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「したら、次はお辞儀の稽古するぞ。お辞儀に真、行、草があるのは知ってるな?違いはなんだ?」
訊かれた平和晃は、少し考えたのち、
「頭を下げる角度です」
直は苦笑した。
「ま、そうだな。じゃあ、どう使い分ける?」
「丁寧にしたいときと、ちょっと略しても良いかなって時と、更に略して良いときとで変えます」
「そうかぁ?平和、お前はここに来るまでどこまで稽古していた?」
「僕は、社中にいたことはないんです。大学で、週に一度先生をお招きして稽古をしていただくほかは、先輩方に点前を見てもらってました。だから濃茶の平点前が何とかできる程度です」
「大学のサークルでしていたのなら、そこまでできればオンの字だな。それに、それなら解るだろう。点前座に座った亭主は大抵草のお辞儀しか客に返さないが、お前の言によれば、これは最も略した挨拶ってことになるな。かりにもお迎えしている客に対して、そんな略式の挨拶ばかりしていていいのか?」
「点前の最中なら、仕方ないと思います。膝前にはお茶の道具がありますから、両掌を膝前につく真のお辞儀はときとして、それら道具を倒したり動かしたりする可能性がありますから」
「濃茶の総礼のときもか?あれは、点前順にも含まれていて、わざわざするものだろう。しかもその時亭主の膝前にはまだ道具は出てないはずだが?」
「ええっと、……」
「答えられないか。じゃあ、お前。佐曽利。どうしてだ?」
「どうしてだと云うか、……草のお辞儀は点前座で亭主がするものだと憶えていました」
「じゃあ、行は?」
「客同士で、お茶を先にいただくときとか、拝見物を先に拝見させていただきますと挨拶するときにするものです」
「真は?」
「主客総礼や、客がお茶をいただく際亭主に向けてするときにします」
「つまり?」
「つまり、とは……?」
「真行草は、どう使い分けられている?」
「ええと、……」
少しの時間考えた佐曽利は、自信なさそうに云い始めた。「つまり、真のお辞儀は亭主と客と、違いに立場の違う相手に向けてが改まった挨拶をするときに使われます。行は、客同士という、立場を同じくする者たちで行われる挨拶に使われます。草は、点前座に座った亭主のみが使える挨拶です」
「そうだな。大体そんなふうだ」
直は軽く頷いた。
短く補足を添える直の肩越しに、さり気なく壁の時計を確認した陽菜子は、その時刻に少し驚いた。
ここに至るまでに、既に三〇分近くが経過していた。
(ただ座ってお辞儀するのを教えてもらうだけで、何でこんなに時間がかかるの?)
そもそも、お茶と云うものは、手順を含めたすべてを丸覚えするものではないのか。少なくとも陽菜子のお茶に対するイメージはそうだった。一つ一つに理由があって、それを理解していかなければいけないのだとしたら、
(面倒なモンだなぁ)
心の底からそう思った。
その後はひたすら三種類のお辞儀を繰り返す時間がしばらく続いた。正座して行うそれがある程度続いたら、今度は立ってする。立って行うお辞儀にも真、行、草の違いがあって、それをあまり区別していなかった陽菜子は、特に細かにその旨指摘されて直された。
(あたし、できてなかったんだ!)
ショックを受ける陽菜子をおいて、授業はさくさく進行してゆく。お辞儀の後は、歩く稽古。畳一枚を歩く歩数から指定されて、広間の端から端まで、ひたすら歩かされた。
「畳の真ん中を歩くんだぞー?」
直が云う。「畳の縁を踏むなよ。……で、何で畳の縁は踏んじゃいけないんだ?――粗、云ってみろ」
訊かれた粗隼亮は、少し黙考した後、ぼそぼそと低い声で答えた。
「……行儀が悪いからです」
「何で行儀が悪いんだ?」
「……そう、祖父母に教えられました」
「丸暗記か。理由を考えたことはないか?」
「……ないです」
「今考えてみろ。何でだ?」
「……さあ?何ででしょう?」
らちが明かないと見たのか、直は、波利摩に質問を移した。
「どうして畳の縁を踏んではいけないんだ?」
「茶室の畳の縁は、麻を藍染めしたものですので、摺り足でこすると色落ちしますし、使っています布自体が傷むからです」
「確かに、そう云う物理的な理由もあるな。他、……大桃、云ってみろ」
指された美沙は、少しためらった後、訥々と云った。
「すみません、私もこれまで、畳の縁は踏むと傷むから、踏んではいけないのだと思っていました」
「最初はどうだ?」
「同じです」
「うーん、……」
撫でつけた髪をくしゃくしゃとかき回した直は、そうして云った。「つまり、歴史から考えるんだ。部屋全体に畳が敷きつめられる以前、書院造が一般化するまで、畳と云うのはどう云う風に使われていた?」
指された砂金茜は、
「板敷きの一角に、貴人席として、もしくは寝台として一枚が敷かれるだけでした」
きびきび答えた。
「そうだ。つまり、板敷きと畳の間には、段差があったことになるな。この段差に足を踏み入れないよう注意しなさい、という感覚が今も残っているのだとも、考えられるだろう?」
あとひとつ、と直は続ける。「茶道が大成されたのは利休の生きた時代、つまり戦国時代だな。暗殺謀殺が日常としてありえたときだ。敷き合わせに毒針や刃をしこむことだって、考えられた。だからそうした危険を避けるために、畳の縁を踏むなと云う習慣ができたのだ、と云う考え方もできる」
なるほどなぁ、と陽菜子を含めた一年生の間から、納得の、声にならない声が立ち上がる。それを聞いたように、直はニヤッと笑って言葉を継いだ。
「そう云うわけだ。皆、畳の中央を歩くよう、意識すれよ?」
よく見てみろ、と直は足元を指し示す。
「ここの畳はみんな、中心部が擦れているだろう?代々の生徒がきちんきちんと歩いてきた印だ」
へぇー、という感嘆の声が周囲から漏れ立った。
(すごいなぁ)
素直に感激した陽菜子の脇で、絵真が低く、
「この畳、何年換えてないわけ?」
少し厭そうに呟いた。
「……」
陽菜子の中で、感激の気持ちが急速にしぼまった。
(確かにそうだけれど。その云い方もなぁ……)
最初絵真は、中肉中背。何故か背の高い今期新入生女子の中にあっては小柄に見える少数派のうちの一人である。本人が云うには、彼女の身長は一五五センチあるそうなので、特に背が低いわけではないのだが、一六五センチ越えの女生徒が一〇人中六人を数える中にあっては実際以上に小さく見えてしまう。それを気にしているわけではないのだろうけれど、絵真は常にうつむき加減でぼそぼそと低く喋る、大人しいを通り越して少々「暗い」と称される性格の持ち主だった。言動も、斜に構えているというか皮肉がちというか、そんな消極的でありつつ攻撃的なものが多くて、陽菜子は時々返事に詰まってしまう。
授業中なのを幸い、陽菜子は絵真の言葉には気づかなかったふりをした。
絵真はその後もしばらく不満そうに一人で何か云っていたけれど、誰も相手にならなかったせいか、やがてむっつり口をつぐんだ。




