02
陽菜子の一番古い記憶は、母方の祖父母――つまり美弥子とその連れ合い静雄――の家の薄暗く広い日本間で、一人遊んでいるものだった。
三歳になったかならないか、そんな時分だろう。和室のないマンションに両親と住んでいた陽菜子にとって、畳の匂いや手触りは大層珍しく、面白いものだった。
自宅のフローリング張りの床と違って、やわらかく受け止めてくれる畳の感触が面白くて、飛び跳ねたり前転したり、走り回って遊んでいた陽菜子は、そのうちにふと、部屋の隅に置いてある、不思議な物体に気がついた。
真っ黒い、大きな、お椀のお化け――
前方の縁が平べったい「U」の字に切れて、一部中身が見えるその前に、陽菜子は吸い寄せられるようにして立った。
(何だろう、これ?)
お椀のお化けの中には、これまた不思議な物が詰まっていた。真っ白い板と、先の曲がった鉄の棒三本を埋め込んだ、薄く黄色味を帯びた薄茶色の中身は、ところどころに真っ白い粉を散らしつつ、水面のように滑らかに落ち着いていた。
(なぁに……?)
触れてみると、それは意外なほど柔らかく、しっとりと陽菜子の手を受け止めた。
(お砂だ!)
何故室内に砂があるのかなどという疑問は、幼い頭にはのぼらなかった。ただただ、新しく見つけたおもちゃが嬉しかった。当時の陽菜子は砂遊びが大好きだったのだ。しっとりとした感触が面白くて、両手をお椀のお化けに突っ込んで、握りこんだりすくったり。しばらく陽菜子は夢中になって遊んでいた。……と。
不意に静かになった室内を訝しんだのか、ふすまが音もなく開いた。
「陽菜子、寝たのか――」
寝たのかい、という質問の言葉は最後までつむがれることなく、ひぃぃと云う甲高い悲鳴に取って代わられた。
「この子は!何をしているんだい!」
怒鳴られて、手を叩かれ、その場を強引にどかされた。
どれも三つの幼児を慮った、さほど強いものではなかったのだけれど、それでも物心つくかつかないかといった年齢の、それもそれまでほとんど叱られたことがないくらい甘やかされて育った子どもにとっては、かなり強烈な経験だった。
「あーあ、大事な灰をこんなにこぼしちまって……」
ショックで泣き出した陽菜子を慰めることもせず、美耶子は荒らされてしまったお茶道具を前に、がっくりと肩を落とす。
「お母様、何か――あら」
泣き声を聞きつけた静子がおっとりと顔を見せ、その場の惨状に目を見開いた。
「ああ、静子か。ちょうど良いところにきた。この子を他所に連れてってくれ――あっ、陽菜子!灰のついた手で目をこするんじゃないよ!目が傷むだろう!」
ちょうど顔の高さに持ち上げかけていた手をまた――それも前よりも強く叩いて払われた陽菜子は、更に更に泣き声を大きくして、母のスカートにしがみついた。
「おがあざーん!」
「はい、はい」
泣きじゃくる陽菜子を抱き上げてゆっくりゆすってあやしながら、静子は美耶子に頭を下げた。
「お母様、陽菜子が粗相をして、ごめんなさい」
「良いよ。こんなこともあるかも知れないと考えずに、出しっぱなしにしていた私が悪いんだ。それよりも、早く陽菜子の手を洗ってやりな。風炉の灰はアクが強いからね。幼い子どもの肌に悪いだろう」
ここはアタシが片付けておくよ、と云う美耶子の言葉に素直にはいとうなずいて、静子は洗面所へ向かいつつ、自分の首筋に顔をうずめて号泣する陽菜子の背中を優しく撫でて慰めながら、諭すように、柔らかな声で説明した。
「陽菜ちゃん、あれはね、おばあちゃまの大事な大事な、お茶のお道具なの。だからね、おいたしちゃダメなのよ」
母の説明が理解できたわけではなかったが、その日以来陽菜子にとって、日本間は怖い空間になり、お茶は近づいてはいけない厭なものとなり、祖母は怖くて恐るべき存在となった。
爾来十余年。
お茶や祖母に対する感情は、積み重なって強くなりこそすれ、和らぐことはなかった。
「あたしは、お茶なんか、大っ嫌いなんだから!」
陽菜子の心の底からの、魂の叫びを聞いても、美耶子はまったく動じなかった。
「おやそうかい。何故だい?」
「何故って……」
「何故アンタは、お茶が嫌いなんだい?」
真正面から問い返されて、陽菜子は言葉に詰まった。
「だって……」
「『だって』、何だい?」
「だって……だって、そうだ、堅苦しいじゃない。ただお茶飲むだけなのに、ああしろ、こうしろ、これはしちゃダメ、あれもしちゃダメってうるさく注文つけてさ、なんでたかだかお茶飲むのに、そんなきっつい思いしなくちゃいけないのよ!」
「なるほど。それだけかい?」
「他にあるかってこと?ええと……そうだな、古くっさくて小汚いお茶碗とかにバカ高い値段つけてありがたがってるのも変!あと、は……」
お茶なんて所詮は、年とって時間をもてあましたオバちゃんたちの暇つぶし道楽でしかない、
お茶なんか勉強したところで、将来役になんか立たない、
そりゃあ以前は、嫁入り前の習い事として一世を風靡したかも知れないけれど、そんなもの、男女同権な今の時代風潮に合致しない、
そもそもお茶なんて習い事自体が、将来性のない、先細りの果てに消滅することが決定している過去の遺物じゃないか、
等など等。
思いついた端からあげつらってゆく陽菜子に、端で聞いていた静子の方が気遣わしげな、心配そうな表情になった。
「陽菜子、云いすぎよ」
「何で?おばあちゃんが訊いたから答えただけじゃない!」
「でも……」
静子はおろおろと、娘と母の間で視線を泳がせた。
と。不意に美耶子が哄い出した。
「な、何?」
もしや自分が云いすぎたせいでショックをうけて、頭にボケでも来たのかと心配になった陽菜子が口をつぐんで見つめる中、温くなった焙じ茶を一息に干した美耶子は、ふーっと息を吐いて胸をなでおろした。
「ああ、おかしい。久しぶりにこんなおかしい意見を聞いたよ。まったくもって紋切り型で、ありふれていて、おかしいったらありゃしない!」
「紋切り型……ありふれているって……」
「まったくお茶をしたことのない人間の考えってのは、こうなんだね。皆揃って似通ってる。うん、面白い」
「似通ってるのは、つまりそれが事実だからなんじゃないの?」
むっとした陽菜子がまた低い声で云い返すと、美耶子はふんっと鼻を鳴らした。
「お茶の『お』の字も知らないで、何が判るんだい?」
「判るよ。お茶なんて、古くっさいカビの生えたものだってことくらいはね!」
美耶子はまた、天を向いてケラケラ哄った。
「ますますアンタを学園へ放り込んでやりたくなったよ」
「やだよ、あたしは行かないから!」
「学園へ行かないんだったら、明日から働いて、生活費を家に入れなさい」
「なんでっ!」
「大学へは行かれない、学園へも行かないとなったらあとは働くしかないだろう」
「だから、どうして!」
「じゃあ、『にーと』になるのかい?」
「うっ」
「学園へ行くんなら、入学金と、三年間の学費および諸経費は、アタシが出してあげるよ」
なにせこれはアタシが云い出した事だからねぇ――と美耶子は肩をすくめる。「その方が、お前と滋さんも助かるだろう、静子」
問われた静子は、陽菜子の方を伺いつつ、遠慮がちにではあるけれど、うなずいた。
「そうですね、正直を云えば……。この子の下にはまだ良太郎と嘉穂子がいますから……」
弟妹たちのことを持ち出された陽菜子は、こっそり唇をかみ締めた。
地方公務員職についている父、滋の給料が、低くはないが高くもないことは、陽菜子もこの年齢になればもう、うすうす知っていた。そのけして多くはない収入のなかで娘を二浪させるのは、不可能ではないが楽なことでもないだろうことも。気づいてはいた。下に四月から高二になる長男と中三になる次女がいたらなお更だ。
「けど……学園にだって入試はあるんでしょう?」
その一言で、陽菜子の心の揺れを読み取ったらしい、美耶子はにやっと莞いをこぼした。
「大丈夫だよ、あそこの入試は、学校の勉強の出来具合を調べるものじゃないからね。総合的な人格や、集団生活に適した性質を持っているかどうか、それを確かめるものだよ」
だから、それに落ちた方がある意味きついかも知れないけどねぇ――と小さくごちる。「それでも落ちたんならしょうがない、二年目の浪人代を、アタシがもってあげるよ」
「ホント?」
とたん両目を輝かせた陽菜子を、美耶子は鋭く睨みつけた。
「云っておくけど、わざと落ちるようなまねをしたら、承知しないからね」
「そんなことしないよ!」
そんな小細工をしないでも、お茶に全く興味の無い自分が、まさか学園に受かるだなんて、このときの陽菜子は全然考えていなかったのだ。
(やったね、これでもし後期試験に落ちたとしても、心置きなく二浪ができる!)
人生、当てが外れることもあると――むしろ外れてばかりなのだと陽菜子が悟るのは、この一月後。
大学の後期試験の不合格通知とともに、学園からの合格通知が届いた後のことだった。