のお話ですよ。入寮して一週間が過ぎたかそこらって頃でした」
「なるほど」
かなり早い段階から、学園内で爰島姫子のことを「姫」「姫」と呼ぶ習慣があった理由の一つを、陽菜子はこの時知った。最初聞いたときは、姫子という彼女の名前を略したのかと思っていたのだが。それだけではなかったらしい。姫子は四階、陽菜子は五階の住人で、フロアが違ったことと、姫子と同じフロアで暮らしているのが行木莉都に砂金茜という、他人のことをふれて回る性格ではない二人であったことも、この情報があまり広がらなかった理由の一つだろう。
(寮生活って、奥が深い)
姫子から、衣装づくりのコツや苦労話を聞きながら、陽菜子は改めて思った。




