第6章 (6)思い出
夜の帳が、二人の間に深く、冷たい影を落とす。互いが魔法を放つための構えをとると、静寂に満ちていた空間が、一瞬で、嵐の前の緊迫感に包まれた。シルヴァの右手に集束する魔力の光と、ローブの女の全身から溢れ出す、冷たく、不気味な魔力の気配。二人の間に渦巻く魔力は、大気を震わせ、周囲の瓦礫を細かく揺らしている。
先に仕掛けたのは、ローブの女だった。彼女の指先から、無数の黒い魔力の矢が、まるで意志を持ったかのように、シルヴァめがけて放たれる。一本一本が、命を奪うことを目的とした、純粋な殺意の塊だった。
シルヴァは、その攻撃を、まるで舞うように優雅に、しかし、精確にかわしていく。彼の足は、地面に吸い付くように動き、身体は、まるで風に舞う木の葉のように、しなやかに魔力の矢を避けていく。彼は、その全ての矢が、ローブの女の放つ、次の大技の魔法への布石であることを理解していた。
「無駄だ…!」
ローブの女が叫ぶ。彼女の声は、激情に震えている。彼女は、シルヴァが自分の意図をすべて見透かしていることを知っていた。その事実に、彼女の心は、焦燥と、そして、どうしようもない苛立ちに満ちていた。
シルヴァは、彼女の言葉に、何も答えなかった。彼は、ただ、静かに、しかし流れるように、魔法の詠唱を始める。彼の口から紡がれる言葉は、古の言語。それは、彼が彼女に、最も時間をかけて教え込んだ、魔法の真髄だった。
「…『星屑の剣』」
彼がその詠唱を終える前に、ローブの女は、彼の動きを先読みし、再び、強力な魔法を放った。それは、彼女がシルヴァに教わった、最も得意とする魔法の一つだった。
「『凍結の鎖』」
彼女の指先から、青白い光が放たれ、無数の氷の鎖となって、シルヴァの四肢を縛り上げようとする。しかし、シルヴァは、彼女の魔法が放たれる瞬間を読んでいた。彼は、その魔力の流れを、一瞬で読み取り、彼の放った魔法が、その鎖を、触れることなく打ち砕いていく。それは、まるで、水と氷が溶け合うように、自然で、そして、美しい光景だった。
―――思い出す、あの日のこと―――
「なぜ、その魔法を習得したいと申す?お前には向いておらん。」
「…強くなりたい。取り戻すために、私は、誰にも負けない力が欲しい。」
彼女の声は、冷たかった。しかし、その瞳の奥には、燃えるような憎しみの情熱が宿っていた。シルヴァは、その言葉に、わずかに眉をひそめた。彼女が求める力は、人を傷つけるための力だ。彼は、彼女を、そんな道へと進ませたくはなかった。
「…力は、人を幸せにするためにある。お前が求める力は、孤独を深めるだけじゃ。」
シルヴァの言葉に、彼女は何も答えなかった。彼女は、ただ、彼の言葉を、冷たい視線で見つめ、そして、再び、魔法の練習を始めた。その姿は、まるで、孤独な氷の人形のようだった。
シルヴァは、そんな彼女の姿を静かに見つめ、大きくため息をついた。彼女の心が、どれほど深く凍りついているか、彼は知っていた。しかし、それでも、彼は、彼女の心の氷を溶かしたいと願っていた…
―――――――――――――
(なぜ今思い出す…)
頭の中で次々に思い出が湧き上がる。
二人の戦いは、激しさを増していく。シルヴァは、彼女が放つ魔法を、次々と無力化し、時には、その魔法を、彼女自身に跳ね返していく。彼の魔法は、彼女の魔法を、常に上回り、彼女を、絶望の淵へと追い詰めていく。ローブの女は、その事実に、顔を歪ませる。
「くっ…!なぜ…!なぜ、あなたには勝てないの…!」
彼女の声は、悔しさと、そして、焦燥に満ちていた。彼女は、シルヴァの強さが、単なる魔力の量や、技術の高さではないことを、悟り始めていた。それは、彼の魔法に宿る、圧倒的な経験と、そして、彼自身が持つ、強固な信念。彼女には、そのどちらもが欠けていた。
「わしは…お前を傷つけたくはない…」
シルヴァの声は、苦痛に満ちていた。彼は、彼女に、もう一度、この悲劇から手を引いてほしいと願っていた。しかし、彼の願いは、彼女には届かない。
―――また、あの日のこと―――
「シルヴァ様、なぜ、あなたはそこまで強くなれたのですか?」
彼女が、珍しく、自分から質問を投げかけてきた。シルヴァは、その言葉に、わずかに驚いた。彼女は、いつも、感情を表に出さず、ただ、黙々と修行を続けていたからだ。
「…強さとは、誰かを守りたいと願う心から生まれる。そして、その心が、わしを強くしてくれる。」
シルヴァは、そう言って、遠くを見つめた。彼の瞳には、娘と、そして、孫の姿が浮かんでいる。そしてこの国の民たち。彼の強さは、愛する者を守るという、ただ一つの願いから生まれたものだった。
「…誰かを守る…」
彼女は、そう呟き、静かに瞳を伏せた。彼女の瞳には、まだ、守りたいと願う、ただ一人の男の姿しか映っていなかった。
―――――――――――――
(なぜ今思い出す…)
戦闘は、激しさを増し、互いに、疲労の色が濃くなり、呼吸は荒い。ローブの女は、全身に痛みを抱えながら、最後の力を振り絞る。彼女の魔法は、もはや、正確さを失い、ただの破壊の塊となっていた。
シルヴァもまた、満身創痍だった。彼女の放った魔法を、全てかわすことはできず、彼の身体には、多くの傷が刻まれている。しかし、彼の瞳は、依然として、彼女を見つめ続けていた。彼は、彼女の心を救う方法を、最後まで探し続けていた。
そして、その瞬間が訪れた。ローブの女が、最後の力を振り絞り、放った一撃。それは、彼女の感情が、すべて込められた、怒りと悲しみの魔力だった。
シルヴァは、その一撃を、あえてかわさなかった。彼は、その魔法の威力を、身体で受け止め、そして、その隙に、彼女の懐へと飛び込んだ。
「…これで、終わりじゃ…」
シルヴァの声は、悲痛に満ちていた。彼は、彼女の胸元に、魔力を込めた掌を突き出した。それは、彼女の魔力の流れを止め、彼女を一時的に無力化するための、彼が編み出した、最も強力な一撃だった。
ローブの女は、その一撃を、受け止めることができなかった。彼女の身体に、衝撃が走り、彼女は、わずかに、悲鳴をあげた。しかし、その一撃は、完全には決まらず、彼女の胸元を深くえぐるが急所は外れた。受ける直前、彼女は最後の魔力を右手に集中していた。彼女が纏っていたローブが、音を立てて破け、地面に舞い落ちる。
そして、その時、シルヴァの瞳が、わずかに、しかし、確実に停止した。破れたローブの隙間から、彼女の首元に、銀色のペンダントが光を放っていた。それは、宝石のように、淡く、しかし美しい輝きを放っている。
シルヴァは、そのペンダントから目が離せなかった。そのペンダントは、彼が、彼女に渡したものだった。それは、彼女が、彼が教えた魔法をすべて習得した記念に、内緒で、一人で探して買ったものだった。彼は、彼女が感情を持たない表情で、それを「いらない」と突き放し、ゴミ箱に捨てたことを、今でも鮮明に覚えている。彼女がそれを一度も身につけてくれたことはないと思っていた。
そのペンダントは、彼女が、心の奥底で、彼のことを、そして、彼が教えてくれた魔法を、大切に思っていた証拠だった。彼は、その事実に、胸を締め付けられるような、深い感動と、そして、どうしようもない苦しみを覚えた。
―――渡した、あの日のこと―――
「…これを、お前に。魔法を習得したお祝いじゃ。」
シルヴァは、手のひらに乗せたペンダントを、彼女に差し出した。彼女は、それをじっと見つめ、何も言わずに受け取ると、冷たい視線で、シルヴァを見つめ返した。
「…いらない…」
彼女は、そう言って、ペンダントを、ゴミ箱へと放り込んだ。ペンダントは、カチャリと小さな音を立てて、ゴミの中に埋もれていった。シルヴァは、その光景を、ただ、呆然と見つめることしかできなかった。彼の心は、その時は凍りついたようだった。
彼は、彼女に何も言わず、ただ、静かにその場を後にした。彼は、彼女の心を、決して理解することができないのだと落胆し、そう思い込んでいた。
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(…よかった……)
シルヴァは、その刹那、全ての動きを止めた。彼の瞳から、決意の光が消え、深い後悔と、そして、彼女への愛が、溢れ出していく。彼の心の声は、注いだ愛情は、彼女に届いていたのだろうか。彼は、そう願っていた。
しかし、その刹那の隙を、ローブの女は、見逃さなかった。彼女は、シルヴァの動きが止まった瞬間に、その凍りついた瞳の奥に、わずかな感情の光を宿らせた。
「…皮肉ね…」
彼女の声は、静かだった。しかし、その声には、彼女が、シルヴァに抱く、複雑な感情が込められている。それは、彼への感謝と、そして、彼を裏切らなければならないという、どうしようもない悲しみが、混ざり合っていた。
彼女は、その言葉を口にすると、静かに、しかし、確実に、魔法の詠唱を始める。最後にためた右手の魔力。それは、彼女が、シルヴァから教わった、最も強力な魔法へと変わった。
「…『無尽の氷槍』」
彼女が放った魔法は、無数の氷の槍となり、一点に集中し、シルヴァの胸を、容赦なく貫いた。その氷の槍は、まるで、彼女の凍りついた心そのもののようだった。
シルヴァは、その一撃を、防ぐことはできなかった。防げたとしても、おそらく防がなかったであろう。彼の身体は、氷の槍に貫かれ、彼は、静かに、しかし、確実に、その場に崩れ落ちた。彼の瞳は、まだ、彼女の首元に光るペンダントを見つめている。彼の顔には、苦痛の表情はなかった。ただ、安堵と、そして、彼女への愛が、満ちている。そして最期にその名を呼んだ。
「…ミレディー……」
彼女は、その光景を、ただ、静かに見つめていた。彼女の瞳には、涙が溢れていた。それは、彼女が、自分自身の心を、そして、彼を、裏切ってしまったことへの、そして、自身の手で命を奪ったことへの深い悲しみの涙だった。
彼女は、静かに、シルヴァのそばに歩み寄る。そして、彼の倒れた身体を、そっと抱き上げた。彼の身体は、まだ温かかった。彼女の心は、彼に触れることで、温かい光に満たされていく。
「…さようなら…シルヴァ様…」
彼女は、そう呟くと、一度強く抱きしめ、静かに、そして、振り返ることなく、その場を去っていった。胸のペンダントを握りしめて…。
―――思い出す、あの日―――
「…いらない…」
彼女は、ペンダントをゴミ箱に放り込んだ後、見られないように、ゴミの中からペンダントを拾い上げ、胸に強く抱きしめた。彼女は、このペンダントを、彼に渡された瞬間から、ずっと肌身離さず大事にしていた。誰にも知られないように…。
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(…ありがとう…嬉しかった…)
夜空の月は、ただ、静かに、この悲劇的な物語の結末を、見守っていた。




