第4章 (3)セレス
通路は、先ほどよりもさらに厳かな空気が漂っている。壁の彫刻は、星図から精霊や神々らしき存在へと変わり、祈りの言葉が連綿と刻まれていた。通路の両脇には、青白い光を放つ宝石が嵌め込まれており、それが静かに通路を照らしている。
やがて、通路の突き当たりに、一つの重厚な扉が現れた。老僧は、その扉の前で立ち止まり、バッシュたちに静かに言った。
「しばし、お待ちください。」
老僧はそう言うと、扉を叩き、中へと入っていった。バッシュは、警戒心を緩めることなく、扉の前でじっと待った。エライザはバッシュの腕をしっかりと掴み、不安そうに扉を見つめている。アリサは、その場に立ち尽くしながらも、周囲の空間から何かを感じ取ろうとしているようだった。
数分後、扉が静かに開いた。老僧が再び顔を出し、彼らを中へと促す。
「どうぞ、お入りください。」
バッシュは、警戒しながらも、エライザとアリサを伴って部屋の中へと足を踏み入れた。そこは、意外にも質素な部屋だった。壁は石のままだが、床には温かみのある絨毯が敷かれている。部屋の中央には、簡素な木製の机が一つ置かれ、その上には本や羊皮紙、そして小さな星図が広げられている。
そして、机の奥に、一人の年配の女性が座っていた。
彼女は、まるで静かな湖のように落ち着いた雰囲気を身にまとっている。白髪をきっちりと結い上げ、その表情には、深い知性と慈愛がにじみ出ていた。彼女の着ているものは、淡い藤色のローブで、袖口には銀糸で星の模様が刺繍されている。首元には、光を反射する小さな精霊石のペンダントが輝き、彼女の高い身分を示していた。その佇まいからは、敵意は一切感じられない。ただ、圧倒的な存在感と、すべてを見通すようなまなざしが、バッシュたちに向けられていた。
老僧は、その女性の隣に立つと、バッシュたちに静かに紹介した。
「このお方は、星詠みの寺院の大僧正、セレス様です。」
セレスは、バッシュたちに静かに微笑みかけ、優しく挨拶した。
「ようこそ、星詠みの寺院へ。遠い道のり、ご苦労様でした。」
その穏やかな声と、敵意のないまなざしに、バッシュは少しだけ警戒を解き、静かに頭を下げた。
「…バッシュです。こちらはエライザと、アリサです。」
バッシュの紹介に、セレスは一人ひとりの顔をじっと見つめ、ゆっくりと頷いた。その目は、まるで彼らの過去や未来をすべて見透かしているかのようだった。
「来ることは分かっておりました。あなた方が、この地を訪れることは、星々がすでに告げていたことです。」
セレスの言葉に、バッシュは再び驚き、警戒の色を強めた。なぜ自分たちのことを知っているのか。その理由を問う前に、セレスは彼の心を読んだかのように言葉を続けた。
「驚かれるのも無理はありません。しかし、あなた方は先ほど、この寺院の星図をご覧になりましたね?あれは、空を模しているようですが、実際は地上に置き換えることができます。星々を詠むことで、この世で起こるすべての動き、そして運命の行く末を知ることができるのです。」
バッシュは、広間で見た巨大な星図を思い出し、愕然とした。あれが、自分たちの運命までを映し出していたというのか。
「そなたが『鍵』を連れて、いずれここを訪れることも、その星図は示していた。運命とは、時に残酷なものですが、抗うこともできる。その力を信じる者には…」
セレスは、優しいまなざしをエライザに向けた。エライザは、その言葉に、バッシュの腕にしがみつくようにして身を固くした。
「エルフの方よ。そなたの里が、この世界の『力』を封じるための封印として使われていたことは、まことに残念なことです。我々も、その悲劇を星々から知った時、胸を痛めました…しかし、これもまた、運命というものの不可解な巡り合わせ。すべては、大きな流れの中に組み込まれていたのです。」
セレスの言葉に、エライザの瞳に涙が浮かんだ。故郷の悲劇は、すでに避けられない運命だったというのか。
「だが、悲しむばかりではありません。あなた方が、この地を訪れた意味は、そこにあるのです。」
セレスはそう言うと、穏やかな声で続けた。
「あなた方が今、必要としている情報の一つ…封印の所在。それは、あなた方自身がもうたどり着いている。」
その言葉に、バッシュ、エライザ、アリサは一斉に顔を見合わせた。
「…どういうことです?」
バッシュが困惑した表情で尋ねる。セレスは、意味深な笑みを浮かべ、静かに答えた。
「この星詠みの寺院こそが、封印の地なのです。あなた方は、すでに封印のただ中にいるのですよ。」
その言葉は、まるで雷鳴のようにバッシュたちの心を揺さぶった。一同は息を呑み、信じられない、といった表情でセレスを見つめた。
「そんな…!ここは、ただの寺院じゃないのか!?」
アリサが驚きを隠せない声で叫ぶ。
セレスは、その驚きに動じることなく、静かに頷いた。
「はい。この寺院は、封印された『力』を守るために、星詠みの僧たちが代々築き、守り続けてきた場所。ですが、この地が封印であることは、ごく一部の者にしか知られていません。もし知られてしまえば、破壊を望む者たちが押し寄せるでしょうからね。」
セレスは、慈愛に満ちた瞳でバッシュとエライザを見つめた。
「あなた方の旅は、星々が定めた運命の旅。そして、その運命の旅が、今、新たな局面を迎えたのです。」
セレスの言葉に、バッシュは声も出なかった。驚きと困惑が彼の心を支配し、目の前の光景が信じられなかった。エライザもまた、バッシュの腕にしがみついたまま、ただ呆然とセレスを見つめている。
セレスは、そんな二人の様子を悲しげなまなざしで見つめ、静かに言葉を続けた。
「……いずれ、この土地も『消される』でしょう。遠くないうちに。」
その言葉は、まるで世界の終わりを告げる予言のようだった。バッシュは息を呑んだ。
「なぜ…!消されると分かっているのなら、なぜ何も手を打たないのですか?!」
バッシュの声は、驚きと怒り、そして焦りを含んでいた。なぜ、こんなにも重大な事実を知りながら、この寺院の僧たちは運命を受け入れようとしているのか。
セレスは静かに首を横に振った。
「無理なのです。一度動き出した運命は、もう止められない。あなた方の里の封印が解かれた時点で、世界の均衡は崩れ始めました。あとは時間の問題。この寺院の封印も、いずれは解かれる運命なのです。」
セレスの言葉は、冷たく、そして抗うことのできない現実を突きつけていた。しかし、彼女の瞳の奥には、まだ微かな希望の光が宿っていた。
「しかし…『鍵』さえなければ、封印は完全には解けない…そして、『あれ』さえなければ、その先には行けない…。」
「鍵…?」
バッシュは困惑し、エライザに視線を向けた。セレスの言う「鍵」とは、エライザのことだろう。では、「あれ」とは一体何なのだ。バッシュの頭の中に、アリサから聞いた言葉が蘇った。
(『あれ』とは、一体何なのか…?)
バッシュは思考を巡らせるが、答えは見つからない。セレスは、そんなバッシュの困惑をよそに、静かに彼らを見つめていた。その瞳は、彼らに託された、この世界の運命を物語っていた。
セレスは、バッシュの困惑した表情を静かに見つめると、その視線を彼の指先に移した。バッシュが物心ついた頃から身につけている、謎の指輪。セレスは、まるでそれが何であるかを知っているかのように、穏やかな声で語りかけた。
「その指輪…あなたはいずれ、再び妖精に会うことになるでしょう。世界樹の下で…」
バッシュは驚愕し、自分の指輪を見つめた。妖精。それは、以前、異界の狭間で彼とエライザを助け、運命を告げたあの存在だ。なぜセレスがそのことを知っているのか。彼の頭の中は、ますます混乱に陥っていった。
「私が星々から読み取れるのは、あなた方の旅路の一部に過ぎません。この先には、未開の地、星屑の海と呼ばれる深い森があります。誰もその深部へ到達はできていません。しかし…あなた方は、いずれそこへ向かう運命にある。」
セレスは、そこで言葉を区切った。
「私があなた方に伝えられるのは、このくらいです。あとは、あなた方自身の目で、真実を見つけていくしかない。」
セレスはそう言って、再び穏やかな笑みを浮かべた。その表情は、彼らの旅の行く末を案じているようでもあり、しかし同時に、彼らが運命に打ち勝つことを信じているようでもあった。
バッシュは、セレスの言葉に、何も答えることができなかった。エライザの「鍵」、自分の指輪、そして「星屑の海」。次々と明かされる謎が、彼の心を支配していく。
(妖精に…また会う…?)
彼の頭の中は、疑問符でいっぱいだった。セレスの言葉は、まるで霧の中を歩くような旅路の、わずかな灯火のように思えた。バッシュは、重い口を開き、感謝の言葉を口にした。
「…ありがとうございます。」
エライザもまた、涙を拭い、小さく頷いた。アリサは、そのやり取りを静かに見守っていたが、その表情は真剣そのものだった。
「あなた方の旅が、星々の祝福を受けんことを。」
セレスはそう言うと、静かに目を閉じ、祈りを捧げるように手を組んだ。老僧もまた、その隣で静かに頭を下げた。
彼らの旅は、今、新たな目的地と、さらなる謎を胸に、再び動き出す。星詠みの寺院を後にしたバッシュたちは、未開の地、「星屑の海」という言葉を胸に刻み、ローレル王国を目指して再び馬を走らせ始めた。
セレスは、三人の背中が渓谷の奥へと消えていくのを、静かに見送った。彼女の横に立つ老僧もまた、無言でその背中を見つめている。
「すべてを、彼に託すしかない…」
セレスは、まるで自らに言い聞かせるように、静かに呟いた。
「『あれ』さえ見つからなければ、時間はある。だが、その時間も、もはやわずかでしょう…」
彼女の瞳には、未来を見通す者ならではの深い憂いが宿っていた。
「エルフの方…あなたが、すべてを知ったときにどう行動するか…絶望に打ちひしがれるか、それとも運命に抗うのか…」
彼女の視線の先には、すでに遠ざかったエライザの姿が思い描かれていた。
「いや、運命を変える彼が、隣にいる。きっと、希望は絶望には変わらない。彼が、彼女を、そしてこの世界の運命を、新たな道へと導いてくれる…そう信じましょう。」
セレスはそう言うと、深い祈りを捧げるように、静かに目を閉じた。




