第1章 (7)新たな決意
バッシュは、妖精の言葉の残響が響く聖域の中で、静かに目を閉じた。彼の心は、これまでにないほど大きな波に揺さぶられていた。
「今は謎が深まるだけだ…」
頭の中では、指輪と刻印、「鍵」と呼ばれるエライザ、そして「以前ここに来たことがある」という妖精の言葉が、いくつもの点が散らばるように浮かび上がる。しかし、それらはまだ、線として繋がらない。確かなのは、これまでの平和な生活とはかけ離れた、壮大な運命の歯車が回り始めたということだけだ。
「自分の過去…それが分かれば点が繋がるかもしれない。」
バッシュは、自身の出自にまつわる真実こそが、この世界の謎を解き明かす鍵となると直感していた。そして、その探求が、彼に与えられた宿命なのだと。
そして、彼の視線は、穏やかな寝息を立てるエライザへと向けられた。彼女は、もはや単なる旅の途中で助けた怪我人ではない。「鍵」と呼ばれ、何者かに狙われている彼女は、バッシュの旅に深く関わる存在だ。
「エライザをもう一人にはできない。」
彼はそう固く決意した。この異界との狭間を出れば、再び危険が待ち受けているだろう。彼はもはや、彼女を見捨てることなどできなかった。それは、彼の剣士としての誇りであり、芽生え始めた仲間意識でもあった。
「んん…」
かすかなうめき声とともに、エライザがゆっくりと目を開けた。彼女の意識が朦朧としていた瞳に、最初に映ったのはバッシュの顔だった。そして、彼女の視線が周囲を巡った時、驚きに目を見開いた。
光り輝く木は、消えていた。
あの幻想的な光に満ちた広大な空間は、見る影もなく、ただの薄暗い洞窟へと変わっていたのだ。壁は湿気を帯び、ひんやりとした空気が漂っている。妖精の姿も、どこにも見当たらない。まるで、全ての出来事が夢であったかのように。
しかし、エライザの体には、確かに変化が起きていた。脇腹の深手は、まるで魔法のように塞がっている。痛みが嘘のように消え去り、身体には確かな活力が戻っていた。
「目が覚めたか。」
バッシュが静かに声をかけた。彼の声は、あの奇妙な出来事が、決して夢ではなかったことを証明していた。
エライザはゆっくりと身体を起こし、傷口に触れた。そこには、わずかな痕跡が残るのみで、完璧に治癒していた。彼女は信じられないといった表情で、バッシュを見つめた。
バッシュは、驚きに目を見開くエライザに、静かに問いかけた。彼の声は、あの幻想的な出来事が夢ではなかったことを、彼女に確かめるようだった。
「覚えているか…ここでの昨夜のことを。」
バッシュの言葉は、エライザの記憶を呼び覚ます鍵となるだろうか。彼女はあの光り輝く木や、小さな妖精の言葉を覚えているのか。もし覚えていれば、彼女自身が「鍵」であること、そして過去にバッシュがこの場所に来たことがあるという事実について、どう反応するだろう。
エライザは、バッシュの問いかけに申し訳なさそうな表情を浮かべた。その顔には、困惑と、ほんのわずかな恐怖の色が浮かんでいる。
「ごめんなさい…」
彼女はそう言うと、首を横に振った。
「ここに来たときの光り輝く木を見て…そこから意識はなくなったわ…」
エライザは、あの幻想的な空間の存在は認識していたものの、その後の妖精との会話や、自身が「鍵」であることについては、全く記憶がないようだった。彼女が意識を取り戻したとき、聖域がただの洞窟に戻っていた理由も、これで明らかになった。彼女の意識が戻ることで、あの空間の神秘性は失われたのだ。
バッシュは、エライザが記憶を失っていることを知って、複雑な感情を抱いた。妖精の言葉を全て伝えるべきか否か。しかし、彼の胸には、ある確信が芽生えていた。
「そうか…」
バッシュは静かに頷いた。彼自身もまた、妖精から告げられた「指輪と刻印」によって、この運命から逃れられない身なのだ。エライザに真実を伝えることは、彼女をこの危険な道に引きずり込むことにもなりかねない。だが、彼女はすでに「鍵」として狙われている。知ろうと知るまいと、彼女は巻き込まれているのだ。
バッシュは、覚悟を決めたような眼差しで、エライザに語りかけた。
「ここで何があったか…すべてを知れば、もう逃れられないだろう。だが、お前はすでに狙われている。あの男たちが言ったように、お前は『鍵』らしい。そして、俺もまた、この旅から逃れることはできない。」
彼の言葉には、脅しではなく、共有すべき運命への覚悟が込められていた。エライザは、その言葉の重みに、息をのんだ。彼女の体は回復しているが、心はまだ混乱の淵にある。
バッシュは、エライザの反応を待たず、静かに、しかしはっきりと口を開いた。彼の言葉には、彼女を気遣う気持ちと、現状を乗り越えるための現実的な判断が込められていた。
「すまない…」
その一言には、彼の抱える複雑な感情が凝縮されていた。おそらく、彼女をこの危険な状況に巻き込んでしまったことへの、あるいは、彼女が記憶を失っていることへの、複雑な感情が入り混じっていたのだろう。
「体はもういいのか?」
彼の視線が、治癒したばかりのエライザの傷口へと向かう。彼女の蒼白だった顔色も、今は少し血の気が戻っているようだ。
「街道へ出よう。食事と宿だ。話はその後にしよう。」
バッシュは、これ以上洞窟に留まるべきではないと判断した。まずは、安全な場所へ移動し、休養を取ることが先決だ。飢えと疲労が、判断を鈍らせることを彼は知っていた。そして、あの妖精の言葉の重さを、今すぐにエライザに押し付けるべきではないとも考えた。真実を語るには、落ち着いた環境と、彼女自身の心の準備が必要だと感じたのだ。
エライザは、バッシュの言葉に静かに頷いた。彼女の表情には、まだ困惑の色が残っているものの、彼の言葉には従う姿勢を見せた。自身の身体が回復していること、そしてあの奇妙な場所で何が起こったのか、その全てを理解するには時間が必要だろう。
バッシュは再びエライザに手を差し伸べた。二人は、静かに洞窟を出て、街道を目指し歩き始めた。森の木々の間から差し込む陽光が、彼らの前途を照らしているようだった。




