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ふらふらしながら寮の自室へ戻ると、部屋のドアにメモが貼ってあった。
『「ロマンティック・ガーデン」の今月号を買ったよ~ 良かったら読みにおいで 小峯由比子より』
可愛い手書きのイラストの入った伝言を目にした途端、どこに隠れていたのか、元気がにゅっと湧きだしたのが自分でも判った。
「行きます、行きます、いっきまーす!」
以前交換した携帯メールのアドレスにメールを送ったのち、急いで着替え、買いおきしてあったチョコレートクッキの箱とジュースのペットボトルをつかんで自室を飛び出す。
「ロマンティック・ガーデン」とは、『天使の休日』シリーズを出しているゲーム会社が出版している乙ゲー専門情報誌である。ゲーム攻略情報はもちろんのこと、各登場キャラクタのゲーム外でのエピソードや小話が毎月掲載されていて、ファンにはたまらない構成となっている。
「今晩はー」
「いらっしゃーい!」
待ってたよぅ入って入って――と前回の笑顔で陽菜子を出迎えてくれた由比子の部屋は、彼女の雰囲気にぴったりな、かわいらしいしつらえだった。キルト細工のベッドカバの上や壁に沿って置かれたカラーボックスのそこここにふわふわもこもこのぬいぐるみがいて、陽菜子たちを見つめている。床にはやはりキルト細工の敷物があって、フリルがふわふわゆれるクッションと猫足の折り畳み式の座卓が乗っていた。
「素敵なお部屋ですねー」
「そう?ありがとう」
陽菜子が部屋に見とれている間に、馴れた手つきでカモミールのハーブティを淹れた由比子は、うちの一つを陽菜子の前に置いて勧めた。
「はい、どうぞ。こっちはれんげから採れた蜂蜜。くせが無くて美味しいの。良かったら使ってね」
「うわぁ。ごちそうさまですー」
れんげの蜂蜜の効果なのか、ポットで丁寧に淹れてくれたハーブティは、ハーブになじみのない陽菜子にも美味しいものだった。
しばらくは、ハーブティを飲みながら陽菜子の手土産のクッキをつまんで、テーブルに広げた雑誌を一緒に眺めつつ、ゲームや、互いが好きなキャラクタに関する取り留めのない話が続いた。
一しきりそうしてきゃあきゃあ盛り上がった後。
「そう云えば、今週から私たち一年生も濃茶の稽古が始まるんです」
陽菜子はげっそりとした思いでそう愚痴った。
「そうなんだー。舟生さんはまるっきり稽古とかしないでここに来たんだよね。大変だよねー」
頑張ってねー、と咲う由比子に、陽菜子は暗い顔で肩を落とす。
「聞けば濃茶って、すっごいドロドロなんだそうですね。薄茶にもまだ慣れていないのに、その数倍も濃いどろどろの液体を飲まなきゃいけないんだなんて、すっごい憂鬱です」
毎日日替わりでいただける京都老舗店の和菓子は美味しくて嬉しいけれど、その代償として飲まなければいけない抹茶は、陽菜子にとって美味しいとは思えない、義務で飲み下しているだけの液体だった。その何倍も濃い味の物を飲めと云われるのだから、落ち込むなと云うほうが無理だろう。
「そうだね。馴れていないと、濃茶は刺激が強いし、ちょっと大変かも」
「刺激が強いって……胃が痛くなったりするんですか?」
「うん。空腹の状態で流しこんだりすると、本当に痛くなる。私も、ちょっと油断して朝ごはん食べずに登校して来い茶を飲んだりすると、今でも具合が悪くなるよ」
「うえっ」
「日本に入って来た昔は、お薬として認識されていたくらいのものだしね。刺激が強いのは仕方ないンだと思う。だからお茶事では、お客様の体調を整えて、万全の状態でお茶を味わっていただくために、懐石って呼ばれる軽いお食事をお出しすることになっているの」
「そうなんですか」
「お茶事や懐石に関しては、舟生さんもそのうちに習うはずだよ。だからね、さっきも云ったように、慣れないうちは、濃茶を空っぽの胃に流し込まないこと。これさえ意識して守っておけば、後は大丈夫。濃茶って、薄茶よりも苦み成分の少ない最上級の抹茶で練るから、香り高いし、味もギュッと濃縮されていて、美味しいよ」
「美味しいと思えるといいんですけれど……」
「飲んでみる?」
「え?」
「ちょうど自習用にとっておいたお濃茶があるから。よければ練るよ?」
「いや、でも……」
「遠慮はなーし」
陽菜子が止める間もなく、瞬間沸騰型の電気ケトルでお湯を沸かした由比子は、棚から取り出した楽茶碗に抹茶を入れて、馴れた手つきで濃茶を練ってくれた。
「はい、どうぞ」
「いただきます……」
恐る恐る、黒いお茶碗を持ち上げる。薄茶とは全く違う、照明の明かりを受けててりてりと輝く深緑色の液体が、筒型茶碗の底にごく少量入っていて、陽菜子が傾けるに従ってとろーりとゆっくり動いていた。
「お濃茶は、飲むんじゃなくて吸うの」
由比子が云った。
「空気と一緒に口に含んで、ゆっくり噛んで、香りと味を堪能してね」
「はい……」
ままよ、と覚悟を決めて云われた通りに中の液体をすする。
「……」
「どう?」
由比子が興味と期待のにじむ声色で訊ねてくる。
眉間にしわを寄せた表情で一口飲み下した陽菜子は、そのまま首をかしげた。
「判りません」
生れて初めて飲んだ濃茶は、何とも形容のしがたい、美味しいともまずいとも判別できない代物だった。
由比子は気分を害した様子もなく、くすくす咲った。
「最初はそうだよね」
「うーん……」
顔をしかめたまま、陽菜子は二口目をすする。
「全部飲まなくても良いよ。無理だったら残してね」
「いえ、大丈夫です。なんかこれ……後味がエスプレッソみたいですね」
「エスプレッソかぁ。ザフィーア王子の好物ね。確かに淹れ方こそ違うけれど、どっちも、成分をギュッと濃縮した感じだし。うん、そうなのかもね」
「なんか……うーん……、本当に何とも云いようがないです。……せっかく淹れてくださったのにこんな薄い反応しかできなくてごめんなさい」
「良いのよ。私だって、最初にお濃茶飲んだ時はわけ判らなかったし」
「皆そうなんでしょうか?」
「どうなんだろうね」
陽菜子から、飲み終えた茶碗を受け取った由比子は、そこにお湯を注いで茶筅で泡立てた。
「稽古やお茶事では、こういうことはしちゃいけないんだけれどね。お茶碗の肌に残ったお濃茶をお湯で薄めて薄茶を点てると、これがまたおいしいのよ」
悪戯っぽく咲って見せる。
茶をたてながら小峯が教えてくれたことによれば、濃茶に使われる茶葉を収穫できるのは、植樹してから一〇〇年以上が経過した古木に限られているのだと云う。抹茶自体の作り方は、濃茶も薄茶も違いはないのだが、濃茶はそうして収穫されたなかでも最高級の素材を使用しているので、濃く練ればすがすがしいお茶の香味とバランスの良い苦味やその他の複雑な味わいが感じられるのだと云う。
「美味しいお茶だから、薄く溶いてももちろん美味しいの。だけど残念なことに、薄茶は濃茶には使えないの」
「美味しくないんですか?」
「薄く点てて飲む分には十分美味しいのよ。けれど濃く練ると、苦みがすごく強くなってしまうのよね」
そう云いながら、小峯はふんわりと細かな泡がたった茶碗を陽菜子に差し出した。
「飲む?」
「あー、……」
正直云うと、濃茶の濃ゆい成分で、陽菜子のもともと少ない抹茶許容量は既に満杯になっていた。
そんな陽菜子のためらいを気取ったのか、
「じゃあ、私がいただきまーす」
嬉しそうにお茶碗を構えた由比子は、そうして本当においしそうに薄茶をすすった。
……余談だが。
濃茶の成分が効きすぎたのだろう、その夜眠り損ねてしまった陽菜子は、明け方までベッドの中で身もだえをすることとなる。
明け方近くになってようやくうつらうつらし始めた陽菜子は結局、その朝は盛大な寝坊をして、授業に遅刻することとなったのだった。