トンネル
茨城県のとある場所に、新しいトンネルができるらしい。
突貫工事だと聞いて、菜花は幼馴染の昭文を連れ、半ば冷やかしのつもりでその場所へ向かった。
近くには海があり、風の中にはつねに潮の香りが孕まれていた。
その物静かな風景とは裏腹に、工事の音だけが低く、絶え間なく響いている。トンネルの入口近くでは、作業員の男が二人、鉄材を運んでいた。ヘルメットを深く被っているため、顔立ちはよく分からない。
クレーン車を使わないのだろうか。
そんなことを考えながら眺めていると、昭文がふと、こんなことを言い出した。
「トンネルって、集まるんだよな」
その横顔を見やったが、昭文は無表情で何を考えているのかよく分からない。
「集まる? 何が」
「さあ。この世のものじゃないやつ」
「抽象的すぎる」
菜花はトンネルの中がどうなっているのか、急に気になりはじめた。
入口の奥は影に沈み、昼間だというのに、どこか別の世界につながっているようにも見える。
トンネルには、昔から不思議な魅力がある。
こちらと向こうを隔てる境界線のようでいて、同時に、それを曖昧にする場所でもある。
向こう側には、自分の知らない世界があるのではないか。
そんな考えが、ふと頭をよぎった。
――トンネルは、向こうへ行くためのものというより、こちらを置き去りにするためのもののように見えた。
「夜中、トンネルの中に入ってみない?」
「やめとけよ」
「ええ? 完成前のトンネルなんて、そうそう見られないでしょ。せっかくだし、覗くだけでもさ」
「連れていかれるぞ」
「あはは。そんなわけないじゃん」
夜中の一時ごろ、菜花と昭文は、再びトンネルの近くへやって来た。
物音はひとつも聞こえない。風さえ止まったようで、その静けさがかえって耳を痛くさせた。
菜花は懐中電灯を手にすると、トンネルの中へ一歩踏み入れた。
途端に、空気が変わった。
体感温度は二、三度は低い。吐く息が、白く、細く浮かび上がる。
まるで、別の世界に足を入れてしまったようだった。
菜花は思わず身震いをした。
懐中電灯の光は、奥へ進むほど頼りなくなっていった。行き止まりのはずなのに、なぜかその先にも、道が続いているように見える。
壁際に滲んだ影が、歩くたびにわずかに形を変える。そのたび、誰かが立っているようにも見えたが、目を凝らすと、ただの凹凸にすぎなかった。
それでも、足音だけはおかしかった。
二人で歩いているはずなのに、音が多い。
一拍遅れて、別の誰かの靴底が同じように地面を叩いている気がする。
「菜花」
昭文が低い声で言った。
振り返ると、彼は奥を見つめたまま、動かない。
「ここ、前から人がいたんじゃないかな」
「…作業員でしょ」
そう言いながらも、菜花は自分の声が震えているのに気づいた。
昼間見た作業員の姿を思い出そうとしたが、顔がどうしても浮かばない。
懐中電灯の光が、ふと揺れた。
その瞬間、奥の暗がりでいくつもの白いものが、同時にこちらを向いたように見えた。
数ははっきりしない。
一人とも、十人ともつかない。
ただ「集まっている」という感じだけが、異様に強く残った。
菜花は思わず立ち止まった。
「帰ろう」
そう言ったのは、昭文のほうだった。
「今すぐ」
次の瞬間、背後で乾いた音がした。
何かが落ちたのか、ぶつかったのか分からない。だが、その音をきっかけに、空気が一斉に動いた。前からも、後ろからも、気配が押し寄せてくる。
「走れ」
昭文が、菜花の腕を掴んだ。その力は、驚くほど強かった。
入口のほうへ駆け出そうとした、そのとき。
昭文の手が、ふっと離れた。
「…いいから」
暗がりの中で、昭文が笑った気がした。
だが、それが本当に笑みだったのかどうか、菜花には分からない。
「外に、いろ」
「昭文――」
名前を呼んだ瞬間、背中を強く押された。
よろめきながら振り返ったときには、昭文の姿はもう暗闇に溶けていた。代わりに、奥のほうで、誰かが静かに立ち止まったような気配だけが残っていた。
菜花は、何も考えずに走った。
懐中電灯の光が、何度も壁を掠める。
転びそうになりながら、ただ出口だけを見つめていた。
背後から、呼ばれた気がした。
だが、それが昭文の声だったのかどうか、確かめる勇気はなかった。
あれから十年が経った。
菜花は結婚し、子を産んだ。
帰省するたび、あのトンネルのことを思い出す。
近くまで足を運んでみると、「立入禁止」と書かれた看板が立てかけられ、フェンスが巡らされていた。ただのトンネルとして、そこにひっそりと佇んでいる。
葉の茂った蔦が、入口を覆っている。
その奥には、かつて確かに続いていたはずの道が、今も変わらず、ただ、続いているだけだった……。




