白い槐の波の底
あの人はどこ、とユマは言った。まだどこか寝ぼけたような顔をして、寝間着姿で部屋の入口に突っ立ったまま。――お兄ちゃん、あの人はどこ、と。
あの人。あの人とは誰だろうと、サーシャは考えたが、いくら考えてみても誰のことだかわからない。仕方がないから聞いてみた。
「あの人って、誰のことさ」
するとユマは、首を傾げてこう言った。
「わかんない。でも、居ないの。昨日まで居たのに、あの人――」
ああ、と思った。
――またか。
また誰か、――死んだのだ。
◆
ここではよくあることだった。それは死なのだという。この町では、死んでしまったら、人々の記憶から抜け落ちてしまうのだ。その人が生きていたという記憶ごと、存在ごと。
消えてなくなる。居なかったことになってしまう。
残された人々は、それまでと同じように生活を続ける。いつもと同じ日常を繰り返して、そうして大概、違和感を覚える。
例えば、子供が居る。その子供が確かに自分の子であると確信出来るのに、妻が居ない。夫が居ない。
あるいは、学校にあがるまでの教育を、誰かがしてくれたはずなのに、その誰かの顔を覚えていない。けれども確かに、その時期に得たであろう知識はあって――。
そんな違和感を覚える。そしてそういうふうに感じる時は、死んだのはごく近しい人なのだ。
◆
「ユマ」
「なあに?」
サーシャは妹を手招きした。素直に駆け寄ってきた彼女を自分の隣に座らせる。そして言った。
「ユマ、あの人なんてのは、居やしないよ」
「居たよ」
ユマは怒ったように、ぷっと頬を膨らました。それを宥めるように頭をなでてやりながら、彼はゆっくりと言う。
「居ないんだ。ユマ、お前その人のこと、なんもわかんないだろ?名前言えるか。俺らとどういう関係の人だ?」
「知らないもん」
「だろ?兄ちゃんも知らない。だから居ないんだ、わかるか」
ユマは駄々をこねるように首を振る。夕べは窓を開けたまま寝たのか、髪の間から白い花びらが滑り落ちた。ユマはそんなことには構わずに、小さな声で居たんだもん、居たんだもんと繰り返して、泣きそうに顔を歪める。
サーシャはため息をついた。子供というのは敏感らしい。記憶にはなくても、本能的に感じ取る。実際、サーシャは彼女に言われるまで――いや、今もだが、なんの違和感も感じてはいない。そんな彼がいくら言葉を尽くして説いても、ユマは納得しないだろうから。
ぐずりはじめた妹を居間に残して、彼女の朝食を作りながら、「あの人」は誰だろうかと考えた。ユマがすぐに気がつくくらいだから、身近な誰かのはずである。
サーシャは顔見知りの人間の顔を、一人一人思い浮かべていく。今思い出せる人間は生きている。しかし、思い出せない人間は確認しようもないので、この行動にはあまり意味がない。
離れて暮らしている両親。妹のユマ。隣の家の馬鹿兄弟に、奴らのいとこで、サーシャもそこそこ仲の良いアオイ。アオイの親友の悪ガキ。
そこまで考えて、ため息をついた。こんなことを考えて何になるというのか。死んだ人間は死んだ人間だ。忘れてしまうのは、切り捨てて生きるべきだからだ。関係ない。
関係ない――。
そうだ。
死んでしまえば――もともと居ないのと、同じなのだから。
――ガタン。
大きな音に驚いて手元を見ると、フライパンをコンロの上に取り落としていた。中身は零れていなかったが、サーシャは顔をしかめてそれを睨みつける。
嫌なことを――考えた。
軽く頭を振って、その考えを追い払う。さっさとユマに朝食を食べさせて、学校に送り出してしまおう、と思う。そして、それから。二階に行って、ユマの言う「あの人」の痕跡を捜そう。
きっとその人は、家族だ。――なんとなく、そう思った。
◆
「あの人」は女性だった。
そのことは、二階にあがって、廊下の端の、誰も居なかったはずの部屋を覗いてみてすぐにわかった。部屋の壁を彩る、淡い花柄の壁紙に、椅子に掛けてあるワンピースは空色。クローゼットを埋めているのは、町で見かける少女たちが着るような華やかな服だ。ユマの物でないことはサイズを見れば一目瞭然だし、どれもこれもまだ新しい。母親が置いて行ったというわけでもなさそうである。きれいに片付けられた机には、銀の写真立てに入れられた、長い金髪を波打たせた女と、背の高い青年の写真。床には、白く細かな花びらがいくつか散っていた。
サーシャとごく歳の近い女性。ユマの言葉を信じるなら、彼女は昨日まで、彼らと一緒にこの家で暮らしていたのだ。――ということは、と彼は考える。おそらくはもう一人居たのだ、血の繋がった姉か妹が。
そう考えてみても、なんの感慨もない自分に気づく。
だって覚えていないのだ。こうして物は遺っているけれど、それが彼女が生きていたという証にはならない。
覚えていられたら。もし、覚えていることが出来たなら、机の上の写真に、椅子に掛かったワンピースに、本棚を埋めている小説に――彼女の存在を見出だすことが出来るのに。その死を悼むことが出来るのに。
その人がここに居たのは明らかなのに、一緒に暮らしていたのだから知らないはずはないのに、サーシャはこの部屋は他人の部屋だと思う。見ず知らずの人間が住んでいた部屋だ。死んでしまったという実感がないのは、知らない人間からだ。悲しいと思わないのも、やはり知らないからだ。ただ感じるのは、知らない人間と暮らしていたらしいという、どうしようもない気持ちの悪さだけ。
そんなふうに感じる自分がひどく疎ましく、空しかった。サーシャは頭を一つ振って、部屋から出ようとして――ふと引っ掛かりを覚えて立ち止まった。振り返る。
ベッドのカーテンが揺れている。内側から煽られたように、大きく膨らんで。
(ああ、この部屋)
彼はベッドに歩み寄る。先程からカーテンは揺れていたはずなのに、なぜ今まで気がつかなかったのだろう。
(――この部屋、窓が)
はたはたと揺れるカーテンを手で掴んで、開ける。中から白い光が溢れ出す。
(変な位置にあるから――)
そして中を覗き込んだ彼は、カーテンを掴んだ体勢のまま硬直した。起きてはならないことが起きてしまったのだという、漠然とした正体不明の衝撃に襲われる。
窓が開いている。そこから入る風に乗って、庭の木に咲き乱れた白い花が無数に舞い込んでいる。白い、槐の花。
花に覆われて、ベッドの上は白い。細かな花びらが、まるで水のように波打っている。
サーシャは目をベッドに滑らせる。手前の端から、大きく開いた窓のほうへ。
ベッドは壁に付けられている。窓の下の壁は、そこに寄り掛かるには少し低い。腰の高さくらいしかない。そして、そこに。
その窓枠に、赤いものが落ちていた。いや――サーシャは花に埋もれたベッドに視線を落とした――そこだけじゃない。ベッドにも。波打つ花の海の間に――赤い色が。
さんざん躊躇ったすえ、部屋の主に心の中で詫びながら、サーシャは靴のままベッドに踏み込んだ。そのまま窓辺に行き、寄り掛かってみた。やはり低い。気をつけていないと落ちてしまいそうなほどに。
そしてそのまま下に目を向けて、彼は息を呑んだ。窓の真下の地面、薄く汚れた石畳が――赤黒く汚れていた。それはやはり、
「血だ……」
彼は手元を見る。落ちないように掴んでいた窓枠を見る。そして、嘆息した。
窓枠についた赤い染みは、小さな手の形をはっきりと残していた。
◆
カーテンを開けたときの衝撃の正体がわかった。
白い花だ。ベッドから零れて、床にも落ちている、細かな花びら。そして、
「……ユマ」
――そう、ユマだ。朝、ユマの髪から落ちたのも、これと同じ槐の花。あの時は、彼女が寝ている時に窓から入ったのだろうと思って気にも留めなかった。しかし、サーシャは思い出す。ユマの部屋は、この部屋の向かい側なのだ。間取りは廊下を挟んで左右対称で、当然窓の位置も反対である。
この部屋の真正面に植わっている木の花が、ユマの部屋に入るはずがない。つまり、ユマは昨夜、居たのだ。この部屋に。
「彼女」と一緒に。
サーシャは再び窓の下を見る。窓枠に残った手形を見る。
「……ユマ……」
小さくつぶやいた声は、ひどく掠れていた。窓枠にかけた手が震える。
小さな手の形。あどけない形。子供の手。――ユマの手。
彼は震える指でそれをなぞりかけ、耐え兼ねて顔を覆った。頭の中では言葉が渦巻いていた。
――ユマ。お前は。
「お前は……何をしたんだ……」
喉の奥から絞り出した言葉に、当然ながら返事はない。サーシャは長いこと、花に埋もれてそこに座り込んでいた。
◆
昼過ぎ、学校を終えて帰ってきたユマは、朝のことなど忘れたように元気だった。サーシャの後にくっついて歩いては、なんだかんだと話しかけてケラケラと笑い転げる。
いつもと同じだった。
サーシャは笑って相手をしながら、内心で怯えていた。彼女がやはり、何も覚えていないらしいことに。そして、ユマが殺したかもしれない女性を哀れに思うより先に、ユマがそれ自体忘れていることに安堵している自分に。
石畳の血痕は、ユマが帰ってくる前に消してしまった。二階の部屋には今は鍵をかけてある。明日ユマが居ないうちに全部片付けてしまおうと、そう思った。
――そう。隠してしまえ。どうせわかりはしないのだ。「彼女」の存在は、誰の記憶からも消えてしまったのだから。誰も覚えていないのだから。ユマだけを守れれば良いのだから――。そんなふうに、自分の中で声がする。
生まれて初めて、この町が恐いと思った。
人を殺しても誰も気づかない。被害者は忘れ去られ、加害者は罪を忘れ――そうやって流れていく。
それは誰のせいでもないけれど。誰にもどうしようもないことなのだけれど――。
楽しそうに笑って話しているユマを見ながら、諦めるしかないのかもしれないと、彼は思った。
ユマが彼を呼ぶ。――庭へ行こう、お兄ちゃん。
サーシャはそれに笑いながら応じて、飲みかけの紅茶を置いて立ち上がった。
テーブルから離れる彼の肩から、白い槐の花びらが一片舞い落ちる。それは踊るように宙を滑り、紅く透き通った紅茶の上に落ちて、水面に微かなさざ波を起てた。
人気の失せたダイニング、テーブルに置かれた小さなカップの中。白い花びらはほんの僅かの間、その小さな波に揺られていたが、やがて力尽きたように、紅い液体の中に沈んでいった。
こんにちはー。
今回は辛気臭いものを書いてみました。しかも苦手な三人称…。
えっと、はい。シリアス+切なさっていう、こともあろうに一番苦手なものに手を出してしまいました。拙い文章で申し訳ない。
あらすじの所にも書きましたが、一応シリーズになる予定です。この舞台で短編をあと2本くらいは書きたいと思っていますので、今回説明出来なかった部分もそちらで書きます。
では。読んでくだり、ありがとうございます。