人間は、思っているより視野角が狭いらしい
人は、揃っているものに安心するらしい。
同じ方向に流れる人波とか、同じ音で鳴る信号機とか、
同じ規格で作られた箱の中で生活していることとか。
そのくせ、少しだけズレていることには、
驚くほど無関心だ。
気づいていないのか、気づかないふりをしているのか、
それとも本当にどうでもいいのか。
たぶん、その全部だと思う。
朝、交差点に立つ。
信号が青に変わる。
人が動き出す。
その瞬間、いつも少しだけ、流れが歪む。
左から来るはずの人が、右に寄る。
それを避けるために、自分も右に寄る。
正面から来た誰かと、ほんの一瞬だけ進路を譲り合う。
その一歩分の躊躇が、妙に気持ち悪い。
車は左側を走る。
自転車も、左側を走る。
それはルールで、例外はない。
なのに歩く人間だけは、
どちらに寄ってもいいことになっている。
いや、違う。
「どちらに寄ってもいい」
のではなくて、
「どちらにも寄っている」
のだ。
その曖昧さを、誰も指摘しない。
エスカレーターに乗る。
前の人は右に立っている。
左側は空いていて、急ぐ人が通っていく。
別の街では、これが逆になる。
そんなことを知っているのに、体は勝手にその場の流れに従う。
考える前に、合わせてしまう。
そのことに、少しだけぞっとする。
電子レンジの「600W」という表示を見たとき、
ふと考えたことがある。
この600Wは、本当に同じ600Wなのか。
東と西で、電気のリズムが違うと聞いたことがある。
同じ数字を使っているのに、実際の力は微妙に違う。
それでも誰も気にしない。
数字が同じなら、それで納得してしまう。
沖縄の牛乳は、946mlらしい。
1リットルではない。
中途半端なその数字が、やけに気になる。
昔の単位の名残だとか、工場の関係だとか、
理由はいくらでもあるのだろう。
でも、理由があることと、納得できることは、少し違う。
揃えられるはずのものを、
揃えていないまま放置している感じがする。
ヤード・ポンド法を笑う人を見たことがある。
「インチとかフィートとか、分かりにくいよね」
と。
その通りだと思う。
でも、その人はエスカレーターでどちらに立つかを、
毎回周りに合わせて決めている。
電気の周波数が地域で違うことも、特に気にしていない。
気づいていないのか、気づいていても無視しているのか。
どちらにしても、少しだけ滑稽に見えた。
揃っていないものを、揃っていると思い込むこと。
それが、この国のやり方なのかもしれない。
完全に統一するには、コストがかかる。
時間も、労力も、反発も。
だから途中でやめる。
ある程度揃ったところで、「これでいい」とする。
残ったズレは、日常の中に溶かしてしまう。
そして僕たちは、そのズレを、
まるで最初から存在しなかったものみたいに扱う。
本当は、ずっとそこにあるのに。




