第3章 (2)歌
バリスの市街地は、朝から活気に満ちていた。人々のざわめき、行き交う馬車の音、香ばしいパンの匂い。その全てが、これまでバッシュたちが旅してきた孤独な道とは対照的だ。
バッシュは、エライザと一緒にソフィアの手をしっかりと握り、共に街へと繰り出した。グラハムの呪い、そしてソフィアが狙われた理由。バリスの街には、その答えを探す手がかりが隠されているはずだ。
彼らは、グラハムの治療が進むのを待ちながら、この巨大な都市で、新たな情報を探し始めるだろう。しかし、その背後には、常に「裏切り者」の影が潜んでいることを、バッシュは忘れていなかった。
バリスの街は、これまでの旅で見てきたどの場所とも違っていた。高くそびえる城壁の中には、活気に満ちた人々が行き交い、あちこちで笑い声が響いている。色とりどりの露店からは美味しそうな匂いが漂い、吟遊詩人の奏でる陽気な音楽が耳に心地よい。
「綺麗な街ね…」
エライザは、その光景に思わず呟いた。人々がこんなにも明るく笑い、平和を享受している。こんな国に一体何が起きているというのだろう。グラハムが呪われ、ソフィアが狙われたという現実が、にわかに信じられないほどだった。
ソフィアの顔には、まだグラハムへの不安が色濃く残っている。エライザは、そんな彼女の心を少しでも軽くしたいと願った。
「ソフィアちゃん、見て!あそこにお菓子屋さんがあるわ!きっと美味しいお菓子があるわよ!」
エライザは、無理にでも明るく振る舞い、ソフィアの手を引いて楽しめそうな場所を探した。甘い香りに誘われるように、二人は菓子店の前へと向かう。
その時、バッシュの視線がある店に引き寄せられた。その店の前には、見覚えのある荷馬車が停まっている。あの特徴的な装飾は、間違いなくロイドの馬車だ。
「ロイドの店か…?」
バッシュは、思わず呟いた。ロイドが荷を下ろしに戻ると言っていた場所が、まさかこんな賑やかな街の中心にあるとは。ただの商人ではないという確信が、さらに深まる。
バリスの活気あふれる街で、エライザはソフィアを笑顔にするため、心を尽くした。まず向かったのは、甘い香りが漂う菓子店。色とりどりの菓子の中から、ソフィアが目を輝かせた可愛らしい焼き菓子を選び、一緒に頬張った。その甘さに、ソフィアの顔に小さな笑みがこぼれる。
次に、二人は様々な店を見て回った。きらめく装飾品、鮮やかな布地、そして繊細な細工が施された玩具。エライザは、ソフィアが興味を示したものを指差し、「あれは素敵ね」「これはどうかしら?」と、たくさん話しかけた。ソフィアも最初は戸惑いがちだったが、エライザの優しい声と、心から楽しもうとする姿に、次第に心を開いていった。
やがて、ソフィアの顔には、旅の疲れや父親への不安ではなく、純粋な喜びの表情が浮かんでいた。エライザの言葉に、無邪気な笑い声を上げる。
「エライザ、ありがとう…!」
ソフィアは、心からの感謝を込めて、エライザにそう伝えた。その笑顔は、エライザにとっても何よりの報酬だった。自分の力で、誰かを笑顔にできたという喜びが、彼女の心を温かく満たした。
しばらく街を散策した後、バッシュはロイドの馬車が停まっていた店へと向かった。そこは、普通の商店というには、どこか異質な雰囲気を漂わせていた。
「ここは…店…なのか?」
バッシュは、思わず呟いた。一見すると、何の変哲もない品物を扱う雑貨店のように見えるが、店の入り口には奇妙な紋様が彫られており、ガラス越しに見える店内は薄暗く、奥にはさらに深い闇が続いているように見えた。商品棚に並ぶ品々も、日常品というよりは、各地から集められた珍品や、用途不明の道具のように見受けられる。
エライザとソフィアも、その店のただならぬ雰囲気に、少しだけ身を寄せ合った。ロイドが「店に戻る」と言っていた場所が、これほどまでに謎めいているとは。バッシュのロイドに対する疑念は、さらに深まるばかりだった。
ロイドの店らしき建物の前で立ち止まったバッシュは、しばらくその異質な雰囲気を探るように眺めていた。ただの雑貨店とは思えない、どこか秘密めいた空気に、彼の疑念は深まるばかりだ。しかし、彼の視線はすぐに、笑顔でソフィアの手を引くエライザへと向けられた。
ソフィアの顔には、この街に来て初めて見る、心からの笑みが浮かんでいる。エライザが、健気に彼女の不安を取り除こうと頑張ってくれた結果だ。
(今はやめておくか…)
バッシュはそう判断した。ここでロイドの店に入り、彼の正体を探ろうとすれば、ソフィアの安らかな時間に水を差すことになるだろう。ロイドの真意を問いただすのは、後で直接会ってからでも遅くはない。
「よし、エライザ。ソフィア。あそこの広場で吟遊詩人が歌っている。聴きに行こう。」
バッシュは、二人にそう声をかけた。広場からは、陽気な弦楽器の音色と、人々の楽しげな歓声が聞こえてくる。
エライザは、バッシュの言葉に嬉しそうに頷いた。ソフィアもまた、興味を引かれたように目を輝かせた。三人は、吟遊詩人の歌声が響く広場へと向かった。
広場の中央では、一人の吟遊詩人がリュートを奏でながら、旅の物語を歌い上げていた。彼の周りには、多くの人々が足を止め、その歌声に耳を傾けている。バッシュたちは、人々の輪の中に加わり、その歌を聴き始めた。
吟遊詩人の歌は、遠い異国の冒険や、英雄たちの偉業を語るものだった。彼の歌声は力強く、聴く者の心を揺さぶる。バッシュは、その歌を聴きながら、自分たちの旅路を重ね合わせていた。エライザの故郷の悲劇、自身の過去の謎、そしてグラハムとソフィアを巻き込んだ「鍵」と「裏切り者」の物語。自分たちの旅もまた、いつか誰かの語る「物語」となるのだろうか。
エライザは、ソフィアと共に歌に耳を傾けながら、その表情を和ませていた。吟遊詩人の歌声は、彼女たちの心を癒し、しばしの安らぎを与えてくれた。バッシュは、そんな二人の様子を静かに見守っていた。
広場の中央で、吟遊詩人はリュートを奏でながら、物語の導入を始めた。彼の歌声は響き渡り、聴衆の心を惹きつける。
「──今宵、皆様に語り聞かせよう。いにしえの時代、神々がこの大地に創りし、強大な力が眠るという伝説を!」
その言葉に、バッシュとエライザ、そしてソフィアは耳を傾けた。歌は、神話の時代へと遡る。
「その昔、神々の御業により施されし封印は、時を経て解けかかり、内に秘められし力が暴走せんとした。その時、大地を救いしは、神秘を司る森の民──エルフ!」
エライザは、その言葉に小さく息を呑んだ。バッシュもまた、彼女の故郷がエルフの里であることを思い出し、吟遊詩人の歌に意識を集中させる。
「エルフは、その生まれながらにして宿る神秘の力をもって、暴走せんとする力を鎮め、再び大地に安寧をもたらした。そして、その強大な力には──『鍵』をかけて…」
『鍵』。その言葉が、バッシュとエライザの耳に強く響いた。妖精が語った言葉、そしてグラハムが言及した言葉。それが、遠い神話の歌の中に現れたのだ。
吟遊詩人は歌を続けた。
「エルフには、精霊の声を聞き、あらゆる負の力を払いのける力が宿るという。彼らの血には、神代の智慧が流れ、その歌声は大地に恵みをもたらす…」
神話に出てくる話の一節。エルフの神秘的な力、負の力を払いのける力。それは、エライザのペンダントの力や、彼女の潜在能力を暗示しているかのようだった。
歌が終わると、広場には大きな拍手が沸き起こった。
バッシュは、歌の内容に深く考え込んだ。「精霊」「エルフ」「強大な力」「封印」「鍵」。気になる言葉があまりにも多すぎる。
(神話の話だ…架空の物語にすぎないのかもしれない。だが、このような歌は、具体的な題材があるからこそ、その話が語り継がれているのではないか?)
彼の心には、神話と現実が交錯し始めた。エライザの故郷が滅びた理由、グリフォンを使役する謎の存在、グラハムの呪い、そして自身の指輪と刻印の謎。これら全てが、この古の神話と繋がっているような気がしてならなかった。
エライザもまた、歌の衝撃に言葉を失っていた。自身の種族にまつわる神話、そして「鍵」という言葉。それは、彼女が「鍵」として追われている理由と、その力が持つ本当の意味を示唆しているかのようだった。
この歌は、彼らが追う真実への、新たな道筋を示したのかもしれない。
吟遊詩人の歌が終わり、拍手が広場に響き渡る中、バッシュの視線は隣のエライザへと向けられた。彼女もまた、歌の内容に衝撃を受けているのが見て取れた。
「…エライザ。」
バッシュが静かに呼びかけると、エライザはハッと顔を上げた。彼女の瞳は、まだ神話の残像を映しているかのようだ。
「バッシュ…今の歌…」
エライザの声は、わずかに震えていた。彼女自身も、その歌が単なる物語ではないことを感じ取っていた。
「ああ。『鍵』…そして、エルフの力…お前のペンダントと、あの結界。全てが繋がっているように聞こえたな。」
バッシュは、確信を込めて言った。偶然では片付けられないほどの符合が、そこにはあった。
「うん…私が追われている理由も、あの『鍵』と関係があるのかもしれない…」
エライザは、自分の運命が、遥か古代の神話にまで遡ることに、畏れと同時に、ある種の納得を感じていた。
バッシュは、深く思考を巡らせた。この神話は、自分たちの旅の目的、そして世界の真実へと繋がる重要な手がかりになるだろう。
「この歌について、もっと詳しく調べる必要があるかもしれないな。図書館か、学者か…」
バッシュはそう呟いた。しかし、すぐに彼の脳裏に、医師の家で治療を受けているグラハムと、その傍らで不安げなソフィアの顔が浮かんだ。
「…だが、今はグラハムとソフィアが一番だ。」
バッシュの言葉に、エライザは強く頷いた。彼女もまた、吟遊詩人の歌から得た情報への関心は深かったが、目の前の命と、幼いソフィアの安寧が、何よりも優先されるべきだと理解していた。
「そうね、バッシュ。まずはグラハムさんの意識が戻るのを待たないと。ソフィアちゃんも、きっと心配しているわ。」
エライザは、バッシュと同じ意見だった。彼らは互いに見つめ合い、その瞳の奥で、確かな決意が交わされた。
「戻るか。」
バッシュがそう言うと、エライザも迷いなく頷いた。彼らは、街の喧騒を背に、ゴールドウィン医師の家へと引き返す道を歩み始めた。神話の謎は、今は胸の奥にしまい込まれたままだ。しかし、その歌が彼らの旅にもたらしたものは、計り知れないほど大きかった。




