26P迷走する仔羊に捧げる独奏歌
アヴィリスは己の周りを覆った赤い霧の中で小さく溜息をつく。
(無茶を言ってくれる)
ちらりと視線を転がした先では、黒髪の少女が紙よりも白い顔でぐったりと項垂れている。
「…………」
アヴィリスは何も言わずに魔導陣の中心を見つめた。
そこには、魔鉱石から発せられた魔力が七色に輝き、その渦の中で魔導の術式が混じり合い、強い魔力に弾かれて、飲み込まれて、………混沌とした光の渦が発生している。
魔導と魔力の暴走。
魔導師には見えるこのおぞましい光景。
(まぁ、あいつはわかって言ったわけじゃないだろうがな)
自分が作り出せる最強の防壁を何重にも張り巡らせる。
(どっちにしろ魔導構造を解くために中に入る予定だったし、まぁ、予定が早まったとでも思うか…………)
「…………行くか」
誰かに、おそらく己に言い聞かせるようにアヴィリスは一歩前に踏み出す。
……………ざわっ
「ぐぅっ…っ!?」
中心に程近い魔導陣の円を一歩またいだ途端、体が重くなった。
混沌と渦巻いていた魔力と魔導が歪み、アヴィリスに降り注ぐ。
(俺が使える防護魔導を四重にしても、これかっ!?)
もうひとつ結界を張ってみるが気休め程度にしかならない。
中心にはまだ遠い。
「これは、気を抜くと飲まれるな」
アヴィリスの白磁のような肌の上を汗が伝う。
確かにアヴィリスは魔導師である故に魔導や魔力に対して耐性がある。
むしろ、この魔導耐性能力の高い体質のために宮廷魔導師にまで駆け上ることが出来たともいえる。
どれほどすごい魔導を開発できたとしても使えなければ意味がない。
ほとんどの魔導師がこの耐性能力を高めることが出来ずに挫折していくのだ。
しかし、こんな大規模な暴走に出会ったのも、調査することになったのも初めて。
その上、ロクな装備もない状態での超無謀行軍。
結界を張っているが、実際はほとんど自分の魔導耐性体質のみが頼りである。
(何で、平和なはずの『学院』でこんな命懸けの決死特攻をしないといけないんだ?軍にいた時でもこんな経験したことがないぞ!!)
けれど、よくよく考えてみると、いまこの『学院』の魔導科では魔導書をめぐった内戦が勃発している。
(この『学院』はいま平和とはかけ離れた状態だったか………)
現実逃避の一環なのか、どんどん思考が散漫、かつ諦観の領域に沈み込んでいっているのを感じながら、アヴィリスは前に進む。
中心まで、自分の歩幅でだいたい30歩くらい。
………結構、遠い。
「…………ぐくッ…………うぁ……」
10歩目で、思わず呻き声が唇からこぼれた。
顔は苦痛で歪み、服は脂汗でびっしょり濡れて絞ったらすごい事になりそうだ。
足はもうがくがく震えて立っているのもつらい。
霧のように漂う濃い魔力のせいで息をするのも苦しくなっている。
11、12、13、………まだ、歩ける。
20歩目。
もう立てない。
振り返った先のユーリがこっちを見ていなのをいいことに四つん這いになりながら前に進む。
まともに息が出来ないせいで視界がかすむ。
だが、ようやく一番中心に近い場所にまでたどり着いた。
一番最後の魔導陣の円。
世界の中心を表すその円とその中心はまるでそこにだけ穴があいているかのように、黒い。
あと、20エイト(20cm)で辿り着く。
そこで、アヴィリスはとうとう力尽きた。
身体が持ち上がらない。
アヴィリスは意を決すると、『書架』を手に持ち、
「とど、けっ………ッ!!」
渾身の力で投げた。
『書架』はアヴィリスの指先で小さく跳ね、惰性でコロコロと転がり、すべる。
(たのむ!!)
霞んだ視界の先で、『書架』が魔導陣の最後の円を潜り抜けた。
「………う、あっ」
魔力が充満する重い空気を無理やり肺に送り込む。
その途端、吐き気と血の味が口の中に広がる。
それを無視して叫ぶ。
「ユーリ!!」
「うっ………」
ユーリは重い体を揺すった。
呼ぶ声が、聞こえた。
どうにかこうにか身体を持ち上げ、上体を起こして見る。
視界の先、魔導陣の中心らしき場所の手前で、倒れている人影が見えた。
「アヴィリス、さん」
驚き、思わず不安定に身体を揺すった途端、突風に襲われ机から身体が落ちた。
鈍い衝撃と共に、体を激痛が襲う。
「………………ぅあッ!!」
本当に痛いと悲鳴すら消えるのだと、初めて知った。
涙で滲む視界の端、自分が落ちた机が鈍い音を立てて破裂した。
「!?」
仰向けで上げた世界。
さっきまでは物音一つしない、無音の世界に嵐のような突風が吹き荒れている。
吹き荒れる突風は散乱していた机やノート、実験道具を吹き飛ばし、破壊し、乱立する黒い花の蕾にまで襲いかかる。
……ピキッ
「あっ…………!!」
ユーリの視線の先、ひとつの蕾にヒビが入った。
(やめろ………)
蕾の中には人がいる。
「【やめろ!!【星霜のお伽噺】!!】」
思わず叫んだ声。
操られたかのように、ユーリは【語られてはいけない言葉】を使った。
その声を受けたように、『書架』のページが開かれる。
ページが高速でめくられ、見えない誰かがようやく目当ての個所を見つけたとでも言うように開かれたページの上に、インクがにじみ、文字が綴られた。
『【魔導書・混沌の箱舟、使用者の魂を承認。ユーリ・トレス・マルグリットを新たな所有者と認め、封印解除を行使】』
『書架』の四方を守っていた金の装飾が音もなく砕け散る。
『【所有者の身にAAA級の魔導被害を確認。ユーリ・トレス・マルグリットの意向の下、魔導書『星霜のお伽噺』の即座停止。『鍵・錠』双方の魔導により生まれた異空間の破壊・離脱を実行】』
文字列が消え、ぱらぱらとページが独りでに動く。
『【使用魔導・銘『神々の黄昏』ならびに『楽園の大罪』発動】』
その文字が消えると同時に、『書架』を中心に二つの魔導陣が、暴走する魔導陣の上に描かれる。
三つの魔導陣の重なり合いにより、魔導陣同士が強く反発し合い、生き場を失くした魔力が正道な流れを生む魔導陣に取り込まれ、消滅していく。
それと同時に、魔導の光が世界を覆い尽くした。