第3章 (8)告白
その夜、温かい湯気が満ちる浴室で、バッシュは深く湯船に浸かっていた。旅の疲れを癒しながらも、彼の思考は止まらない。昼間の図書館での発見が、彼の心に重くのしかかっていた。
(自分は一体、何者なんだ…)
背中の「875」という刻印。そして、ローレル王国で行われていたという「疑似人体の生成実験」の記録。もし、それが自分自身のことだとしたら、これまで生きてきた自分の人生は、一体何だったというのだろう。田舎の静かな村で、平穏に暮らしていたはずなのに。なぜ、こんなにも複雑な運命の渦に巻き込まれているのか。混乱と、わずかな絶望にも似た感情が、彼の胸に広がる。
その時、浴室の扉の向こうに人の気配がした。バッシュは、反射的に構えようとするが、殺気は一切ない。その穏やかな気配が、すぐにエライザのものであると悟った。
扉の向こうから、エライザの優しい声が聞こえてきた。
「バッシュ…聞こえる?」
バッシュは、小さく「ああ」と返した。すると、扉は開かないまま、エライザが話し始めた。その声は、感謝と、これまでの思いが溢れているかのようだった。
「あのね…バッシュに、伝えたいことがたくさんあるの。」
エライザの声は、少し震えていた。彼女の心からの言葉が、湯気立つ浴室に響く。
「バッシュと出会ってから…私の人生は、大きく変わったわ。森で深手を負って、もうダメだと思った時、バッシュが私を助けてくれた。」
彼女の言葉は、出会った頃の記憶を呼び起こした。絶望の淵にいたエライザ。
「そこからずっと、バッシュは私を守ってくれた。野盗に襲われた時も、グリフォンが来た時も、いつもバッシュが前に立ってくれた…」
エライザの声には、深い感謝が込められている。バッシュの強さ、優しさ、そして揺るぎない存在が、彼女を支え続けてきた。
「バッシュは、私に勇気をくれたわ。絶望しそうになった時も、いつもバッシュがそばにいてくれたから、諦めずに前に進めた。」
彼女の言葉が、バッシュの胸に温かく響く。
「それにね…バッシュといると、私、笑うことができるようになったの。里がなくなり絶望して、もう笑うことはないと思ってたし、里にいた頃も、巫女の娘として、いつもちゃんとしなきゃって思ってたから…こんなに心から笑ったこと、なかったと思う。」
エライザの声は、少しだけ弾んだ。今日の街での笑顔、そして今、バッシュに心の内を語りかけている彼女の姿。その全てが、彼女の変化を物語っていた。
「ここに来て、グラハムさんやソフィアちゃんも助けられて…ロイドさんや、ゴールドウィンさんたちも仲間になってくれて…全部、バッシュがいたからよ。」
「だから…ありがとう、バッシュ。」
エライザは、心からの感謝を伝えた。浴室に響くエライザの心からの言葉に、バッシュは静かに耳を傾けていた。彼女の言葉は、まるで彼の心の奥深くへと染み渡る光のように、これまで抱えていた全ての不安と混乱を照らし出した。
(俺は何を悩んでいるんだ…)
バッシュは、自分自身に問いかけた。過去を知るために旅に出て、ようやく手がかりが見えたと思ったら、その真実に絶望しかけていた。自分の出自が「疑似人体」かもしれないという可能性に、彼は深いところで打ちのめされていたのだ。
しかし、彼の目の前には、過酷な運命に打ちひしがれながらも、それを乗り越え、今では明るく笑うようになったエライザがいる。そんな彼女が、自分に心からの感謝を伝えている。
(バカだな…俺は。)
自分の抱えていた悩みがいかに取るに足らないものだったか、バッシュは悟った。彼女の存在そのものが、彼にとっての救いだったのだ。
バッシュは、湯船の中で静かに、しかし確かな声で、扉の向こうのエライザに語りかけた。
「救われたのは、俺の方だ。」
彼の声には、偽りない感謝と、深い感情が込められていた。
「きっと、今ここにいられるのは、君がいるからだ。一人じゃ、とっくに押しつぶされていたかもしれない。ただ彷徨うだけで…今日も、君に救われた。」
バッシュの言葉は、エライザの存在が彼にとってどれほど大きいものかを物語っていた。彼女がそばにいるからこそ、彼はどんな困難にも立ち向かえる。彼女の笑顔が、彼の道しるべなのだ。
「エライザ、信じてくれてありがとう。俺は、俺だ。」
その言葉を口にした瞬間、バッシュの顔から全ての迷いが消え去った。彼の瞳には、曇りのない決意と、未来を見据える強い光が宿っていた。自身の過去がどうであろうと、彼は「バッシュ」として、エライザと共にこの道を歩む。その覚悟が、彼の表情を一層研ぎ澄ませていた。
エライザは、バッシュの心からの言葉を聞いて、胸が温かくなるのを感じた。自分が彼の役に立てていたこと、そして彼の揺れる心の内を聞くことができたこと。それら全てが、彼女の心をじんわりと満たしていく。共にこの旅を進むと決めた時から、バッシュを疑ったことなど一度もない。彼が自分を人為的に作られた存在だと悩んでいるなんて、本当に「バカ」なのだから。
「お風呂、上がらないとのぼせるよ!」
エライザは、明るい声でそう言うと、浴室の扉の向こうから、先に部屋へと戻っていった。その声は、バッシュの心に心地よい響きを残した。
バッシュは、エライザが去った後も、しばらく湯船の中でその言葉を反芻していた。
(ありがとう…)
彼は、再び心の中で呟いた。彼の顔には、もう迷いはなかった。エライザの存在が、彼自身の揺るぎない確信となったのだ。




