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最低でも三時間半は正座を続ける日々が週に五日も続くとなると、自然、悩みごとも発生してくる。
「正座ダコができかけてるんだよね」
悲壮な表情でそう告白してきた茜に、陽菜子はきょとんと眼をしばたたいた。
授業の合間の休み時間。茶室に併設されてあり、路地に向かっておおきく掃き出し窓が開いた縁側での話である。露地に面した縁側は、毎日水谷当番が掃除と手入れを欠かさないだけあって、狭いながらも景色が良くて、かつ塀の向こうに高い建物がないおかげで陽の入りが良くてぽかぽかと暖かい。涼やかな風も吹きこんできて居心地が良いため、最近の陽菜子たちは休憩時間をここで過ごすことが多くなっていた。
「正座だこ……って、何ですか?」
「正座を続けているとできてきちゃうタコのことよ」
陽菜子の隣でのんびり日向ぼっこを楽しむ美沙が教えてくれた。
それによれば、正座を続けていると、どうしても足の甲の同じ箇所に体重がかかり続けることになる。それによって皮膚の角質化が進んで、一部分だけできもののように硬質化してしまうことがあるのだが、それを「正座タコ」と云うらしい。
「それって、できるといけないんですか?」
「いけないっていうか……痛いんだよね。正座して体重をかけるとすっごい痛むの。まるでぶっとい針で刺されるみたいな、神経にダイレクトに響く鋭い痛みなんだ」
そこに出来かけの「タコ」があるのだろう、足袋の上から足の甲をさすりながら茜が云う。
「それに、見た目が良くないのよ」
例によって着物の裾をしどけなく乱して座る美沙が云う。「えんぴつタコを数倍グロくしたような外見でね。あれができると、甲の浅いパンプスとかが履けなくなっちゃうの」
「それは……大変ですね?」
実感の湧かない陽菜子がお義理で呟くと、茜と美沙は、そうよ大変なのよと勢い込んで畳みこんできた。
「ひどくなると、外科手術をしてもらわなければいけなくなるの。魚の目なんかと同じ扱いよ」
「本当にどうしよう。今もちょっと痛むんだよ。これで一日実技の授業なんかあった日には、地獄だよ」
「一日実技って、確か、明日がそうじゃなかったですっけ?」
「マジで?うわっ、ヤバっ。私、明日死ぬわ!」
両手で頬を抑えて青ざめる茜に、美沙も深刻な表情を見せる。
「正座生活が続くせいか、私も最近、膝が痛いのよ。明日一日座り続けなければいけないなんて、本当に地獄」
「大変ですね」
「陽菜ちゃんは、大丈夫なの?」
「あたしは今のところは……はい」
「羨ましいわぁ」
美沙の言葉に、茜も力いっぱい同意する。
「本当に。どうして正座タコってできるんだろう。やっぱり座り方が悪いのかなぁ?そのうち上手に体重を逃がして、タコができないように座れるようになれるのかなぁ」
「でも、先生方も正座タコができるし痛むって、おっしゃるよね」
「そう云えばそうね。じゃあ、どうしようもないのかな?」
「いやいやいや、諦めたらそこで終わりだよ」
恋愛は淡白に流した割に、それに関しては喰い下がる美沙である。
(こう云うところが、雪さん曰く『枯れて』るってことなのかな?)
ふと思った。
「そうは云っても、どうしたらいいんですか?まさか稽古で正座しないわけにはいきませんし、かと云って正座椅子なんか使うわけにもいきませんし」
陽菜子に云われた茜は、そうなんだよねぇ、と深刻な表情で点頭した。
「正座タコ程度じゃあ、椅子は使えないよねぇ。足のどこかに深刻な故障が出て、正座は避けた方がいいっていう医師の診断書か何かがあれば話は別だろうけれど」
「今思いついたんだけど、クッションをあててみるのはどうかな?」
茜が目を輝かせて提案する。
「先生の目の前で、生徒が敷物を使える?」
しかもクッションなんて和室に合わないもの、無理じゃないかしら、と美沙が眉をひそめた。
「そうじゃなくて、見えないところで使うの。つまり、足袋の中にハンカチとか柔らかいものを入れて、体重のかかりを和らげるってのはどう?」
「なるほど。それなら大丈夫だわね。外からはそんなものを使っているなんて見えないわけだし」
「でしょでしょ?丁度私今、ハンカチ二枚持ってるから、試してみよっと」
茜は云うなり早速袂からハンカチを取り出して足袋の隙間に押し込み始める。
「私も!」
美沙も物は試しよとばかりにハンカチを足袋に入れ始めた。
丁度美沙がタオル生地のハンカチを押しこんで足袋を留める金具であるコハゼを留め終えたとき、休憩時間が終わって、先生が茶室に姿を現した。
3人とも慌てて茶室へ滑り込むようにして他のクラスメイト達の間に入りこみ、
「お願いいたします」
と、いつも通りの挨拶を唱和した。
授業は普段通り、一人の生徒が点前を行って先生に指導していただいている様子を、他の生徒たちが見学すると云う形式で進められる。客役をつとめる美沙と茜の後ろ姿を、陽菜子は見るとはなしに眺めていた。
足袋に入れたクッションの具合がよほどいいのだろう、二人とも点前終盤になっても身じろぎ一つしない。今回の亭主役――茶を点てる人を、茶事に習ってこう云うのである――は馴田勝之で、彼は一つ一つの所作をとても丁寧にゆっくりと行うため、他と比べて1.5倍は時間がかかるのだが、その間中、彼女たちは、客役として望まれる以外の動作を全くしなかった。
(いいなぁ……。あたしもハンカチを入れれば良かったなぁ……。けど、今日はそもそもハンカチ忘れてきたし)
正座タコこそないものの、足はしっかり敏感に激しくしびれてしまう陽菜子は、ハンカチを忘れてしまった自分の粗忽さを反省しつつ二人を羨ましく見ていた。……のだが。
薄茶よりも時間のかかる濃茶の点前、それも人一倍長い馴田のそれが終わって後、先生に客の稽古を見ていただいたお礼のあいさつを述べた二人の顔色が、揃って芳しくないことに、陽菜子はほどなく気がついた。
(どうかしたのかな?)
心配して見つめる中、ふたりはそれぞれ稽古に使った黒文字――と云う名前の、お菓子を食べるために使う長い楊枝――を洗うためだとか、水を飲みに行かせていただきたいとか、そんな断りを先生に告げて、茶室を出るために立ちあが
ろうとした途端、盛大にすっ転んだ。
「いたーい!」
「あぁあああ~!」
畳の上で悶絶する二人を、その場にいた全員が唖然として見つめた。
「な、何?」
「どうかしたの?」
その日の一年一組の稽古は、津秋宗朱という、学園を五〇年前に出た、陽菜子たちにとっては大先輩に当たる女性の先生が勤めてくれていたのだが、彼女は二人が倒れた瞬間こそ、驚いた表情を見せたものの、すぐにその原因を見てとったらしい。
「あなたたち、我慢するのはいいんだけれど、そんなに痺れがきれるまで張り切らなくってもよろしいのよ?」
呆れた声でそう云う津秋に、美沙と茜はそれぞれ、涙を浮かべた眼で
「すみませんー」
「ごめんなさーい」
と謝った。
授業が終わって後。
使った茶道具を清めながら、茜と美沙はしみじみ語りだした。
「いやあ、ハンカチは厚いね」
「厚かったわ」
彼女たちが云うには、ハンカチはなるほど、正座タコにかかる体重を緩和するには大そう都合が良かったそうなのだが、その厚みが足袋を引っ張って足首の血流を圧迫するらしく、普段よりもかなり早く痺れがきれてしまったのだそうだ。おかげで勘が鈍ってしまい、普段ならばそうなる前に、起座という、膝をついたままつま先だけ立てて正座に疲れた足を休める格好をとったり、座る足を微妙にずらして体重を逃がしたりするのが、今日は気がついた時には身動きできないくらいひどい痺れがきていたらしい。
「じゃあ、足袋に物を入れるのは無しですか?」
陽菜子が訊ねると、美沙はうんん、と首を横に振った。
「体重を緩和するためにクッションを足袋の中に入れる、と云う考え方自体は良いと思うのよ」
そうそう、とその脇で茜も同意する。
「今回は使った素材が悪かっただけ。私思うんだけれど、ティッシュを何枚か重ねるってのはどうかな?」
「それ、いいかも。あとあと、あらかじめ湿布をそこに貼っておくってのはどう?」
「臭いそうだけれど、微香性のを使えばいいのかな?」
その後。何日か掛けて様々な素材を試した二人は結局、ファンデーションを塗るのに使うスポンジに落ちついた。
「一〇〇円均一のお店に行けばたくさん買えるから、遠慮なく使えるの。形も大きさも種類があるから選べるしね」
「足袋も引っ張られないし、厚みも、外から見てもさほど目立たないくらいの丁度よさで、けれど体重は確実に逃してくれて、本当に使い勝手が良いのよ」
感動する二人が熱心に布教したおかげか、その後スポンジを足袋に仕込む人は確実に増えた。らしい。
らしい、と云うのは使っている人間がそのことをいちいち云って回らなかったこと――そもそも人に云って回ることではないからこれは当然だが――と、それから時折、ファンデーションスポンジの落し物が廊下や茶室で発見されるようになったと云う状況からの推測だからである。
ちなみに事情を知らされていない男子たちは一様に「?」と首をひねっており、中には何故か顔を赧めたり、
「リッキッドファンデが流行ってるんじゃね?ほらあれは、本体とスポンジを一緒に収納するようにはできていないだろう?」
などと憶測する者もいたが、真相がそんなところにあったとは、彼らには知る由もなかった。