18P迷走幻想曲part2
異形との戦いに身を投じたアヴィリスを見、ユーリは呆然とその場に立ちすくむ。
「…………あたしは普通の学生で司書なんだけど……………」
騎士科や魔導科の生徒のように戦闘や魔導の事を勉強していないし、“保安司書”のように特別な訓練も指導も受けていない、普通の学生で普通の司書だ。
だから、生物として規格外すぎる異形たちとアヴィリスの戦いに参戦する気は毛筋一本ほども沸き上がらない。
ぶっちゃけ、本音を言うと帰りたいのだが……。この部屋から出られないから仕方ない。
「いったい、どうすればいいんだか………」
溜息と共に項垂れたユーリはふと、視線を感じてそちらに目を向ける。
視線の先には、山羊のように丸まった角を生やし、白い女鹿の体を下半身に持つ美しい女がいた。
異形の美女は、ただじっとユーリを見つめていた。
深い叡智を感じさせる深い緑の瞳に吸い込まれるように、ユーリは彼女を見つめ返す。
「……………あなたは…?」
ユーリの声に応えるようにゆっくりと女は近づいてくる。
まるで雲の上を歩いているかのような静かで音のない動きで、こちらに来る姿は息を飲むほど優雅で美しい。
そのせいか、不思議と恐怖を感じない。
むしろ、深い森を連想させる緑の目を見つめていると心が落ち着き、奇妙な安堵を感じる。
『汝……』
「えっ?」
言葉が使えないと思っていた異形の女の口から低く落ち着いた女の声が発せられた。
知性を感じるその深い音にユーリが驚く暇もなく、
――………キシャアアアアッ
「ッ!!」
ユーリの背後から巨大な大蛇が襲いかかってきた。
血のように赤い口腔と不気味な銀に輝く巨大な牙が自分に降りかかってくるのをユーリは成す術なく見つめる。
「ユーリ!!」
アヴィリスの声が聞こえたと思った瞬間、
――…ごぅっ
「きゃあああっ!!」
大蛇ごとユーリの体は大きな風の塊に吹っ飛ばされた。
「くそっ!!」
小柄な少女の体が宙に浮くのを見たアヴィリスは苦々しく舌打ちをする
ユーリを守るため、風の魔導で大蛇を打ちのめしたつもりが、加減を間違えてしまったらしい。
アヴィリスが放った魔導の余波でユーリが吹っ飛んでしまった。
慌ててそちらに向かおうとしたアヴィリスの前に猪のような姿をした異形が襲いかかる。
「邪魔だ!!」
アヴィリスが剣を振るった瞬間、無数の水の矢が生まれる。
その矢を受けた異形が数匹、形を崩して消えた。
しかし
「………」
アヴィリスは無言で舌打ちをして剣を構えなおす。
視線の先にはさっき矢を受けて消えたはずの異形がアヴィリスに向けて威嚇して身構えていた。
倒しても、消しても、炎で焼いても異形達はいつの間にか元に戻ってアヴィリスに戦いを挑んでくる。
「どういう魔導だ?……わけがわからん」
しかし、このままでは防戦一方で獣たちに甚振られるだけだ。
「どけっ!!」
アヴィリスの怒声と共に、雷の魔導が紫電を放ちながら、矢のように異形達に襲いかかる。
(いったいどうなっているんだ?)
「うあぅっ!!」
鈍い振動に揺さぶられた体が悲鳴を上げる。
「う…………」
床に投げ出されたユーリは遅い動作で体を起こした。
「? 痛くない……?」
固い床に叩きつけられたはずなのに、体は痛みを訴えない。
きょろきょろとあたりを見回したユーリは、柔らかで温かい何かが背中を守っている事に気づいた。
「あ………」
白い女鹿の下半身を持つ女の人がユーリの背後に跪いていた。
「叡智の女神の大地の従者、スーシャ………」
王立学院図書館の紋章のモチーフになっているのは、チューリ近辺で昔から伝わるお伽噺に出てくる『叡智の女神』。
叡智にあふれ、慈悲深い、知恵と慈愛の女神は空と大地と海に属する生き物から一匹ずつ従者を選んで側に置き、未知なる知識を従者に集めさせる一方で、己の知識を世の中に分け与えるために従者を使ったとも伝えられている。
その従者の一人がこの雌鹿の体をもつ美しい女性。名をスーシャという。
ある神から罰を受けたこの女性を慈悲深き女神は従者にした。
故にこの従者はもっとも女神に忠実で、女神のために千里を駆け抜け、災厄から民衆を守るための道標になったという。
『我は問う。汝、叡智の塔の住人たるか?』
無表情の人形じみた美貌に見下ろされて、ユーリはたじろぐ。
(叡智の塔って?)
ユーリの脳裏に『知識の塔』『賢者の迷宮』という異名を誇る王立学院図書館の堅牢な姿と膨大な図書が思い浮かぶ。
(王立学院図書館のことかな?)
「うん。あたしはあそこに住んでるよ?」
こくりとユーリは頷く。
その、瞬間。
ユーリの視界がふっと暗くなる。
訝しげに顔をあげたユーリは自分に向かって振り下ろされる二つの蹄を見た。
「ええっ!?」
スーシャはいきなり後足で立ち上がって強靭な前足を彼女の頭上高くに掲げ、振り下ろす。
立派な蹄が振り下ろされる瞬間、ユーリは目を瞑ってその場に蹲った。
(蹴られるっ!!)
……ドズンッ
――……ぎゃあああっ
「え?」
ユーリの背後で甲高い悲鳴が響いた。
振り返ると、六本腕の狒狒らしき生き物がスーシャに踏みつぶされて悲鳴をあげていた。
(助けてくれた?………何で?)
無表情でただ側に佇むスーシャを見上げたユーリはふと、指先に違和感を覚えて視線を落とす。
ユーリの小さな指先から手の甲まで、黒い液体がべっとりと纏わりついている。
「何?コレ」
恐る恐る、手を目の前に持ってくると、ツンっと馴染み深いにおいが鼻を刺した。
「インク?」
自分の手を染めるその黒い液体は何の変哲もない、普通のインクと同じようだ。
しかし、
「何で?あの化け物を倒したら、何でインクが?」
インクの発生源は明らかにあの狒狒のような異形からである。
だが、ふと、アヴィリスに倒されて消えた異形達も黒いシミを残して消えた事を思い出す。
アレもインクだったんじゃなかろうか?
「どういう事?」
『我らは魔導書の魔導により夢から現に現れた幻のようなもの。なるほど、幻の体の素となっているのは魔力を帯びた染料らしい』
「え?」
首を傾げたユーリに叡智の女神の従者たるスーシャは滔々と語る。
『この世界すべてに充満した魔力と魔導が我らにかりそめの自由を与えたのだ』
スーシャの歌うような美声で語られる事実にユーリはがっくりと項垂れた。
「ああ、やっぱり……」
『神秘の間』(仮)にて魔導書はしっかり暴走していたらしい。
確実に、魔導実験の大失敗。
何の魔導実験をしていたのかまったくわからないが、迷惑極まりない事である。
深刻そうな溜息をついたユーリを眺めたスーシャは何事か思案するように眉を寄せた。
『何か手を貸せるのであれば、手を貸そう』
ユーリの様が哀れだったのだろう、慈悲深い叡智の女神の従者からそんな提案が差し出された。
「えっ!?いいの?ありがとう!!」
思ってもいない提案にユーリは喰いついた。
『まずは……』
スーシャが何事かいう前に、ユーリを狙って狼のような異形が襲いかかってくる。
『我は汝を守ろう。か弱き、叡智の塔の住人。我が主の愛し子であり、古き神々の民よ』
「え」
ユーリが聞き返すより先にスーシャが狼に向かって突進する。
彼女より大きな狼は鈍い灰色の毛皮に残虐そうな深紅の瞳をぎらつかせ、巨大な牙や爪、額に生えた角でもってスーシャを攻撃する。
「スーシャ……」
ユーリは心細そうに小さく呟く。
ユーリを守って戦うスーシャ。
ふと、壮絶な破壊音を聞いてそちらを向く。
たくさんの異形に群がられながら、アヴィリスが戦っている。
戦闘に詳しくないユーリから見ても防戦一方である事がわかる、戦い。
何度も復活する異形相手に無理からぬことである。
(なんとかしなきゃ!!)
見ず知らずのユーリを守るスーシャや自業自得が半分入っているとはいえ巻き込まれたアヴィリスをこれ以上苦しめるようなことは出来ない。
ユーリは鞄の中に手を突っ込む。
鞄から取り出したのは王立学院図書館から支給されている懐中時計。
ユーリはその懐中時計を開ける。
「あった!!」
懐中時計の中から“紋”が記された丸い紙を取り出したユーリは目を輝かせる。
以前、『始まりの叡智』の魔導を解放するために使った、“紋”。
“紋”には魔導書の魔力の抑制する作用がある。
しかし、
(魔導書の暴走を抑えられるかどうかはわかんないけど!!)
『娘!!逃げろ!!』
スーシャの焦った声に振り向くと、巨大な蟇蛙がユーリに向かって飛びかかって来た。
(イチかバチか!!)
「王立学院図書館司書、ユーリ・トレス・マルグリットの名の下に、“紋”の仮申請……っあっつぅううっ!?」
“紋”を掲げたユーリだが、そのユーリの手の中で“紋”がいきなり燃え上がった。
「ええっ!?」
ぎょっと目を剥いて手の中の灰を見下ろしたユーリは、巨大な影に自分が覆われた事に気づく。
顔をあげた先にあったのは……
「え゛?」
大きく口を開けた蟇蛙、の赤い口腔。
「ユーリ!!」
アヴィリスの切羽詰まった声を最後にユーリの意識は黒に塗りつぶされた。