第1章 (6) 動き出す運命
バッシュは、妖精の言葉に深く考え込んだ。「鍵」という共通の言葉。そして、「ヤツには渡せぬ」という強い意思。エライザの存在が、彼の旅に予期せぬ意味合いをもたらした。
彼の視線は、再び目の前の妖精へと向けられた。警戒心はまだあるものの、この聖なる場所と、そこで待っていたかのような彼女の言葉に、不思議な信頼が芽生え始めていた。
「ここは…」
バッシュは、光り輝く木と妖精が織りなす幻想的な空間をゆっくりと見渡し、絞り出すように問いかけた。彼の言葉には、疑問と、かすかな畏敬の念が込められていた。
妖精は、その澄んだ瞳でバッシュを見つめ返した。彼女は、この場所の秘密を、そして自身の存在を語る準備ができているようだった。
バッシュの問いに、妖精はまっすぐに彼の目を見つめ、澄んだ声で語り始めた。
「ここは異界との狭間、妖精のみ存在を許された場所…」
彼女の言葉は、この空間の幻想的な美しさに納得を与えた。そして、その次の言葉は、バッシュの心を大きく揺さぶった。
「そなたは以前、ここに来たことがあるはず…」
バッシュは愕然とした。過去の記憶は、平和な村での鍛錬と、指輪と数字の謎に悩まされていた日々だけだ。ここに、自分が来たことがあるなど、全く記憶にない。
妖精は、バッシュの困惑を読み取ったかのように、さらに言葉を続けた。
「覚えとらんのは…あのせいか…」
「あのせい」とは一体何を指すのか。記憶がないのは、何らかの理由によるものなのだろうか。妖精の言葉は、バッシュ自身の過去に深く関わる、新たな、そして重い事実を示唆していた。彼の旅の目的である「過去を知る」という渇望は、この言葉によって、一層強く燃え上がった。
妖精はバッシュの困惑を知ってか知らずか、彼の問いかけを待たずに言葉を続けた。その声には、どこか諦めにも似た響きがあった。
「そのうちわかる…すべてが動き出し、止められない…」
「あのせい」で記憶がないこと。以前、この異界との狭間に来たことがあるという事実。そして、今、エライザが「鍵」として狙われていること。それら全てが、これから起こるであろう、何か巨大な出来事の序章に過ぎないのだと、妖精は告げた。
彼女の言葉は、バッシュの旅が、単なる個人的な過去の探求に留まらないことを示唆していた。彼の存在、エライザの存在、そしてこの妖精の聖域までもが、抗いがたい運命の渦に巻き込まれていく――そんな予感を抱かせた。
バッシュは、妖精の言葉の重みに、静かに息をのんだ。彼の旅は、彼の想像をはるかに超える壮大な物語へと、その姿を変えつつあった。
妖精は、さらに言葉を続けた。その表情には、どこか遠い未来を見通すような、複雑な色が浮かんでいる。
「語りすぎた…」
まるで、口にしてはならない秘密を明かしてしまったかのように、彼女は静かに呟いた。しかし、その声はすぐに毅然とした響きを帯びる。
「そなたももう、無関係ではない…いや、その指輪と刻印がある以上、逃れられん…」
妖精の言葉は、バッシュの左手の薬指にはまる指輪と、背中に刻まれた「875」という謎の数字を指していた。それは、彼の出自の謎を解き明かすための手がかりであると同時に、彼をこの大きな運命の渦へと引き込む、抗いがたい宿命の証なのだと告げているようだった。
「外の奴らはもういないだろう。」
妖精は、追手の気配が完全に消え去ったことを告げた。この異界との狭間が、彼らを完全に遮断したのだ。
「ここで少し休むがよい…傷も癒えるはずだ…」
光り輝く木から放たれる生命の光が、この空間を満たしている。その暖かさが、エライザの傷を癒し、バッシュ自身の疲労も和らげるだろう。
バッシュは、妖精の言葉と、この聖なる空間の奇跡に包まれながら、静かに目を閉じた。彼の旅は、彼の想像をはるかに超える壮大な物語へと、その姿を大きく変えつつあった。
「動き出す…」
妖精が告げたその言葉は、まるで世界の歯車が、彼の知らぬ間に、そして止めようもない速度で回り始めたかのような、圧倒的な予感を伴っていた。アイシア皇国、ローレル王国、そして多様な種族とモンスターが蠢くこの世界で、何が、どのように動き出すというのか。そして、その動きが、どうして「止められない」とまで言われるのか。彼の内にある剣士の魂が、来るべき戦いを直感し、静かに研ぎ澄まされていくようだった。
「鍵とは…エライザは一体……」
そして、何よりも彼の思考を占めたのは、エライザのことだった。野盗の頭が口にした「鍵」という言葉。それが、まさかこの妖精の口からも出るとは。エライザが、単なる深手を負ったエルフではないことは明らかだった。彼女の存在が、この世界の「動き」とどう関わるのか。なぜ彼女が狙われるのか。彼女が意識を取り戻したとき、バッシュは彼女から何を聞き出すことができるだろうか。
この聖域での束の間の休息は、バッシュにとって、自らの過去と、これから直面するであろう世界の真実について、深く考える時間となった。妖精の言葉は、彼の旅の目的を、個人的なものから、世界の命運を左右する壮大な物語へと変貌させたのだ。




