第1章 (4) 襲撃
バッシュはエライザを抱きかかえ、街道を目指して森を進む。その腕にはエルフの細い体を抱え、彼の額には汗がにじんでいた。しかし、彼の五感は研ぎ澄まされており、周囲の異変を敏感に察知していた。
エライザの視界はバッシュの肩越しに見える森の葉擦れと、時折揺れる彼の髪の毛でぼやけていたが、その腕の確かな温もりと、規則正しい心臓の鼓動が、かろうじて彼女を不安な現実に繋ぎとめていた。
その時、木陰から複数の気配がした。一人や二人ではない。ざわめきのような、しかし確かな存在感。野獣のものではない。あれは、人の気配だ。
バッシュは即座に反応した。エライザを抱えたまま、剣の柄に手をかける。彼の指が冷たい鋼に触れる。この森で、いきなり複数人の人間に遭遇することは、警戒すべき事態だった。彼らが敵意を持っているのか、それともただの旅人なのか、まだ判別はつかない。
エライザは本能的に身を固くした。意識は朦朧としていたが、かすかに聞こえる男たちのざわめきと、バッシュの腕から伝わるじわりと広がる緊張感、そして胸に顔を押し付けた際に感じる彼の鼓動の速さが、迫りくる危険と怪我の痛みを超えた恐怖を彼女に告げていた。
バッシュは息をひそめ、意識を集中させる。木々の隙間から、彼らの姿が少しずつ見え始めた。
バッシュが剣の柄に手をかけたまま警戒していると、木陰から一人の男がゆっくりと姿を現した。その男は身軽な革鎧を身につけ、腰には曲刀を差している。顔には無精髭が生え、目は鋭く、身のこなしは、このような地形に慣れていることをうかがわせた。
男は何も言わず、バッシュの剣を見ることもなく、ただバッシュの腕に抱かれたエライザに目をやった。その視線は、傷ついたエルフを品定めするかのような、冷たい光を宿している。
男の背後からは、さらに数名の気配がする。彼らの手には弓や斧、あるいは無骨な棍棒のようなものが握られているのが、うっすらと見て取れた。彼らは、単なる旅人ではない。野盗か、あるいはこの森に潜む別の危険な存在か。
沈黙が森に張り詰める。バッシュは、男の次の一挙手一投足を注意深く見極めようとした。
沈黙を破り、男が口を開いた。その声は低く、森の静けさによく響く。
「その女を置いていけ。」
有無を言わさぬ口調だった。そして、男はさらに続けた。
「俺達のものだ。」
その言葉には、一切の交渉の余地がない、明確な敵意が込められていた。バッシュの腕に抱かれたエライザの存在が、この男たちの標的だ。彼らは、この傷ついたエルフを狙っている。野盗か、あるいはもっと悪質な連中か。
バッシュの指は、握りしめた剣の柄に食い込んでいる。平和な村で育った彼にとって、このような明確な脅威に直面するのは初めてだった。しかし、彼の内に秘められた剣士の魂が、危険を察知し、臨戦態勢に入ろうとしていた。
バッシュは、男の言葉に血が逆流するのを感じた。しかし、この場で衝動的に剣を抜けば、エライザを危険に晒すことになる。相手は複数。冷静に状況を判断しなければならない。
剣の柄に手を置いたまま、しかし抜くことはせず、男の目を真っ直ぐに見据えた。
「理由を言え。」
バッシュの声は低く、しかし感情を抑えたものだった。なぜ、このエルフを「俺達のもの」と主張するのか。その理由によっては、状況が変わるかもしれない。情報を引き出し、次の行動を見極めようとしていた。
男はバッシュの問いに、わずかに口の端を吊り上げた。その笑みには、薄気味悪さと、ある種の確信めいたものが混じっていた。
「ある人の命令だよ。その女は『鍵』なんだとよ。」
口の軽い奴だ。とは言え、男の言葉は、バッシュの理解を超えていた。「鍵」とは一体何を意味するのか。エライザが、何かの重要な秘密を解き明かすための存在だというのか?そして「ある人」とは誰なのか。アイシア皇国か、それともローレル王国に関わる人物か、あるいは全く別の勢力なのか。
エライザは「鍵」という言葉に反応するように、頭の奥で何かがざわめくのを感じた。しかし、それが何を意味するのか、今の彼女には理解できなかった。ただ、自分が何らかに必要な「もの」として狙われていることだけは、はっきりと理解できた。
バッシュはエライザを抱く腕に、無意識に力を込めた。この男たちの目的が、単なる強盗や個人的な恨みではないことが明らかになった。エライザは、彼らが追う「鍵」として、何らかの重要な意味を持っている。
周囲の木陰からは、男たちの仲間たちがじりじりと距離を詰めてくる気配がする。彼らの手にする武器が、木漏れ日に鈍く光った。
バッシュは「鍵」という言葉の真意をさらに探ろうとした。しかし、その刹那、耳元を風切り音がかすめ、彼の思考は中断された。
「くそっ!」
バッシュが反射的に身体を捻った瞬間、矢が放たれた。それは、言葉での駆け引きが終わり、実力行使へと移行したことを意味していた。矢は彼が先ほどまで立っていた場所の木の幹に深く突き刺さり、矢尻がかすかに震えている。
男たちの間に、これ以上の交渉は無用だという無言の合図が交わされたのだ。彼らは、エライザを手に入れるためなら、武力を行使することも厭わない。
バッシュはエライザを抱いたまま、瞬時に森の奥へと駆け出した。彼の動きは俊敏だったが、傷ついたエルフを抱えているため、いつものような自由な動きはできない。背後からは複数の足音が追ってくる。木々を縫うように走るバッシュの背中に向かって、再び矢が放たれる気配がする。
一人ならば、この程度の追手には決して負けない自信がある。長年培ってきた剣の腕が、そう確信させていた。だが、腕の中には傷ついたエルフ、エライザがいる。彼女を守りながらの戦闘は、あまりにも不利だ。
「どうすれば…」
バッシュは歯を食いしばる。背後からは追手の足音が迫り、木々の間を縫って放たれる矢の風切り音が耳をかすめる。
エライザの意識は、バッシュの荒い息遣いと、背後から迫る足音、そして掠める矢の風切り音によって、痛みを忘れて研ぎ澄まされていく。彼女はバッシュの腕の中で、ただひたすら耐えるしかなかった。
バッシュは、ただ闇雲に走るだけでは逃げ切れないことを悟っていた。どこかで彼らを振り切り、反撃の機会を伺う必要がある。しかし、エライザを安全な場所に退避させなければ、それも叶わない。
エライザは、彼の腕の中に抱かれながらも、自分があまりにも無力であることに、深い絶望を感じていた。彼の負担になっていることが分かり、申し訳なさと焦燥感が胸を満たしていた。しかし、意識の片隅では、なぜかバッシュが必ず自分を守ってくれるという、根拠のない信頼が確かにあった。
思考を巡らせる。森の奥へ、さらに深く。どこか身を隠せる場所はないか?あるいは、一時的にエライザを預けられるような場所は?東を目指す道中で、思いがけぬ形で最初の試練が訪れた。




