第6章 (1)出兵
皇都では、グラハムが目覚めてから数日、治療院の病室には、ようやく安堵の空気が満ちていた。彼の回復は目覚ましく、日に日に生気を取り戻していく。ベッドに上半身を起こせるようになったグラハムは、窓から差し込む柔らかな日差しを浴びながら、静かに外を眺めていた。その隣には、彼が意識を失って以来、ずっとそばに控えていたシルヴァの姿がある。
「…ご迷惑をおかけしました、シルヴァ様。」
グラハムは、静かにそう口にした。声にはまだ、かすかな弱々しさが残っている。
「いや、無事で何よりじゃ。我にとって、お前の無事が何よりも重要じゃった。」
シルヴァは、いつもの無表情な顔の奥に、深い安堵の色を滲ませながら答えた。彼は、この数日間、グラハムの回復を誰よりも喜び、そして、彼の身に起きたことを誰よりも警戒していた。
その日の午後、ロイドが病室に顔を出した。彼の表情は、グラハムの快復を心から喜んでいる。その視線が、グラハムとシルヴァの間を、わずかに戸惑いながら行き来した。
「あの…シルヴァ様とグラハム様は…その、どういう関係で…?」
ロイドが、恐る恐る尋ねる。これまで二人の関係は、公にはされていなかった。グラハムは、帝国の騎士団長であり、一方のシルヴァも元は魔術師団団長だ。面識があるのは当然だが、その二人が、これほどまでに親密な関係にあることを、ロイドは不思議に思っていた。
シルヴァは、ロイドの問いに、わずかに口元を緩めた。その微笑みは、彼の感情が露わになる、数少ない瞬間だった。
「…ただの騎士団の繋がりではない。この男は…我の勘当した娘を娶った、ただの義理の息子じゃ。」
シルヴァの言葉に、ロイドは息をのんだ。彼は、シルヴァに娘がいるとは聞いたことがあったが、まさかこんな形で知ることになるとは思っていなかった。彼女が、グラハムの妻であり、ソフィアの母親だというのか。それは、彼の想像を遥かに超える事実だった。
「…勘当した、とは言うがな…娘を大切に思う気持ちは変わらん。グラハムには、娘と孫を大切にしてくれたことに、深く感謝しておる。」
シルヴァは、そう言って、静かにグラハムに視線を戻した。グラハムは、その言葉に何も答えず、ただ静かに頷いた。彼の表情には、シルヴァへの深い敬意と、そして、家族を思う愛情が満ちていた。
その事実を知ったロイドは、驚きと同時に、二人の間に流れる、言葉にはできない信頼の絆を理解した。そして、彼の心に、一つの確信が芽生えた。この二人が、これほどまでに親密な関係を築いているのは、単なる家族の絆だけではない。この国の、そして、世界を揺るがす、何か大きな秘密が、彼ら二人の間で共有されているのではないか。
その日の夕食後、グラハムはロイドとシルヴァを呼び出した。病室の隣の控室。静かな部屋に、三人の重い息遣いが響く。
「…ロイド、シルヴァ様。お二方には、話さなければならないことがあります。」
グラハムの真剣な表情に、ロイドとシルヴァは、身構えた。グラハムは、深く息を吸い込むと、ゆっくりと、しかしはっきりと語り始めた。
「私は、今回の襲撃の理由に心当たりがある。」
その言葉に、ロイドは息をのんだ。シルヴァもまた、彼の瞳を、鋭い視線で見つめている。
「皇国騎士団団長として、そして、皇帝陛下直属の禁軍を任されている身として、私はこの国の中枢で、多くのことを知りました。その中には…この国の未来を左右する、恐るべき計画も含まれています。」
グラハムは、そこで言葉を切り、喉の奥に張り付いた言葉を押し殺すように、顔を歪めた。
「…今回の襲撃は、第一魔術師団と、それに賛同する一部の皇国騎士団の仕業です」
ロイドは、その言葉に絶句した。彼が所属していた皇国騎士団が、まさか、グラハムを襲撃したというのか。その事実に、彼の心は激しく揺れ動いた。
「…彼らは、この国が抱える『力』の秘密を知っています。そして、その『力』を手に入れ、長年の争いに終止符をと…ローレル王国を滅ぼそうと画策している。」
グラハムの言葉は、まるで鋭い刃のように、ロイドの心を切り裂いた。彼が信じていた国が、戦争という道を選ぼうとしている。その事実に、彼は戸惑いを隠せない。
「…皇帝陛下は、関与していない。陛下は、戦争を望んでおられない。しかし、第一王子であるグラファール殿下が、前回の視察遠征から戻られて以来、『力』を手に入れ、ローレルを滅ぼすと、一部の貴族を扇動しているのです。」
グラハムは、そう言って、深くため息をついた。彼の表情には、この国の未来を憂う、深い悲しみが浮かんでいた。
「彼らがまず狙っているのは、『封印の地』を破壊すること。そして、その後、『鍵』を使って魔力源泉を解放する。…しかし、本当に必要なのは、その先にある、もう一つの『力』だ。」
グラハムは、そこまで言うと、再び言葉を詰まらせた。その表情は、極度の疲労と、そして、この国の未来に対する絶望で歪んでいた。
その時だった。控室の扉が、音もなく開いた。グスタフだ。彼は、息を切らし、顔を蒼白にしながら、三人の元へ駆け寄ってきた。
「グラハム様!シルヴァ様!ロイド!」
グスタフのただならぬ様子に、三人は同時に振り向いた。彼の顔には、この数日間、騎士団の動向を監視し続けていた、疲労の色が色濃く浮かんでいる。
「グスタフ…どうした?まさか…」
ロイドが尋ねると、グスタフは、大きく息を吸い込み、震える声で告げた。
「動きました!騎士団と、第一魔術師団の一軍が…出兵しました!南へ…」
その言葉に、三人の顔から、一斉に血の気が引いた。南。その方角に、何があるのか。グラハムは、その答えを知っていた。それは、彼が今話していた、恐るべき計画が、確実に始まったことを意味していた。
「南…そこには、星詠みの寺院か…『星屑の海』…」
ロイドが、かすかに呟く。彼の脳裏に、星詠みの寺院の荘厳な姿が浮かんだ。しかし、その場所が、今、破壊されようとしている。
「くっ…!何にしろ、兵が動いた以上、それは『封印の地』の消去だろう…」
グラハムは、歯を食いしばり、痛みに耐えるように顔を歪めた。彼の心臓が、激しく高鳴る。彼の予感が、最悪の形で的中した。
グラハムは、ベッドから立ち上がろうとした。しかし、その身体は、まだ完全に回復しているわけではなかった。彼は、よろめき、ベッドの端に手をついた。
「グラハム様!」
ロイドとシルヴァが、同時にグラハムを支える。彼の身体は、熱を持ち、呼吸が乱れている。
「まだ、動いてはなりません!グラハム様!」
ロイドが叫ぶ。彼の声は、焦りと、そして、グラハムを案じる気持ちで震えていた。
「…わかっている。だが、一刻の猶予もない…!彼らは、すでに動き出したのだ…!」
グラハムは、そう言って、ロイドとシルヴァを睨みつけた。その瞳には、彼らを突き動かす、強い意志と、この国の未来を守ろうとする、固い決意が宿っていた。
一方、グスタフは、部屋の隅で、ただ呆然と立ち尽くしていた。感情を表に出すことはあまりしない男だが、彼の心は、絶望に満ちていた。彼が長年身を置いてきた皇国騎士団が、自らの国を、そして、世界を破滅へと導こうとしている。その事実は、彼の心を容赦なく打ち砕いた。
「…我々も、動かねばならん。このままでは、あの『力』が、悪しき者の手に渡ってしまう。」
シルヴァが、静かに、しかし決意に満ちた声で言った。彼の表情には、迷いはなかった。彼は、この国の、そして、娘と孫が生きる未来を守るために、自らが動くべき時が来たことを悟っていた。
グラハムは、そんなシルヴァの言葉を聞き、静かに頷いた。彼の顔には、疲労の色が浮かんでいる。しかし、その瞳は、希望に満ちていた。彼には、この国の未来を、そして、愛する家族の未来を守るために、共に戦う仲間がいる。
彼らの戦いは、今、まさに、始まろうとしていた。




