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「ハリマオくん、いてはる?」
茶室の入り口にひょいと顔をのぞかせた高矢からそう云われたとき、陽菜子はとっさに何を聞かれているのかわからなかった。
「ハリマオ……?」
「うん、ハリマオくん」
「ええと……」
ハリマオ、と云ったら、陽菜子が生まれる遙か以前、陽菜子の両親が生まれたころにテレビ放映されたヒーロドラマ……だったような気がする。懐かしのヒーロ特番などで過去に一、二度取り上げられたのを観ただけので、陽菜子も名前と、あとは、頭に白い布を巻いてサングラスをかけた外観をしているとしか知らない。
室内をきょろきょろ見回す陽菜子の脇で、雪が答えた。
「ハリマオ君なら、今厨房にいはるはずですよ」
「さよですか。ありがとう」
高矢が去って行ってのち、陽菜子は雪に不思議そうな目を向けた。
「ハリマオって、誰?」
「波利摩君よ」
ハリマオ君に何か用事があったのかしらねぇ――と雪はこともなげに云う。
「波利摩君が?ハリマオ?」
雪は至極当然そうに「うん」とうなずいた。「高矢さんが最初に指摘されはったんやけど、ほら、波利摩君のフルネーム『波利摩央』って字ぃは、そのまま『はりまおう』って読めはるでしょう?そんでみんなで面白がって呼んでるうちに、いつの間にか水谷班の中でその呼び名が定着したんよ」
波利摩と雪の二人は、高矢がリーダを務めている水谷四班に属している。
「なるほど……」
「どうやら小学校時代からの古いあだ名で、本人はあんまり気に入ってはらへんみたいなんねんけどね、面しろいからそのまんまなんよ」
雪はころころ咲う。
「なるほどねー」
考えてみれば、入学してから早2か月ほど。学園生が順繰りに、総当たりで行う水谷当番も数巡回っており、皆濃度の濃い付き合いを否応なくしてきている。それを反映したように、独特の呼び名も生まれてきているのだろう。
「そういえばあたし、最近水谷班では先輩からも研究科や一年コースの方々からも、『ヒナちゃん』『ヒナちゃん』って呼ばれてる」
「せやね。陽菜ちゃんはヒナっぽいし」
雪の言葉に、近くで聞いていた美沙が「そうねー」と同意した。
「陽菜ちゃんはたしかに、小動物っぽいよね」
「しょ、小動物ですか?」
そんなこと云われたのは初めてだ。一六〇センチ半ばの身長がある陽菜子は、これまではどちらかと云えば「名前に似合わない大きな子」扱いされるのが普通だったのだが。
陽菜子がそう云うと、美沙は咲って陽菜子の頭をぐりぐり撫でた。
「あら、陽菜ちゃんは可愛いわよぉ」
「そ、そうですか?」
「うん。黒目がちのつぶらな瞳や、思ったことがすぐ表に出てくる顔もヒナっぽいけど、特に思うのは、何かやらかしちゃったときね。失敗したときとか、めっちゃ動揺したときのあの表情。おろおろとか、わたわたって擬態語が聞こえてきそうな感じで、本当にかわいくてかわいくて、どきどきしちゃう」
「そうですか」
そんなこと、云われてもあんまり嬉しくない。
こっそり落胆する陽菜子を置いて、茶室では各自定着しつつあるあだ名や呼び名を報告し始めていた。
「うちは、お雪さん、だわ」
と云うのは焼石雪。たしかに彼女は、呼び捨てしにくい。「お」と「さん」をつけて呼びたい、ある種圧迫感というかオーラがある。
「私は美沙ママ」
ちょっと不本意だけれどもねぇと云うのは美沙。どうやら寮の部屋が一年生女子のたまり場兼飲み場になっているのがその理由だそうけれど、
「私は別に、来る人来る人にお酒出してるわけじゃないのよ。みんな自分の飲み分は自分で調達してきているし、そもそも未成年には目の前で飲むことも許してないのに、これじゃあまるで、私が寮で商売しているみたいじゃないの」
このままこの呼び名が定着するなら、本当に商売しちゃうわよ、と美沙が顔をしかめると、雪は無邪気そうに喜んだ。
「それは是非やっていただきたいですわ」
「いいわよ。ただし、私が提供するのは酒。酒オンリ。つまみは無し」
「なしてですのん?」
「だって、つまみ食べながら飲むと、太るじゃない」
だから私は、夕ご飯以外の食事や食べ物は、飲んでるときには口にしないの、と至極当然そうに美沙は云うが、
「だから毎回毎日、悪酔いして、二日酔いしてはるんちゃうんですか?」
雪の突っ込みはもっともだと、陽菜子も聞いていて思った。
「そもそもそないに太るの嫌なら、少しお酒控えはったらいかがですのん?ご存知でしょうけれど、アルコールって、かなりカロリ高いんですよ」
「そんな!私から酒をとったら何が残るの!?」
両手で顔を抑えて真剣に美沙は叫ぶ。
(この人、大丈夫なんだろうか?)
陽菜子は他人事ながら心配になった。
波利摩央=ハリマオという呼び名は驚くべき速度で学園内に浸透、定着していった。呼ばれる本人が少し厭そうに、けれどきちんと返事してくれるのがまた、一部の方々には受けたらしい。中にはその名で呼ぶ先生さえ出現してくる始末だ。陽菜子たちと違ってリアルタイムでそのドラマを楽しんでいたらしい彼らは、そのストーリ中の細かなエピソードを一つひとつ挙げて、「どうだ、知っているか?」などと話題を振ってくる。陽菜子はもちろん、学年最年長である美沙も知らない――「だってアレは、私が生まれる更に前のお話なのよ?かろうじて物ごころついた頃に流れていたらしい映画は、私も両親も興味なかったから見なかったし」――話題に、しかし波利摩はきっちり受け答えしていた。
「小さな頃からネタにされてきたしね」
と云うのが、波利摩の答えだ。彼らが振ってくる印象的なエピソードは大抵似通った場面なので、ドラマそのものは見ていなくとも、自然と話の流れは頭に入ってきたらしい。
「大学卒業後に入った会社では営業に配属されたんだけれど、この名前のおかげで取引先に一発で名前を覚えてもらえたのは、得したと思うよ」
もっとも、忘年会だ新年会だなんて飲み会のたびに、ハリマオのコスプレをリクエストされるのには辟易したけれどもね、と波利摩は心底厭そうに顔をしかめる。
「そんなわけで、今後僕にハリマオのコスプレを振るのは禁止」
「えーっ?」
「もう飽きた」
と云いながら、水谷当番明けの「打ち上げ」と称した水谷四班の飲み会の折には、高矢からのリクエストを断りきれなかったらしく、見事頭に白サラシを巻いて大きなサングラスをかけ、少しヤケ気味にモデルガンを構えた「ハリマオ君」の写真を、その後しばらくして陽菜子は雪から見せてもらうこととなる。




