第3章 (14)提案
夜が明け、ロイドの店には静かで温かい朝が訪れていた。厨房からは香ばしい匂いが漂ってくる。ロイドはいつものようにテキパキと朝食の準備を進めていた。焼き立てのパンが並べられ、温かいシチューが鍋でゆっくりと煮込まれている。テーブルには、新鮮な果物と淹れたての紅茶が用意され、簡素ながらも栄養満点な朝食が食卓を彩っていた。昨夜の激しい戦いの跡など、微塵も感じさせない日常の風景がそこにはあった。
部屋では、エライザがベッドに横になり、深い眠りについていた。その傍らで、バッシュは静かに彼女を見つめていた。昨夜の出来事が脳裏をよぎる。光のローブに引きずられ、絶望的な状況に陥ったエライザの姿。そして、自身の体が光に包まれ、瞬時に彼女のもとへ転移した、あの不可思議な現象。しかし、何よりも、恐怖の中で自分を求め、再会を心から喜んでくれたエライザの姿が、バッシュの胸に深く刻まれていた。
(この笑顔を、もう二度と失わせない。)
バッシュは改めて心に誓った。自分の過去がどうであろうと、彼女を守り抜くことが、今の自分にとって最も大切なことだと。
やがて、エライザがゆっくりと身じろぎ、薄く目を開けた。目覚めるなり、彼女の視線はすぐにバッシュを探した。傍らに彼がいることを確認すると、張り詰めていた心が解けるように安堵し、優しく、そして小さく笑って言った。
「おはよう、バッシュ。」
その声は、朝の光のように穏やかだった。
バッシュも柔らかな声で応じる。
「おはよう、エライザ。よく眠れたか?」
エライザは、少し照れたように頬を染めながら頷いた。
「うん…バッシュがいてくれたから、安心して眠れたよ。」
バッシュは、エライザの言葉に温かいものが胸に広がるのを感じた。
「そうか。よかった。」
エライザは、少し身を起こし、バッシュの方を向いた。
「昨日のこと…まだ夢みたい。バッシュ、本当にありがとう。来てくれて…守ってくれて。」
バッシュは、優しく答えた。
「気にすることない。俺は君を守る。約束しただろう?」
エライザは、その言葉に深く頷いた。彼女の瞳は、バッシュへの揺るぎない信頼で満たされていた。
バッシュとエライザは身支度を整え、厨房兼食堂へと向かった。部屋の扉を開けた瞬間、食欲をそそる香りが彼らを包み込む。そこには、ロイドが腕によりをかけて作った朝食が並べられていた。
黄金色に焼き上がったパンはふっくらと湯気を立て、その隣にはとろとろの卵料理、香ばしく焼かれたソーセージ、そして彩り豊かな野菜のサラダが並ぶ。中央には、具だくさんの温かいスープが大きな鍋で煮込まれており、食卓はまさに豪華絢爛といった様子だった。
エライザは、その光景を目にした途端、驚きに目を見開いて感嘆の声を上げた。
「わぁ…!すごい、ロイドさん!まるで祝宴みたい!」
ロイドは、エライザの反応に満足げに胸を張り、軽く料理の説明を始めた。
「ハハ、大したことはないさ。焼きたての『陽だまりパン』に、特製のハーブソーセージ。スープは昨日仕入れた新鮮な野菜をたっぷり使った、体が温まる一品だ。さあ、遠慮なく食べてくれ。」
バッシュもまた、目の前の料理に驚きを隠せない様子だった。
「すごいな、ロイド。これ全部、一人で作ったのか?」
「まあな。元々、料理は得意でね。騎士団にいた頃は、グラハム様の食事も担当していたからな。」
ロイドは得意げに笑った。
食卓につき、三人で朝食を取り始める。エライザは、一口食べるごとに「美味しい!」と声を上げ、心から幸せそうな顔をしている。その笑顔を見ていると、バッシュの心にも温かいものが広がった。バッシュもロイドも、それぞれの思いを胸に、静かに朝食を味わった。
食事が一段落し、ロイドが温かい紅茶を三つのカップに注ぎ、食卓に運んできた。湯気が立ち上るカップを前に、昨夜の緊迫した出来事が語り始められる。
「昨夜の奴らだが…正直なところ、正体までは掴めなかった。手際が良すぎたし、痕跡も残していなかったからな。」
ロイドは、悔しそうに口元を引き結んだ。
「だが、狙いがグラハム様か、あるいは『鍵』であるお前だったことは間違いないだろう。」
ロイドの視線がエライザに注がれる。エライザは、少し緊張した面持ちで彼の言葉を待った。
「だがな、お嬢ちゃん。」
ロイドは、昨日バッシュを転移させた短剣を手に取り、エライザに差し出した。
「お前さんの力は本物だ。」
エライザは、差し出された短剣に手を伸ばし、そっと握りしめた。すると、かすかに短剣が温かくなったような気がした。
「エライザ、どうだ?グラハム様のところで、その力を試してみないか?」
ロイドは、真剣な眼差しでエライザに提案した。
エライザは、はっと顔を上げた。
「私、試してみたいです…!」
彼女の瞳には、迷いがなかった。精霊石の力が、グラハムの呪いを解くことができるのなら、試すしかない。たとえすべての力が解放されなくても、呪いを解くだけでもいい。
エライザは、すぐ隣に座るバッシュに視線を向けた。不安と期待が入り混じったような、問いかけるような瞳だった。
バッシュは、その視線を受け止め、力強く頷いた。
「きっと、うまくいく。」
バッシュの言葉に、エライザの心に温かい勇気が灯る。彼女の覚悟は、確かなものとなった。
「よし、そうと決まれば、準備ができたら治療院に行こう。」
ロイドの言葉に、バッシュとエライザも力強く頷いた。
ロイドの店から治療院へ向かう道すがら、エライザの心には小さな不安の影がよぎっていた。
「ねえ、バッシュ…本当に、私にできるのかな…?」
エライザの声は、少しだけ震えていた。彼女のペンダントが秘める力、それがグラハムの呪いを解く鍵となる可能性は嬉しい。だが、同時に、その未知の力を引き出すことへの怖さも感じていた。
バッシュは、そんなエライザの不安を察し、優しく彼女の手を握った。
「大丈夫だ、エライザ。君のその『思いの力』が、きっとグラハムを救う。俺は信じている。」
バッシュの温かい言葉に、エライザの心に少しずつ勇気が戻ってくる。彼女はバッシュの手を握り返し、小さく微笑んだ。
ロイドは、そんな二人を横目で見て、茶化すように口を開いた。
「おいおい、そんなにベタベタしてると、俺が嫉妬しちまうぞ?ま、バッシュがそんな顔するなんて珍しいから、悪くはないがな。」
ロイドの軽口に、エライザは「もう!」と頬を膨らませ、バッシュも思わず苦笑した。しかし、そのおかげで、二人の間に漂っていた緊張感が少しだけ和らいだ。
「とにかく、焦ることはない。最善を尽くすだけだ。」ロイドは、普段の飄々とした口調に戻りながらも、その言葉には確かな信頼が込められていた。
三人は、それぞれの思いを胸に、一歩ずつ治療院へと進んでいった。グラハムの回復、そして「鍵」の真実へと続く、新たな一歩が今、踏み出されようとしていた。




