第4章 (9)科学者
静かな夜の森に、焚き火の炎だけが揺れている。バッシュは、毛布にくるまり眠るエライザのそばで、静かに剣の柄を握りしめていた。その日の出来事が、彼の頭の中をぐるぐると巡っている。精霊たちの悲鳴、そしてエライザの口からこぼれた残酷な真実。彼は、これからどんな困難が待ち受けているとしても、必ず彼女を守り抜くと心に誓っていた。
その時、耳を澄ましていたバッシュの聴覚が、微かな物音を捉えた。
木々を踏みしめる音。人の気配だ。
殺気はまだ感じられない。だが、こんな人里離れた場所に、自分たち以外に誰かがいるはずがない。追手か?いや、こんな未開の地で、まさか……。
バッシュは、反射的に剣の柄に手をかけた。隣で焚き火にあたっていたアリサも、その気配に気づいたようだ。彼の表情から笑顔が消え、緊張感が走る。アリサは、何も言わずにすっと立ち上がり、まだ意識の戻らないエライザの前に立つと、自身のローブで彼女の姿を隠すように身をかがめた。
緊張の一瞬。木々の奥から、一つの人影が姿を現した。
「待ってくれ…!」
人影は、バッシュとアリサの警戒を感じ取ったのか、慌てたように両手を頭の上に掲げ、敵意のないことを示した。その出で立ちは、見慣れないバッシュやアリサとは全く違う装束で、旅人なのか何なのか、よくわからない風貌だった。
「止まれ!」
バッシュは鋭く言い放ち、剣を鞘から少し抜き、殺気を込めた眼差しで男を睨みつけた。
「頼む、落ち着いてくれ。危害を加えるつもりはない!」
男はそう言って、さらに一歩後ずさり、警戒していることを全身で示している。
「……こんなところで怪しくないわけがないよな。すまない、驚かせてしまった。」
男は困ったように頭をかき、自嘲気味に笑った。
「道に迷ってしまって…」
その言葉に、バッシュは少しだけ警戒を緩めた。男の表情に焦りは見えたが、それは追手が見せるようなものではなく、純粋な困惑や不安に見えたからだ。
「ここがどこだか分からなくて。街道まで出たいんだが…本当に申し訳ないが、頼む!街道まででいい、同行させてくれないか!」
男は深々と頭を下げた。バッシュは、アリサと目を合わせる。アリサも、男に一切の殺気を感じていないようだ。
アリサが小さく頷き、バッシュは剣を鞘に納めた。
「わかった。だが、夜が明けてから動く。」
その言葉に、男は顔を上げ、安堵の表情を浮かべた。
「助かった!本当に恩に着る!ありがとう!」
男は、再び深々と頭を下げた。焚き火の光に照らされた彼の顔には、疲労の色が濃く浮かんでいた。バッシュは、無言で男を焚き火のそばに座るよう促し、再びエライザの様子を見守り始めた。
バッシュは、焚き火を挟んで座る男から目を離さず、警戒を続けていた。男は疲労で顔に影を落としているが、その瞳は鋭く、知的な光を宿している。彼の髪色は明るいブラウンで、適度に引き締まった体つきをしている。その奇妙な装束が、バッシュの注意を引いた。体の線にぴったりと張り付くような、まるで全身を隙間なく包むスーツのような服。その上には、光の当たり方で七色に輝く、不思議な素材のロングコートを羽織っている。遠目では風景に溶け込んでしまいそうだが、間近で見るとその異質さが際立っていた。
そして、彼の腰には剣がない。その代わりに、何かのケースのようなものを携帯している。細長い形状から、剣の一種かとも思えたが、バッシュにはそれが何なのか全く分からなかった。
男は、バッシュとアリサの視線を感じながらも、不敵な笑みを浮かべ、自己紹介を始めた。
「俺はスコール。しがない科学者だ。」
その言葉に、バッシュとアリサは驚きを隠せない。この未開の地で、まさか「科学者」と名乗る人物に出会うとは、夢にも思っていなかったからだ。
アリサは、驚きをなんとか抑え、問いかけた。
「科学者…ってことは、ローレル王国の人かい?」
「ああ、そうだ。たまにこのあたりまでは来ているよ、調査にね。入りすぎて迷ってしまったんだ。はは。」
スコールは、そう言って豪快に笑った。その屈託のない笑顔に、バッシュとアリサの驚きはさらに深まる。彼らがこれから向かおうとしているローレル王国の人間が、こんな場所で、しかも追手ではない形で現れるとは、全くの予想外だった。
「別に、君たちに何か危害を加えようとか思ってきたわけじゃない。ただの好奇心でね。それに、俺は国に属した科学者ってわけじゃないからさ。」
スコールは、そう言って焚き火に目を向けた。その言葉には、どこか飄々《ひょうひょう》とした響きがあり、彼の持つ不思議な雰囲気をさらに際立たせていた。
バッシュは、慎重に言葉を選びながら、スコールに問いかけた。
「…ローレルに戻るのか?」
「ああ、そうだ。このあたりで、いくつかのデータが取れたから、そろそろ戻ろうかと思ってたところだ。」
その言葉に、アリサはすかさず声を上げた。
「ちょうどいい!僕たちもローレルに行くところだったんだ。もしよければ、案内を頼めないかな?」
スコールの目が、アリサとバッシュを交互に捉える。彼の表情に、一瞬だけ警戒の色が浮かんだ。
「…あんたたち、軍人か?目的は何だ?」
スコールの鋭い問いかけに、バッシュは迷うことなく答えた。
「詳しくは言えない。だが、国に属してはいない。むしろ、逆だ。」
その言葉を聞いたスコールは、再び深く考え込むように沈黙した。彼は、バッシュの瞳に宿る強い決意を、そしてアリサの背後に隠されたエライザの存在を、その鋭い観察眼で見抜いているようだった。
やがて、彼は肩をすくめ、軽々しく言った。
「まあ、俺は戻るだけだし、ついてきたけりゃ来ればいい。ただし、道中は自己責任で頼む。」
その言葉に、バッシュとアリサは安堵した。これで、彼らがローレル王国へと向かう道筋は、ようやく立ったのだ。
「恩に着る。」
バッシュは、素直に感謝を告げた。スコールは、軽く手を上げ、再び焚き火に視線を戻した。静かに燃える炎が、新たな旅の始まりを告げているようだった。




