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「男はやっぱり、腰よね」
窓をおおきく開け放った縁側にしどけなく座って露地を眺めながら、大桃美沙がしみじみとそう呟いた。
「はあ……」
陽菜子はどう答えたらよいのやら、とりあえず生返事をする以外にない。
時刻は夕刻。放課後の学園は、「水谷当番」と呼ばれる、校舎内の掃除や翌日の授業の支度をする当番――班分けによる生徒持ち回りの輪番制である――の働く気配や、その日一日の日課から解放された生徒たちの話す声などで結構かしましい。が、障子一枚を隔てた縁側には、そんな開放的な空気は一切入ってくることができない。
それと云うのも、そこでは翌日の授業で使う風炉の灰形が切られているからである。
風炉と云うのは、主として夏季に使用する、釜をかけて湯をわかすための道具である。
茶道においては湯を沸かす場所――もしくは道具――が季節によって二つに分けられている。畳に切った炉に釜をかけるのは一一月から年を越した翌年の四月末日までであり、五月朔日から一〇月末日までは、稽古では風炉を使用する。風炉には形状のほか、唐銅製・鉄製・土製・木製など、製材に種類があり、それらによって、できる点前や使える道具が違ってくると云う、細かなランク付けがあるのだが、中に釜を据えるための五徳ときめの細かい灰を入れて、その灰の上に火を点けた炭を入れて湯を沸かすのは共通事項となっている。ただし風炉に入れる灰は、きれいに整えておかなければならない。この学園に来るまで灰形と云う単語はもちろんのこと、風炉という名称すら知らなかった陽菜子にとって、この、「綺麗に整える」と云う行為は果てしなく不可能ごとに近しい。
授業で一度、灰形の指導を受けたきり、
「今日から、自分たちのクラスが翌日使う風炉の灰形は、自分たちで切ってください」
と、至極当たり前のように三年生の千吉良から云われたとき、陽菜子を含む一年生はパニックに陥った。なにぶんこの学園に入学するまでかなりの稽古をしてきた者でも、灰形を整えることまで身に着けていた人間はほとんどいなかったのだ。ごくわずかな例外を除いて、すべての人間はここで初めて灰形を学び、教えてもらってからいくらも過ぎないうちに自分で切ることとなったのである。
「無理です!」
さすがに口に出して云う猛者は存在しなかったが、その場にいたほぼ全ての人間がそう心の中で絶叫した――これは後に一年生だけになった際に各々で確認し、結果として判明した事実である――。
「灰形が上達するための方法はただ一つ、とにかく回数を切ることですからね。皆さん頑張ってください」
にこやかな笑顔の奥から「反抗は一切許しません」という強烈な威圧感を発してそう云う千吉良に、一年生たちは従順に頷いた。
頷く以外にできなかった。
そうして今、陽菜子は翌日クラスで使用する風炉の灰形を切っている。
(くそう。どうしてこんなに難しいかなぁ)
筆などで粗く形を整えた灰の山に、灰匙と呼ばれる専用の匙をあてて押さえ、姿を整える。
言葉にすれば簡単なことだが、これができない。
先輩や先生方は、灰匙を二度三度動かすだけで、ごく短時間に至極簡単そうに形を作るのだが、陽菜子たちど素人はそうもいかない。三時間近くもかけてぺったんぺったん、不器用に灰を押さえつけ押さえつけ、なんとかそれらしい形を装うので精いっぱいだ。
そうして灰に苦労すればするほど、思い出すのは祖母美耶子のこと。幼い陽菜子にトラウマを植え付けた風炉と灰形のことだ。
(美耶子祖母ちゃん、巧かったよなぁ……)
トラウマとなっただけあって、当時のことはかなり詳細に思い出される。まるでハイヴィジョン画像のように鮮明に、脳裏に展開される美耶子の灰形は、面の部分は凪いだように平らかで、エッジは切れそうなほど鋭く凛とそそり立っており、まるで教本に載っているお手本写真のようだった。
(あの時あたし、かなり灰をばらまいたよな)
当番で灰の手入れの仕方を教えてもらい、自分でも実際にやってみたおかげで、陽菜子も今では判っている。お茶で使用する灰を作るのは、本当に手間がかかるのだ。そうして、良い灰は一朝一夕では作れない。一度炭を入れた灰は何度も何度もふるって雑物を取り除く必要がある。そうして綺麗に戻した灰に炭火を入れてまた手入れして……と、同じことを繰り返す必要がある。何度も繰り返してゆくうちに、灰が練れてゆくのだと云うが、それは本当に長い長い歳月と手間と根気が要求される、茶人が過ごしてきた歳月の結晶ともいうべき代物なのだ。
(悪いことしたな)
と思うものの、だからと云って美耶子に対するわだかまりがすべて消えたわけではない。
(だって、あの風炉の灰以外にもあたし、美耶子祖母ちゃんからはかなりのコトをされたし云われたし!)
感情が指から灰匙にまで伝わったのか、押さえた灰がそこだけめこっとへこんでしまった。
「あー……」
無様なへこみをどうにかしようと悪戦苦闘する陽菜子に「がんばれー」と、のんびりエールを送ったのち、美沙は先の台詞をまた繰り返した。
「だからさ、男はやっぱり、腰なのよ」
「何ですか。また下ネタですか?」
灰の形をどうにか取り繕うことに必死で他に気を配る余裕のない陽菜子に代わって、同じく一年生である佐曽利健が苦笑してそう訊いた。クラスの違う彼は、陽菜子たちと同じ縁側で、自分たちのクラスの灰形を切っていたのである。
ちなみに、何の当番でもない美沙がこの場にいるのは、健が理由である。といっても艶っぽい理由では全くなくて、……
健は地元の稽古場で灰形まで稽古をしていた、一年生の中ではごくごく少数の例外であり、その灰形は目にした上級生が「おおっ」とどよめくほど、巧い。
巧い人間が灰形を切る経過を見るのも上達の近道だと先輩に教えられて以来、彼女はしばしばこうして灰形が巧いと評判の人が切る現場に闖入してくるようになった。はっきり云えば酒好きだしだらしないしいい加減なところもあるが、お茶を学ぶ姿勢はかなり真摯なところがあるのだと、陽菜子はそんな彼女を見ていて少し、見直した。