廃屋の天使
いつもの仕事帰りに見かける女性はいつも青アザを隠すのに必死なようだった。
彼女の旦那は強面で筋肉質であり、正に亭主関白の象徴だった。古びたアパートで夫に殴られて、悲鳴を挙げる彼女は、怯えきった小動物に似ていたが、あまりもの美しさに誰もが嫉妬と加虐心に煽られるのが見て取れた。
急激な寒さから温和な春の訪れが感じられる今日も晩の19時頃、平凡なサラリーマンをやっている私の目に買い物帰りの彼女の姿が映った。
今にも泣きそうな顔をして、買い物袋を握り締めている。色白く細い腕にその荷物は過酷に感じた。
私は居ても立っても居られなくなって、彼女から荷物を取り上げた。
「あ、すみません……」
他人に荷物を盗まれたと思わないところまで美しい人だと端的に感じ取る。か細い高い声が優しく響き、まるでカナリヤのようだ。
直感的に悟る。この人は短命だ。いつかDV旦那に殺される。
「私は安斎という者です」
少しでも彼女を安心させたくて私は正体を明かした。
彼女はまた泣きそうになりながら、微笑む。サラサラの黒い髪が甘い匂いを吐き出していた。
「安斎さん、私、澤也雪弧と申します」
自動車が隣を走って行く。咄嗟に歩道側に雪弧さんを追いやった。
間の空いた時間と共に雪弧さんが少し思い出したように私を見つめた。
「1年前から隣に引越して来た安斎さんですよね?」
こんな美人と話せるのが嬉しくて自然と笑みが零れる。毎日、皿の割れる音や悲鳴を聞いてきたが、現実味が今更のように溢れ出した。
「雪弧さん、旦那さんと上手くいってないのでは?」
その質問をすると雪弧さんの表情が一変した。
「隆二さんは愛情表現が下手なだけです」
桜が咲きかけていたが、満開まで1、2週間かかるだろう。雪弧さんが怒るのは意外な一面ではあったが、私も人生のパートナーと不仲と揶揄されるのは非常に不愉快だろうと簡単に憶測できた。
雪弧さんに対して自分にできることを考えてみた。
精々、殺されかけた時に盾になることぐらいだろうか。
私は唇を舐めて、躊躇いながら口にした。
「とにかく身の安全が危なくなったら、私の部屋に駆け込んで下さい」
大きな漆黒の瞳が美しく潤む。誰も助けて来なかったのだ。
本当に妖麗な女性は高嶺の花と言われる。
私は無神経にそれに手を伸ばそうとしているのだ。
それだけは中卒の私でも理解できた。
事の発端は、雪弧さんがパニック状態になって私の部屋に駆け込んで来たことから始まる。
夏の深夜22時近く、雪弧さんは訳の分からないことを必死に私に伝えようとしていた。
「隆二さん、し、し、死ん……まさか、そんな」
ホットココアをお気に入りのマグカップに入れて、雪弧さんに差し出すと20分後にはまともに話せるようになっていた。
雪弧さんは旦那に殺されかけて、条件反射で煙草の灰皿で旦那を撲殺したらしい。
私は現場を訪れると思わず後退りした。
ーー人が死んでいる。
そこには、生命力を失った元は大男だった何かが後頭部から血を吹き出して、和室の畳を紅く染め上げていた。早くも腐敗臭が漂い、その場でいることが忌み深く感じられた。
雪弧さんが泣きじゃくっている。彼女を宥めながら、雪弧さんと私、どちらを犯人に仕立てあげようか、熟考した。私にとってプラスなのは雪弧さんを犯人にすることだ。
2人共、助かる作戦を練ったが、何処かでボロが出るのが分かっていた。プロではないのだ。
私はハッキリ告げた。
「私がやったことにしよう」
雪弧さんは私の胸に飛び込んでき、強く叩いた。
「カッコ付けないでよ、バカ」
泣きじゃくって目が腫れている。こんなバカ女が嫌いなのだ。繊細でか弱くて守らないと直ぐ餌食にされる。
10分以上、考えあぐねいた末、結論が出た。
「雪弧さん、私にアナタを殺させて下さい」
婚約指輪を渡す前のセリフのように私は言った。
「これでフェアな殺人です」
それに対する雪弧さんのリアクションは短絡的だった。賛成していた。
廃屋を登って行く。
台風前の大風に錆び付いた建物がギシギシと音を立てる。
雪弧を殺す。
それだけで良い気になる。
これまでの人生で1番楽しい瞬間かもしれなかった。
雪弧は人目憚った物全て捨てていた。唯一、純白のワンピースを着ている。
透けて見える部分はできるだけ目を逸らした。
廃屋の屋上の柵を越えるよう雪弧に指示する。
そして、フェンス越しに熱烈なキスをした。
唇が離れた瞬間、雪弧の体に触れていた手に思いっきり力を込める。
闇に堕ちていく天使は笑みを浮かべた。




