第1章 (3) エライザ
バッシュは警戒を緩めず、剣の柄に手を置いたまま、低く問いかけた。
「何者だ?何に襲われた?」
エルフは、バッシュの剣を見ることもなく、ただ傷口を押さえる手に力を込めた。その顔は蒼白で、額には脂汗がにじんでいる。深呼吸をしようとするが、そのたびに苦痛に顔を歪めた。
「…私は…エライザ。あなたは…旅人か…?」
途切れ途切れの声で、か細く返答があった。エライザは、杖を支えにしながらも、今にも膝から崩れ落ちそうだ。
「襲われたのは…森の獣…ではない…グリフォン。若い個体のようだったけど…ひたすら逃げて…」
エライザはそう言うと、よろめいた。彼女の目は、もはや周囲を警戒する余裕もなく、ただバッシュの焚き火の炎に、かすかな希望を見出しているかのようだった。
エライザはそう言うと、ふらりとよろめいた。その目には、周囲を警戒する余裕などなく、ただバッシュの焚き火の炎にかすかな希望を見出しているかのようだった。
グリフォン、か。バッシュは眉をひそめた。この地方、この森で遭遇するには、いささか不自然だ。しかも、素性の分からない深手を負ったエルフを目の前にして、どうするべきか。
バッシュは少しだけ迷ったが、結局、剣の柄から手を離し、静かにエライザに近づいた。
「立てるか?」
バッシュの言葉に、エライザは驚いたように顔を上げた。その目に、かすかな光が宿る。
「…ありがとう…」
震える声で礼を言うと、エライザはバッシュに体重を預けるようにして、よろよろと焚き火のそばまで歩み寄った。バッシュは彼女を焚き火の近くの地面に座らせ、荷物から干し肉と水筒を取り出した。
「これを。少しはましになるだろう。」
エライザは震える手で水筒を受け取り、ゆっくりと水を飲む。乾いた喉を潤すと、少しだけ息が楽になったようだ。バッシュは彼女の傷口を覗き込む。ローブは血で張り付いており、衣服も破れて深々とした裂傷が見て取れた。これは、剣の腕だけを磨いてきたバッシュには、どうすることもできない傷だ。
「この傷では、すぐに動けないな。ここで夜を明かすしかないだろう。」
バッシュはそう言い、エライザの返事を待たずに、再び焚き火に薪をくべた。
エライザは、水筒を握りしめたまま、じっとバッシュを見つめていた。警戒は依然として残っているものの、その表情にはかすかな安堵の色が見て取れる。
バッシュは怪我人を見過ごすことはできないと判断した。しかし、グリフォンに襲われたという話には、まだ疑問が残る。なぜこの土地にグリフォンが単独でここにいたのか。そして、このエルフは一体何者なのか。
夜はまだ長い。バッシュは焚き火の番をしながら、静かにエライザの様子を伺った。
バッシュは決断した。怪我人をこの森の中に置き去りにすることはできない。ましてや、グリフォンに襲われたというのだから、ここに留まるのは危険すぎる。
「仕方ない。この森では傷を癒すこともできん。街道まで出て、宿場町を目指すぞ。」
バッシュの言葉に、エライザは目を見開いた。彼女は自分が置いていかれると思っていたのだろう。
「…ありがとう…本当に…」
弱々しい声だったが、その中に確かな感謝の念が込められているのがわかった。
夜が明け、森に朝の光が差し込むと、バッシュはエライザを支えながらゆっくりと歩き始めた。エライザは杖に体重をかけ、ほとんどバッシュに寄りかかるようにして進む。彼女の顔色はまだ悪いが、意識は、はっきりしているようだった。
道は依然として険しい。倒木を乗り越え、ぬかるんだ地面を踏みしめ、バッシュはひたすら街道を目指した。時折、エライザがうめき声を上げると、バッシュは足を止め、彼女が呼吸を整えるのを待った。彼女の傷が深く、一歩一歩が彼女にとって大きな負担になっているのが伝わってくる。
バッシュの剣は、今は鞘に収まったままだ。しかし、彼の五感は常に周囲を警戒している。グリフォンが現れるかもしれないし、別のモンスターが待ち伏せている可能性もある。
丸一日は歩いたか、、ようやく木々の間から、わずかに開けた視界が見えてきた。微かに土埃の匂いが混じり、うっそうとした木々が徐々に薄れていくように感じられる。
「もうすぐ街道だ。」
バッシュがそう告げると、エライザはかすかに息をのんだ。彼女の顔に、希望の光が宿る。
バッシュはエライザの顔を覗き込んだ。憔悴しきった表情、唇は乾き、かすかに震えている。傷口からはまだ血が滲んでいるのが見て取れる。
「まだ歩けるか?」
バッシュの問いかけに、エライザはうつろな目で彼を見上げた。一瞬、答えに詰まったようだが、すぐに小さく首を縦に振った。
「…ええ。なんとか…」
その声はか細く、ほとんど消え入りそうだった。しかし、その瞳の奥には、確かな意志の光が宿っている。彼女は、このまま森で野垂れ死にするわけにはいかないと、自らを奮い立たせているようだった。
バッシュは何も言わず、再びエライザの肩を支え、ゆっくりと歩き出した。街道はすぐそこだ。希望の光が見えている。しかし、その光が届くまでは、あとどれほどの困難が待ち受けているか、誰にもわからない。
バッシュはエライザの様子をもう一度注意深く見た。彼女の足元はもつれ、呼吸はさらに浅くなっている。もはや、自力で街道までたどり着くのは困難だと、バッシュは悟った。
「この様子だと無理だな…」
バッシュはそう呟き、エライザに視線を向けた。
「すまないが、抱える。だが、少し荷物を捨ててもらわないと。その杖と、他に身につけているものがあれば。軽くなった方が、早くカイドウまで出られる。」
バッシュの言葉に、エライザは驚いたように目を見開いた。彼女は、ほとんど意識が朦朧としているにもかかわらず、自分のためにそこまでするバッシュの真意を測りかねているようだった。
エライザは無言で、杖をバッシュに差し出した。そのローブの下に何かを隠し持っているようには見えない。
バッシュは、エライザの細い体をそっと抱き上げた。意外なほど軽い。彼女の意識が遠のいているのがわかる。バッシュは再び、森の中を街道目指して歩き始めた。今度は、エライザの体重がその腕にのしかかる。しかし、彼はひたすら前へと進んだ。




