第1章 (2) 東へ 出会い
バッシュ…自分の名だ。
しかし、いつからか自分をそう呼んでいたが、それが本当の名前なのか、誰かにそう呼ばれていたのかすら定かではなかった。
物心ついた頃には、自分は『バッシュ』だと思っていた。だが、その響きには、どこか他人のような、与えられた仮面のような違和感がある。以前は何も思わなかった名前、あって当たり前の名前…しかし今はこの自分の名前も謎の一つに感じられる。
指輪と数字の刻印…手掛かりはあまりにも少ない。しかし、かつて村を訪れた行商人が、口にした言葉が、脳裏に蘇る。
「もし、人知を超えた謎に直面したなら、遠い東の森の奥に住むという賢者を探してみるのもいいかもな。何でもお見通しらしいが、そもそも本当にいるのかも怪しいが…」
何の手がかりもない以上、その言葉が、バッシュの最初の目的地を示していた。アイシア皇国の領内ではあるが、都から遥か離れた、人里離れた深い森。そこには、剣と魔法の力を持つアイシア皇国の手が届かない、あるいは届ける必要がないと考えられている場所なのかもしれない。
賢者なら、指輪の意匠や、背中の数字の意味について、何らかのヒントを与えてくれるかもしれない。いるのならば、だか。
街道を行く。
森へと続く街道は、まだ朝の光を帯びていた。両脇には背の低い灌木が続き、時折、車輪の轍が深く刻まれた場所が見える。誰かがこの道を通った証だが、その誰もが、バッシュがこれから向かう森の奥までは行かないだろう。
街道は緩やかな上り坂になっていて、歩くたびに土埃が舞い上がる。バッシュは歩き慣れた足取りで進んでいくが、その脳裏には常に、与えられた仮面のような「バッシュ」という名と、指にはめた指輪、そして肌に刻まれた数字のことがちらつく。これらが意味するもの、そして森の奥にいるとされる賢者が、それらについて何かを知っているかもしれないという淡い期待。
不意に、風が頬を撫でた。どこからか、遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。それはまるで、これから足を踏み入れようとしている未知の領域からの呼び声のようにも思えた。街道の先に、鬱蒼とした森の入り口が黒い口を開けている。ここから先は、人の手があまり入らない場所。ここから、本当の旅が始まるのだ。
森の入り口に立ち、バッシュは深呼吸をした。街道の土埃の匂いは消え、代わりに湿った土と、名も知らぬ草木の混じり合った、濃厚な緑の香りが鼻腔をくすぐる。頭上を覆う木々の葉は、朝の光を遮り、森の中はすでに薄暗い。一歩足を踏み入れれば、そこはもう、人が暮らす世界とは隔絶された場所だ。
背後には、彼が育った村へと続く街道が伸びている。しかし、振り返ることはなかった。答えを求めて、彼は今、この森の入り口に立っている。
バッシュは腰に提げた剣の柄にそっと触れた。決して戦いを好むわけではないが、未知の場所へ踏み出すにあたって、それはわずかながらも心の支えになった。
目的の場所はここからかなり外れているはず。暗い森をひたすら東へ。
街道を外れ、深い森へと足を踏み入れた。地図など持たぬバッシュにとって、頼りになるのは感覚と、太陽が昇る方角だけだった。
一歩、また一歩と進むにつれて、街道の明るさは遠ざかり、代わりに木々の影が深く、暗く、まるで生き物のように迫ってくる。昼間でも薄暗い森の中は、湿った土の匂いと、朽ちた葉の香りが混じり合い、どこか不気味な静けさに包まれていた。聞こえるのは、風に揺れる枝葉のざわめきと、時折聞こえる獣の鳴き声だけ。時折、木々の間から差し込む光が、地面に斑点模様を描き、その光がまるで迷宮の入り口を示しているかのようだった。
道のりは険しい。獣道ですらない場所を、背の高い草をかき分け、絡み合うツタを避けながら進む。足元はぬかるみ、倒木が道を塞ぐ。都会で鍛えられた者ならば、あっという間に方向感覚を失い、途方に暮れるだろう。しかし、バッシュは村の周りの森で鍛錬を積んできた。彼の肉体は、この種の困難に慣れていた。
それでも、ただならぬ気配を感じる瞬間が度々あった。茂みの奥で光る一対の目、不自然に折れた木々、あるいは腐敗臭……。この森が、ただ静かなだけではないことを、バッシュの研ぎ澄まされた五感は察知していた。モンスターの気配だ。それはまだ、遠いかもしれないが、確実にこの森に潜んでいる。
夜が訪れると、森の闇は一層濃くなり、星の光すら届かない。バッシュは適当な場所で野営し、焚き火を熾す。燃え盛る炎だけが、彼を囲む底なしの闇の中で、唯一の慰めであり、護りだった。彼の隣には、いつも愛用の剣が置かれている。それだけが、この孤独な旅路で、唯一信じられる相棒だった。
夜が更け、森の闇は深まり、焚き火の炎だけがバッシュの周りを照らしていた。そのとき、炎の光が届かない木陰が不自然に揺れた。
「野盗か?」
バッシュは即座に剣の柄に手をかけた。村を出てまだ日が浅いとはいえ、この剣で身を守る覚悟はできていた。だが、姿を現したのは、彼の予想とは全く異なる人物だった。
そこにいたのは、背が高く、すらりとした体躯に、深くフードをかぶったローブの人物。フードの隙間から覗くわずかな肌の色と、微かに尖った耳の先端が、その者がエルフであることを示していた。
そして、そのエルフは明らかに、深手を負っていた。ローブの脇腹からは血が滲み、呼吸も荒い。片手で傷口を押さえながら、もう片方の手で杖を支え、かろうじて立っている状態だった。敵意は感じられない。むしろ、助けを求めるような、あるいはただ安息の場所を探しているかのような、弱々しい気配が漂っていた。
バッシュは剣を構えたまま、警戒を怠らずに様子を伺う。このエルフが、なぜこんな森の奥で、深手を負っているのか。賢者を探す旅の途中で、いきなり現れたこの存在は、吉と出るか凶と出るか。