56P科学の音色で奏でる真実Ⅲ
二か月前のある日。
イオンは普通科の科学実験室のひとつに陣取って実験をしていた。
「うん?うぅ~ん…」
イオンは丸いフラスコを睨みながら何やら唸った。
彼が軽く手首を振ると、榛色のいつになく真剣な瞳がうつるフラスコの中で透明な液体がちゃぽんと揺れる。
その様子を見た彼の表情が落胆で曇る。
「っかしーなぁ~」
イオンは首を捻りながら、机の上に本を広げる。
ぱらぱらとページをめくる音が響く。
しばらくすると、イオンは腰掛け椅子に座ったまま、机に片足を掛けて危なっかしく椅子を揺らしながら本を抱きかかえて読みだした。
ぎぃぎぃと椅子がきしむ音とページをめくる音が部屋を支配する。
「う~ん……」
どうやら読んでいた本では望む答えが載っていなかったのか、本を机の上に無造作に置き、傍らに置いてあった別の本を手に取る。
本の重みで机がわずかに震え、フラスコの中の透明な液体が揺れて跳ねる。
お行儀悪く、片足を机の上に置いて椅子をぎぃぎぃ揺らしながら彼は本をめくる。
夕暮れ時の柔らかな風が部屋に入ってきて、彼の金の髪と首に掛かっているゴーグルを撫でる。その風に遊ばれて、机の上でただ開かれたまま放置されていた本がぱらぱらとめくれ、見返し部分の“紋”が露わになる。
一方、重い革張りの本と十代の育ち盛りの少年の重みを不安定な形で受け止めていた椅子がミシ…ッ…とおかしな音を立てた。
それは、何十年もの間たくさんの生徒を受け止めて来た古い椅子の、最後の悲鳴。
………ギシ…ッ
………バキッ ………ガタンッガタタタタッ
「んぎゃっ!?」
椅子の足が片方欠け、イオンの体が宙に放り出される。
彼を放り出して自由になった椅子が長机にぶつかって、机の上のものが揺れ、暴れた。
――……ことんっ
丸いフラスコが倒れ、少年が製造した謎の液体Xがこぼれ出て、机を濡らして行く。その、液体の行く末にあるのは、美しい女神をモチーフにした“紋”が記された本があった。
「いだだだ……」
奇跡的に特に怪我もなく起き上がったイオンは机の上の惨状を見て小さく息を飲んだ。
「げっ!?」
彼の悲鳴の先には、謎の液体Xにぐっしょり浸された重そうな図書がある。
「うあっちゃあ~」
何となく緊迫感のない彼のやっちまった~な声と共に、図書が謎の液体Xの水溜りから救出される。
「…………乾かしたら、大丈夫か?」
この図書は王立学院図書館で借りて来たモノだ。
破損させたりしたら、弁償しなければならないのだが、如何せん彼には弁償出来るほどのお金はないし、彼の代わりに弁償してくれる人はいない。
濡れた図書の柔らかくなったページをめくっていたイオンは見返し部分を見て蒼白になった。
「やばい。どうしよう…………」
彼の視線の先には、何もない白のページがむなしく開いていた。
「「……」」
そこまでの話を聞いたユーリとゼクスはお互いに頭を抱えた。
「何ですぐに図書館に出頭しなかったの!?」
復活したのはユーリだ。
くわっと噛みついた彼女にイオンが両手をあげた。
「いや、行こうとしたんだけどな。あの、首っ、しまっ……」
ぐいぐいと詰め寄るあまりにイオンの首を締め上げているユーリをゼクスがイオンから引き離して座らせる。
「落ち着け、ユーリ。で、その後どうしたんだ?」
「その後、魔導科の義兄ちゃんの所に行ったんだよ。魔導で記された“紋”を漂白剤もどきが消すことが出来るのかって」
「で?」
「そしたら、義兄ちゃんに説教喰らって、逆エビ固め喰らったあげく魔導科学生寮を引き摺り回されて」
(拷問?)
最後、なんか酷く無体な仕打ちをイオンが受けた事をユーリは聞いた気がする。
「経緯はいいから、義兄ちゃんとやらの名前を言え」
(流すの!?)
さらっと流したゼクスにちょっと引きつつ、ユーリも話を聞く。
「グレン・ガスパール」
「グレン!?」
「知り合い?」
「いや、俺の友人の兄弟が……って、ああ、そうだ、あいつも『ガスパール』だったな」
一人自己完結したゼクスを不気味そうに見やりながら、ユーリはイオンに向き直る。
「この『学院』に入学しているイオン君の兄弟多いね」
「『学院』の特別奨学金制度と身元保証してくれている神父のおかげです」
堂々と胸を張ってイオンは頷く。
「特別奨学金って、学年学部で成績一桁台の成績優秀者にしか出さないアレだよね!?イオン君、特別奨学生なの!?」
「じゃなかったら、北のド田舎の孤児が南の街で暢気に学生してないだろ?」
イオンが受けている特別奨学金制度は学年・学部双方で特に成績優秀であった者に与えられる、衣食住学業におおよそ必要であると認められる物を全て『学院』側が負担、かつ奨学金の返済義務を免除して貰えるという、生活に困窮している者達からすれば、垂涎の制度である。
「…あれ?でもお前一回落第しかけたって……」
「ああ、特別奨学生をって意味。いや~、ヤバかった。学年9位、ベア義姉ちゃんに縊り殺されそうになった」
(いっそ縊り殺されていればよかったのに………)
そうすれば、こいつが漂白剤もどきの謎の液体Xで魔導書の“紋”を消すことはなく、この騒動も最初から起こらなかったのでは、と思うと思わず殺意が沸く。
「って、お前の事はまあいい。そんなことより、グレン・ガスパールがその漂白剤もどきを持っているってことだな?」
「いや?義兄ちゃんは持ってないと思うぞ」
「え?」
「義兄ちゃんに渡した後、魔導科寮から引き摺られて外に出たら、魔導科の先生に遭ってな、漂白剤もどきを取り上げられた」
「はぁ!?」
「誰にとりあげられたの!?」
「それは……」
イオンの目がうつろに揺れる。
似たような光景をつい最近、ユーリはこの病院で見た。
(……嫌な予感……)