第2章 (9)祈り
エライザは、グラハムの側へと膝をついた。その小さな両手で、母から託された透明なペンダントをそっと握りしめる。目を閉じ、故郷の里に古くから伝わる、精霊に捧げる祈りの言葉を紡ぎ始めた。その言葉は、森のざわめきにも似た、かすれてはいるが清らかな響きを持っていた。
すると、ペンダントが淡く光を放ち始めた。その光は次第に強まり、まるで薄い膜のようにエライザ自身と、そしてグラハムの体を優しく包み込む。神秘的な輝きが部屋の薄暗がりに満ち、幻想的な光景を生み出した。
しかし、祈りが終わった後も、グラハムの傷に目立った変化は見られなかった。深い矢傷はそのままに、ただ、その苦痛に歪んだ顔が、わずかに和らいだように見える程度だ。治癒と呼べるほどの効果はまだ遠く、せいぜい痛みの緩和といったところだろう。
エライザは、その結果に、一瞬だけ肩を落とした。やはり、自分にできることは少ないのだろうか。しかし、すぐに彼女の心に、確かな手応えがよぎる。光がグラハムの体を包み込んだあの感覚。生命の力を感じたあの瞬間。それは、紛れもなく精霊の力が作用した証拠だった。
(まだ経験が足りない…でも、不可能じゃない…!)
エライザの瞳に、新たな決意の光が宿る。治癒には至らなくとも、この力は確かにグラハムに届いた。自分にも、きっとバッシュの役に立つことができる。そう確信したエライザは、顔を上げた。
バッシュは、エライザの様子を静かに見守っていた。彼女の祈りが、グラハムに直接的な治癒をもたらさなかったことは理解していたが、その表情には失望の色はなかった。むしろ、エライザの顔に浮かんだ希望の光を見て、優しい微笑みを浮かべた。
「大丈夫だ、エライザ。今はこれで十分だよ。グラハムの苦痛が少しでも和らいだなら、それは大きな一歩だ。お前の力は、必ず役に立つ。」
バッシュの言葉は、エライザの背中をそっと押すように、前向きな響きを持っていた。彼の信頼に満ちた眼差しに、エライザは再び頷いた。精霊の力。そして、このペンダントに秘められた真の力。それらを解き明かすことは、これからの旅の大きな目的の一つとなるだろう。
夜が更け、宿の部屋には静寂が満ちていた。グラハムの浅い寝息と、ソフィアの幼い寝顔だけが、その静けさを破る。バッシュは、窓の外の闇を見つめながら、今後の決断について深く思考を巡らせていた。
(グラハムは多くのことを知っている。あの指輪と刻印、そして「もう一つ『鍵』が」という言葉。彼は重要な人物だ。)
もし彼をここに置いていけば、刺客が再び送り込まれる可能性は高い。そして、グラハムが昏睡状態の今、ソフィアだけを残していくのも無責任だ。彼女もまた、襲撃の標的となった公爵令嬢。何か重要な意味を持っているのかもしれない。エライザと同じように、彼女もまた「鍵」の一人なのだろうか。
バッシュは、再びグラハムとソフィアに目を向けた。彼らをこのまま宿場町に残しておくことは、できない。危険は承知の上だ。だが、自分たちが彼らを守り、真実を追うしか道はない。
彼はゆっくりと、窓辺に座るエライザの方を向いた。
「エライザ…」
バッシュの声に、エライザは静かに振り返った。彼女の瞳は、まだ月明かりを映して揺れていたが、その奥には強い意志が宿っているのが見て取れた。
「グラハムとソフィアを、バリスに連れて行く。」
バッシュは、迷いのない声で告げた。エライザは、その言葉に小さく息を呑んだ。当然の決断だと理解しつつも、その困難さを知っているからだ。
「ですが…危険が…」
エライザは、心配そうに眉を下げた。彼女は、森での野盗との戦い、そしてあの狙撃者の存在を鮮明に覚えていた。
「ああ、危険は承知の上だ。」
バッシュはきっぱりと言い切った。
「だが、ここに置いていく方がもっと危険だ。グラハムは『裏切り者』のことを知っている。奴らは口封じのために、必ず刺客を送ってくるだろう。誰が守る?」
彼の言葉には、揺るぎない覚悟が宿っていた。
「そして、ソフィアも無事では済まされない。なぜ狙われたのか、グラハムしか知らないのだからな。彼女もまた、何か重要な意味を持つ存在なのかもしれない。もしかしたら…お前と同じ『鍵』なのかもな。」
バッシュは、エライザの瞳を真っ直ぐ見つめた。エライザの胸元のペンダントが、かすかに揺れる。
「ならば、選択肢は一つしかない。危険だが、俺たちが彼らを守り、バリスへ連れて行く。そこで、全ての真実を解き明かす必要がある。」
エライザは、バッシュの決意に満ちた瞳を見て、深く頷いた。彼女もまた、自分の力を信じ、この困難な道を進む覚悟を決めていた。
「…分かりました。私も、できる限りのことをします。精霊の力…必ず、役立ててみせます。」
彼女の声には、まだ少しの不安が混じっていたが、それ以上に、バッシュと共に立ち向かう決意が感じられた。
バッシュは、エライザの言葉に静かに微笑んだ。その微笑みは、彼女の不安を打ち消し、信頼を深めるものだった。
「ありがとう、エライザ。二人で力を合わせれば、きっと乗り越えられる。」
この夜、バッシュとエライザは、新たな使命を背負うことになった。グラハムの命を救い、ソフィアを守り、そして「鍵」と「裏切り者」の真実を追う旅は、さらに深く、複雑なものへと変貌しようとしていた。彼らの行く手には、想像を絶する困難が待ち受けているだろう。しかし、彼らはもはや一人ではない。互いに支え合い、試練を乗り越えていく覚悟が、二人の間には確かにあった。




