第2章 (13)夜襲
その夜、街道を外れた森の奥深く開けた場所で、バッシュたちは野営の準備をしていた。小さな焚き火の炎が暗闇を揺らし、疲れた旅人たちの癒しだった。ロイドは焚き火に薪をくべながら、いつものように軽口を叩いている。エライザはソフィアの隣で毛布にくるまり、バッシュの温かい背中を見つめながら、うとうとと眠りに落ちかけていた。グラハムの容体は今は安定しているように見えた。
その時だった。
暗闇の奥から、ギョロリと光る一対の目が、焚き火の光を反射して浮かび上がった。
バッシュは、その異様な気配に即座に反応した。彼の瞳が鋭く光り、腰の剣に手が伸びる。体中に走る悪寒が、ただの獣ではないことを告げていた。
「来るぞ…!」
バッシュの低い警告の声が、静寂を切り裂いた。眠りかけていたエライザは、その声にハッと目を覚ました。暗闇に光る瞳の正体を悟ったかのように、彼女は反射的にソフィアを自分の腕の中に引き寄せ、その小さな体を抱きしめて守りの姿勢を取った。
ゴウッ!
風を切り裂くような音が響き、巨大な影が森の闇から飛び出してきた。それは、紛れもないグリフォンだった。猛禽類の鋭い爪と鉤爪、そしてライオンのような強靭な体躯。その姿は、かつてエライザを襲った悪夢と寸分違わなかった。
「グリフォン…!?」
エライザの声が震える。見間違うはずもない。どうしてここに?私を追って?頭の中に襲われた記憶が蘇る。
この森にグリフォンが生息しているとは考えにくい。この見覚えのあるグリフォンが再び現れたということは、誰かに使役されている証拠だ。
グリフォンは、その巨大な翼を広げ、低く唸り声を上げた。その狙いは明確だった。鋭い眼光は、エライザのいる方向をまっすぐに捉えている。
(狙いは…エライザか!)
バッシュは確信した。このグリフォンは、明らかにエライザを狙って送り込まれたのだ。それは、野盗の襲撃、そしてグラハムへの狙撃と繋がる、組織的な動き。そして、グリフォンを使役できるほどの力を持つ相手。
バッシュは、剣を抜き放ち、グリフォンの前に立ちはだかった。ロイドもまた、その表情から軽口を叩く余裕はなくなり、手にした短剣を構え、鋭い眼光でグリフォンを見据えていた。
グリフォンの爪と牙が迫る中、バッシュたちは再び、命をかけた戦いを強いられる。
暗闇に光るグリフォンの目が、エライザのいる荷台へと向けられた。バッシュは即座に剣を構え、エライザとソフィア、そして昏睡状態のグラハムを守るように、ロイドと共にその巨体の前に立ちはだかった。
「ロイド!来るぞ!」
バッシュの短い声に、ロイドも手にした短剣を構え、鋭い眼光でグリフォンを見据える。二人の間に言葉での打ち合わせはなかったが、その連携はまるで長年の戦友のようだった。
グリフォンは、その鋭い鉤爪を振り上げ、咆哮と共にバッシュに襲いかかった。バッシュは正面からその攻撃を受け止め、剣とグリフォンの爪が激しい音を立ててぶつかり合う。その隙を狙い、ロイドが素早くグリフォンの側面へと回り込んだ。彼の短剣が、獣の毛皮の隙間を縫うように、正確にグリフォンの翼の付け根を狙う。ロイドの動きはしなやかで器用であり、バッシュの力強い一撃と見事な連携を見せた。
「グアァァァッ!」
翼の付け根に痛撃を受けたグリフォンが、苦痛の叫びを上げた。初めてとは思えない二人の連携に、グリフォンは戸惑いを隠せないようだった。バッシュがグリフォンの注意を引きつけ、ロイドがその隙を突いて攻撃を繰り出す。無駄のない動きで、互いの足りない部分を補い合っていた。
しかし、グリフォンもただの獣ではない。使役されているだけあって、その知能と力は並外れていた。バッシュとロイドの猛攻を受けながらも、その巨大な体で二人をなぎ払おうと、猛烈な突進を仕掛けてくる。
バッシュはグリフォンの突進を受け止めながら、一瞬だけエライザたちの安全を確認しようと視線を向けた。その、ほんの一瞬の隙だった。
ヒュンッ!
暗闇の中から、またしても風を切るような音が響いた。グリフォンの背後から、細く輝く光の矢が、一直線にエライザ目掛けて放たれたのだ。それは、森でグラハムを狙撃した矢と同じ、闇に紛れる透明な殺意だった。
「しまった!」
バッシュは、光の矢の存在に気づき、叫んだ。グリフォンとの戦いに集中していたため、別の攻撃者の存在を見落としていた。
しかし、彼の心配は杞憂に終わった。エライザは、光の矢が放たれる前からすでに、自身の胸元のペンダントを両手で握りしめ、何かを詠唱していたのだ。彼女の体が淡い光に包まれ、その光は瞬く間に広がり、エライザの周囲に半透明の守護結界を形成していた。
パキンッ!
光の矢は、エライザを包む結界に衝突すると、まるでガラスが砕けるかのような音を立てて砕け散った。矢は結界を貫くことはできず、エライザは無傷だった。
光の矢を結界で防ぎきったエライザは、その瞳に確かな光を宿し、バッシュへと力強く頷いた。
(心配ないな。)
バッシュは、エライザの成長をその目で見届け、安堵と共に頷き返した。彼女の潜在能力が、今、確かに目覚め始めている。その確信を得たバッシュは、再びグリフォンへと視線を戻し、猛然と剣を突き出した。
ロイドは、エライザの放った神秘的な光景に一瞬、あっけにとられたように目を見開いた。しかし、その驚きはすぐに消え失せ、彼の顔にはいつもの飄々とした笑みとは違う、鋭い集中が宿った。
「面白いことをしてくれるじゃないか、お嬢さん!」
ロイドはそう叫びながら、再びグリフォンの側面へと滑り込む。彼の短剣が、正確にグリフォンの脚の腱を狙い、素早い連撃を繰り出した。
バッシュの重い一撃と、ロイドの素早い連撃。二人の息は完璧に合致し、グリフォンを追い詰めていく。傷を負い、何度も痛みに咆哮を上げるグリフォンは、次第にその動きを鈍らせていった。最後は、バッシュが繰り出した渾身の一撃がグリフォンの翼の付け根を深く切り裂き、グリフォンはたまらず雄叫びを上げながら、夜の闇へと消え去っていった。
グリフォンの巨体が森の奥へと消え去ると同時に、もう一つの、矢を放っていた殺気も、まるで幻だったかのように完全に消え失せた。残ったのは、わずかに風に乗って漂う、あの甘い香りだけだった。
激闘を終え、グリフォンの姿が闇に消え去ると、バッシュは真っ先にエライザたちの無事を確認するため、荷台へと駆け寄った。彼の顔には、安堵と、かすかな疲労の色が浮かんでいる。
エライザは、バッシュが近づいてくるのをじっと見つめていた。守護結界を展開し、光の矢を防ぎ切った興奮と達成感が、彼女の胸に満ちていた。
「…できたよ。」
エライザは、安堵と誇らしさの入り混じった笑顔で、小さくそう囁いた。その言葉と表情は、自らの内に秘められた力が、確かに覚醒し始めていることを示していた。
バッシュは、エライザの微笑みを見て、心からの安堵に包まれた。彼女の努力が報われたこと、そして彼女が自らの力で危機を乗り越えたことを喜び、その銀色の髪を優しくポン、と軽く叩いた。
「よくやった、エライザ。」
彼の声には、温かい称賛と、深い信頼が込められていた。
エライザは、バッシュの頭を撫でる手に、そっと自分の手を重ねた。彼女の瞳には、再び現れたグリフォンの姿が焼き付いていた。
「あのグリフォン…私が里を出て、最初に襲われた時のグリフォンと、間違いありません…」
エライザの声には、微かな震えが混じっていたが、その確信は揺るぎなかった。故郷を襲われた悲劇の記憶が蘇るが、今度は一人ではなかった。バッシュと共に立ち向かい、そして自らも戦うことができた。
バッシュもまた、エライザの言葉に深く頷いた。彼もまた、そのグリフォンが単なる野生の魔獣ではないことを確信していた。使役され、特定の標的を狙って送り込まれた存在。そして、その背後には、あの「甘い香り」と「金の耳飾り」の人物、そして皇国に潜む「裏切り者」の影がちらつく。




