29P舞台裏で奏でられる練習曲
翌日
セフィールド学術院にて行われる『学研』が四日後に迫った今日から授業は午前中のみ。
忙しそうに、楽しそうに走り回る生徒たちが青空の下で笑っている。
その姿を館長室の窓から見つめるエリアーゼは知らず口許に微笑を浮かばせた。
「そう、あなた達は何も憂う事はないの。いまを楽しみ、いまをきちんと生き、いまの自分を誇ればいいの」
彼女は、図書館から『学院』の学舎に伸びる道のひとつに見知った後ろ姿を認めるとなお瞳を和らげた。
「そう、あなたもいまを生きればいいの。……何があったとしても、どうかいまを愛して」
祈るように願うように、呟かれた言葉。
それに被さるようにドアをノックする固い音が響いた。
「エリアーゼ館長」
「はい」
温かく、年老いたギズーノンの声を窓に視線を向けたまま聞いた彼女はゆっくりと表情を消す。
「騎士科の対魔導学部の教官がお会いしたいと」
「通してくださいな。ああ、ついでにお茶の用意をしていただけません?」
にっこりといつもの柔和な笑みを浮かべて、エリアーゼは応えた。
(私は私の戦いをするのみ。私の愛すべきいまのために)
ギズーノンの控えめな扉の開閉音と共にエリアーゼを見据えたのは、濃い焦げ茶色の髪を短く刈り込んだ、軍人のような厳つい体つきをした男だった。
この国の王国騎士団の纏う団服を模した青い制服を纏う男は、左の顔を黒い仮面で隠していた。
残された右の目は猛禽のように鋭く、冬の湖畔のように冷たい青がただ荒事にのみ従事してきた男ではない理性を湛えている。
「本日はお時間をいただきありがとうございます。私は、セフィールド学術院騎士科対魔導軍学教官ディルツ・ツヴァイ・レベルドと申します。以後お見知りおきを」
「まぁ、ご丁寧にありがとうございます。…立ち話もなんですし、どうぞ、お掛けになってくださいな」
「ありがとうございます」
レベルドの身体を受け止めたソファが小さく音を立てる。
「レベルド教官のお話はよく伺っておりますわ。けれど、あなたほどの方が、一介の図書館長に何の御用でこちらに?」
「先日の占術学部の事故に対し、迅速なる対応とご協力に感謝を」
彼はエリアーゼの前で深く体を折った。
「いえいえ、とんでもありませんわぁ。暴走したのはわたくし達が貸し出した魔導書ですもの、自分達が貸し出したモノに対する最低限の義務を果たしただけですわぁ」
彼の堅苦しい謝礼にエリアーゼは苦笑しながら、すっと目を細める。
「そう言っていただけるとありがたい。私の受け持つ教科は対魔導を専門とする訓練もありますが、実践を積んでいないヒヨッ子どもを戦地に放り出すわけにはいきませんから」
腰を落とした男の胸元には青紫色の、剣と楯を模した徽章がちりりと揺れた。
「まぁ、ご冗談を。貴方が教えた生徒達の活躍は王都から離れたチューリでもよく聞きますわ。…みな、対魔導師に特化した戦闘方法で<クラン>の断罪人たちにすら恐れられているとか」
「賞賛が過ぎます。あんなヒヨッ子ども、戦場に放り出されれば、魔導の炎ですぐさま消し炭です」
猛禽のような瞳が苦く眇められる。
「まぁ、手厳しい。『魔殺し』と呼ばれた騎士の目に適うには、何年かかる事やら」
卒業生たちが哀れだとでも言うようにエリアーゼが溜息をつく。
「十年も前の話を持ち出さないで下さい。いまは一教師なのですから」
一瞬落ちた沈黙を読みとったかのようにドアが控えめに叩かれ、ギズーノンが貴族に使える執事に勝るとも劣らぬ優雅な作法で茶を給仕する。
(………なるほど)
エリアーゼはレベルド教官が求めるモノに気づいて、舌打ちしたくなった。
『戦場』
『実践』
『対魔導を専門視する訓練』
ここまであからさまにされれば誰でもわかる。
(………知識欲に狂った魔導師共の相手を生徒にさせる気か!!)
苛立ちと濁るような感情を、茶を飲み下すことで騙す。
エリアーゼのエメラルドのような瞳は油断なく“敵”を見据えた。