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正座タコ解消計画と並行して、胃の腑強化計画も、一年女子の間でひそかに、しかしかなり必死に進められていた。
古くは薬剤として扱われていたと云うだけあって、抹茶、それも濃茶はかなり刺激が強い。懐石料理を食べたのちにお菓子をいただき、そうしてようやく濃茶を飲むという流れになっている茶事も、そもそもは、空の胃の腑に濃茶をじかに流し込むとあんまり刺激がきつすぎて、お茶本来の味をゆったり味わえないから、というのが理由だったらしい。
「ですから懐石は、読んで字のごとく、温めた石を懐に抱いて空腹を紛らわせなければいけないくらいの、ごくごく軽い食事。一汁三菜が基本なんです」
と、学園の先生は陽菜子たちに教えてくれた。世界各地における伝統的な饗応は、客人の胃の腑の限界まで物を詰めこんで喰わせることを目的としており、それがもてなす側の礼儀だとされているが、茶事においてはそれは当てはまらないのだと。むしろお茶を味わうためには、満腹になってはいけないし、させてもいけない、それこそがお茶におけるもてなしの礼儀なのだと。
が、あいにくと陽菜子を含めた一年生女子においては、朝学園に登校した時点で満腹であることはほぼないし、朝食を食べて来ているものも、ごくごく少数派だった。一応学園からは毎日、朝食べるようにとサンドイッチと牛乳などといった軽食が支給されているのだが、ほとんどがこれを朝には食べない。
理由は大きく二つに分かれる。食べるために消費するわずかな時間さえもを睡眠時間に充てているか、朝は食欲が沸かないかである。
「だって、食べる時間があるならその分寝てるし」
とは茜の言。
「朝の起きたては、昨日の酒が残ってて、食欲ないんだよねぇ」
とは、美沙の言。
どちらも女としてはどうかと思うが、そう思う陽菜子も実は、茜と同じ状況グループに属していた。一応云い訳をさせてもらえば、茜のように積極的に寝る時間を延長しているわけではなくて、毎朝起きる時間が遅すぎて、身づくろいをするのがせいぜい、着物を着終えたら部屋をかけ出さないと朝礼の時刻に間に合わないと云う、消極的な理由によるものなのだが。
……。
考えてみれば、それも女としてはちょっとまずいかも知れない。
とまれ、そう云う次第で午前中、一限目の実技の授業において陽菜子たち一年生女子生徒は、空きっ腹に抹茶を流し込まなければいけない状況に追い込まれてしまうのである。――と云うか、自分で追い込んでいる。
余談ではあるが、二、三年生がこの問題をどう過ごしているのかは、不明である。
一度小峯に聞いてみたのだが、
「うん、濃茶っていつまでも、何杯飲んでも慣れないよねぇ」
と、妙にしみじみ云われてしまった。
閑話休題。
体調がはかばかしくないときは、薄茶でも気分が悪くなる抹茶である。濃茶になったときの苦しみは、筆舌に尽くしがたい。
味そのものは、どうせ飲むなら濃茶の方が、味も香りも濃縮された感じが美味しいと、最近は陽菜子も思えるようになって来たのだが、しかし飲んだ後の身体は、違う感想を持っているらしい。
胃と腸が、大騒ぎをするのだ。それはあたかも満員のスタジアムの観客が、出口を求めて暴動を起こすよう。一度事態が発生してしまったら、もはや警備側には止める手立てがない。
一応妙齢の女性たちの集団なので、誰も詳細かつ露骨な症状は口にしないが、みなそうなのだろうと、陽菜子は勝手に想像していた。
そうして彼女たちはそれぞれやはり、そんな症状に対しても自分たちなりの対処法を編み出していた。
「濃茶を飲んだあとすぐに、お水をお茶碗に何杯か飲みますと、その後がかなり違いますわ」
という晶子は、濃茶の後は必ず水を飲みに茶室を離れる。
「根性だね。根性。それで押さえきれなかったら、茶室を離れて休ませてもらう」
正座を解くと、気のせいか楽になるんだこれが、と茜は云う。
「私たちは、風邪をひいたりして、すごく体調が崩れているとき以外は、濃茶をいくら飲んでも気分が悪くなることはないんです」
と云う恵まれた体質をしているのは、瑠璃子と青子の双子たち。
他の同級生にも聞いて回ってみたけれど、それぞれが自分なりの工夫をしてはいるものの、これという特効薬や対処法はないらしい。
一、二時限の合間にある休憩時間に、それぞれ持参したクッキやビスケットなどのお菓子、もしくはサンドイッチやおにぎりなどの軽食を縁側で(こっそりと)食べるため、二時限目は、一限目に比べれば身体は楽になる。
(懐石の効能って、こういうことなのかな?)
身をもって懐石の意義を知った陽菜子だが、知ったからと云って、空腹に流し込んだ濃茶とそれによって引き起こされる胃と腸の大騒ぎがどうなるものでもない。
結局陽菜子も、濃茶を飲んだ後は茶室を離れて休ませてもらうことが多かった。これだと身体は楽になるが、その間先生が他の生徒を指導する様子を見れないし聞けないので、かなり損をすることになる。
稽古は、自分がつけてもらっているときもそうだが、人がしているのを見るのもかなり勉強になるのだ。
点前を美しく見せるための心構えや実際の身体の使い方もそうだが、何故このときにこういう所作をするのか――何故右手で取るのか左手で置くのか、畳の真ん中に置くのか右の端に置くのか左の端に置くのか、などいう理由や解釈を教えてもらえるのが、今の陽菜子にはとても面白かった。しかもその解釈と云うのが、人により先生により微妙に異なっているのだ。解釈を行う人の数だけ存在するそれらどれもが正しくて、間違いではない。正解はただ一つだけ、残りは全て間違いで切り捨てなければならない、これまでの学校の勉強問題とは違う。この面白さに気が付くと、「以前に聞いたからもう聞かなくていい」という論理は存在しなくなる。
点前の手順と云うものは、意味もなく覚え込まなくてはいけない、疑問の挟みようのない決まり事なのだと、この学園に来るまでの陽菜子は思っていた。が、ひとつひとつの所作には必ず、合理的な理由がある。そうして点前はその合理的な決まりを縒ったものなのだ。
「許状が進まないとできない、いわゆる『上の』点前だって、この基本があってこそのものだからな」
ただ特殊な道具の扱いがそこに加わるだけだ、と云う先生の言葉が本当なのか否なのか、今の陽菜子には確かめようはない。そこはただ信じて覚えているだけしかできないが。
合理的な説明体系が好きな陽菜子にとって、学校の勉強を離れたところにある一群の未知の体系は、とても面白いものだった。こんなことは、美弥子には絶対云いたくないけれど。
(お祖母ちゃんが知ったらきっと、「そうだろう」って勝ち誇ったしたり顔するに決まってるもん)
点前以外にも、お茶の歴史やお道具の話など、先生が話してくださることは興味深いものばかりで、一言だって聞き逃したくない。稽古の支度や後片付けなど、しなければいけないことで茶室を離れるのは致し方がないが、それ以外の理由で話を聞けないのはとても悔しい。
(どうしてこう、大暴れしてくれるかなぁ、あたしの内臓は)
胃酸と合わさるのが悪いのかと思って、胃粘膜保護薬を飲むことも試してみたが、効能はさほどでもなかった。飲まないよりはまし、といったところだ。無いよりはましだが、毎日飲み続けるとなると、胃に代わって財布の方が苦しくなってくる。毎月郵便貯金の口座に振り込んでもらえる陽菜子のおこづかいは、無限ではないのだ。
(やっぱり、朝ごはんを食べるために、今よりも30分早く起きようかなぁ……?)
とは思うものの、そう云う今だって、けして寝坊しているわけではない。顔を洗って化粧して――すっぴんに着物はアンバランスで合わないため、これまでは特にその方面に関して興味を持たなかった陽菜子でも、アイメイクと口紅、チークだけはするようにしている。ファンデーションのたぐいは面倒なのでしない、日焼け止めだけだと一度話の流れで漏らしたら、美沙に「これが若い肌ね~!」と顔を撫でくり回された――着物を着つけるのに合計1時間半かかるので、当番のない日でも6時半には起きている。(ちなみに、当番がある日はこれよりも一時間半起床時刻が繰り上がる)
陽菜子は一日最低七時間半は眠らないと体調が悪くなる体質なので、逆算すると、夜は十一時には眠らなければならない。今でさえ、平日はクラナドとの逢瀬のためのまとまった時間をとれずに苦労しているのに、これ以上早起きするとなると、逢瀬そのものを諦めなければならなくなる。
(朝食をとるか、クラナド様をとるか)
己の体調や食欲と、クラナドに対する乙女心を秤にかけた陽菜子が、後者を選び取ったからといって、責められるいわれはないだろう。