第1章 (5) 新たな謎
バッシュは、エライザを抱えたまま森の奥へとひたすら走っていた。迫りくる追手の気配を感じながら、彼の頭の中は、いかにしてエライザを安全な場所へ退避させるか、その一点で占められていた。どこか、隠れられる場所はないか。身を潜め、追手をやり過ごせる場所を必死に探す。
エライザは、荒い息を吐きながら、バッシュの腕の中で身を縮めていた。意識の混濁の中でも、追手のざわめきとバッシュの必死な鼓動が、彼女の耳に届いていた。痛む体とは裏腹に、彼女の心には、この状況を打開しようと奔走するバッシュの優しさが染み渡り、微かな安堵を感じると同時に、このまま彼に負担をかけ続けることへの申し訳なさも痛感していた。
その時、彼の耳に、微かながらもはっきりとした呼び声が届いた。それは、風の音や木の葉のざわめきに紛れて聞こえるような、曖昧なものではない。まるで、彼を導くかのように、特定の場所から発せられているようだった。
「…こちらへ…」
声は小さく、そして澄んだ響きを持っていた。人の声のようでありながら、どこか森そのものから発せられているかのような、不思議な響きがあった。そして、その声は、バッシュが目指す東の方向、さらに森の奥深くから聞こえてくる。まるで、彼の思考を読み取ったかのように。
バッシュは一瞬立ち止まり、その声が聞こえた方向へと視線を向けた。声の主は、敵か味方か。罠かもしれない。しかし、この窮地において、それはわずかな希望の光にも思えた。
バッシュは迷わず、その声のする方へと向かった。追手が迫るこの状況で、得体のしれない呼び声に身を任せるのは危険な賭けだった。しかし、直感的に、その声が、この窮地を脱する糸口になると感じたのだ。
「…こちらへ…」
再び聞こえた声は、先ほどよりも明瞭で、確かな方角を示している。バッシュはエライザを抱えたまま、足場の悪い森の中を慎重に進んだ。木々の密度が徐々に増し、日光すら届かないほどの深い森の奥へ。
やがて、彼の目の前に、まるで森そのものが口を開いたかのような、巨大な洞窟の入り口が現れた。入り口は蔦に覆われ、地面には苔が生い茂り、一見するとただの岩壁にしか見えない。しかし、そこから微かに、そして確かに、その謎の呼び声が響いている。
「…入れ…」
声は洞窟の奥から響いてくる。バッシュは躊躇なく、暗い洞窟の入り口へと足を踏み入れた。背後からは、追手の足音がさらに近づいてきている。もはや、振り返る余裕はない。
洞窟の中はひんやりとしており、奥へ進むにつれて、外の喧騒が遠ざかっていくのが分かった。微かな光が差し込む場所もあり、彼の目は徐々に闇に慣れていく。そして、洞窟の奥深くへと進むにつれて、バッシュは奇妙な感覚に襲われた。まるで、この場所が生きているかのように、脈打っているような、不思議な感覚だった。
バッシュは、エライザを抱えながら洞窟の奥へと進んだ。ひんやりとした空気が肌を撫で、水滴が滴る音が響く。やがて、彼の目の前に、信じられない光景が広がった。
洞窟の奥に、突如として広大な空間が現れたのだ。そこは、まるで別の次元に繋がっているかのように、淡い光に満ちていた。その光の源は、空間の中央にそびえ立つ、巨大な光り輝く木だった。葉は翡翠のように輝き、幹からは柔らかな光の筋が放出されている。木からは、生命の息吹のような、心地よい暖かさが満ち溢れていた。
そして、その木の根元には、一人の小さな少女が佇んでいた。彼女の背中には、透明な羽が煌めき、まさに伝説に聞く妖精のようだった。彼女はバッシュとエライザの姿を見ると、その大きな瞳でじっと見つめてきた。警戒する様子もなく、ただ純粋な好奇心に満ちた視線で。
追手の足音は、もはや聞こえない。この空間は、森の喧騒から完全に隔絶されているようだった。バッシュはエライザをそっと地面に横たえ、剣の柄から手を離した。この場所と、目の前の妖精のような少女が、この窮地を救ってくれたのだろうか。
光り輝く木の根元に立つ妖精は、バッシュとエライザにゆっくりと近づいてきた。彼女の小さな体からは、想像できないほど澄んだ声が響き渡る。
「ここには、誰も入れない…」
その言葉に、バッシュは一瞬、警戒心を抱いた。だが、少女は続けて、彼の左手の薬指をじっと見つめながら言った。
「その指輪を持つもの以外は…」
妖精の視線は、バッシュが物心ついた頃から身につけていた、あの謎めいた指輪に注がれていた。その言葉は、彼がこの特別な場所に足を踏み入れることができた理由を語っていた。同時に、彼の出自に深く関わる、新たな謎を提示していた。この指輪は、ただの形見ではない。この場所に繋がる、あるいは何かを解き放つための「鍵」なのだろうか?
バッシュは腕の中のエライザに目をやった。彼女はまだ意識が朦朧としているが、この場所の生命力に満ちた空気が、少しずつ彼女を癒しているようにも感じられた。
妖精は、この光り輝く木とどう関係しているのか。そして、彼女の言う「指輪を持つもの」とは、具体的に何を意味するのだろうか。
バッシュの指輪を見つめていた妖精は、次に彼の腕の中のエライザに視線を移した。そして、その小さな唇から、衝撃的な言葉が紡ぎ出された。
「そのエルフは『鍵』だ…」
森でバッシュを追っていた男が口にした「鍵」という言葉。それが、まさかこの妖精の口からも出るとは。そして、彼女はさらに続けた。
「ヤツには渡せぬ…」
「ヤツ」とは誰を指すのか。あの追手の集団のことか、あるいは彼らを操る「ある人」のことか。この妖精は、エライザが何らかの重要な意味を持つ存在であり、邪悪な者の手に渡すべきではないと考えている。
バッシュは、エライザが単なる偶然の出会いではなかったことを悟った。彼女の身に何が隠されているのか、そして、なぜ彼女が「鍵」と呼ばれるのか。妖精の言葉は、バッシュの旅に新たな、そしてさらに深い目的を与えた。




