表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
key〜光の先へ〜  作者: 初 未来
第1章 旅立ち、世界へ
2/46

第1章 (1) 旅立ち

 アイシア皇国の外れに位置する小さな村、リーン。そこは争いとは無縁の、平和で穏やかな場所だった。朝には鳥のさえずりが響き、川のせせらぎが心地よい子守唄のように村を包み込む。畑では黄金色の麦穂が風に揺れ、収穫の喜びを歌い上げていた。村の家々は木材と茅葺きでできており、どれも使い込まれた温かみを感じさせる。軒先には干し草や薬草が吊るされ、かまどからは香ばしいパンの匂いが漂ってくる。子供たちは広場で無邪気に駆け回り、村人たちは笑顔で挨拶を交わす。時折、遠くの森から届く獣の鳴き声も、ここでは脅威ではなく、豊かな自然の一部として溶け込んでいた。村の中心には、古びた水車がゆっくりと回り、そのたびにゴトンゴトンという音を立てて、村の長い歴史を語っているようだった。


 そこに住む一人の青年、バッシュ。過去の記憶がないが、この村で育った…はず。


 バッシュは、村の外れにある小さな一軒家で暮らしていた。大きな家でもないし、裕福でもないが、いつもきれいに整えられ、村の人々が時折差し入れてくれる野菜や果物で食卓は賑わっていた。誰かの家で育ったわけではない。物心ついた頃にはすでにこの家で一人暮らしをしており、村人たちが自然と彼を気遣い、見守ってきた。


 彼は幼い頃から、ひたすらに剣の腕を磨き続けてきた。村の広場で、あるいは森の奥深くで、汗を流し、血の滲むような鍛錬を重ねてきた。しかし、バッシュの日常はそれだけではなかった。村の平和を守るため、自警団の一員として夜の見回りや、時折現れる小型の獣の退治にも積極的に参加していた。その鍛えられた体と剣の腕は、村人たちの信頼を一身に集めていた。また、村の年寄りたちの荷運びを手伝ったり、壊れた農具を直したりと、困っている人がいれば率先して手を貸した。黙々と作業をこなし、多くを語らないが、その真面目さと優しさは、村の誰もが知っていた。彼は村の子供たちにとっては、少しとっつきにくいけれど、いざという時には頼りになる兄のような存在だった。


 けれど、バッシュの心には、いつからか拭えない疑問が渦巻いていた。それは、物心ついた頃からずっと左手の薬指にはめていた、奇妙な指輪と、背中に刻まれた「875」という謎の数字。村の誰に聞いても、その由来を知る者はいなかった。それはまるで、自分だけがこの世界の別の場所から来たことを示す烙印のようだった。


 そして、成人した今、その疑問は確信へと変わった。この村には、自身の過去を知る手がかりはない。真実を知るためには、この平和な場所を離れ、広大な世界へと足を踏み出すしかないと決意した。自身の出自を、指輪と数字の謎を、この手で解き明かすために旅立つことを。


 バッシュは静かに、しかし確かな決意を胸に、旅立ちの準備を進める。といっても、荷物らしい荷物はほとんどない。日々の鍛錬で使い込んだ丈夫な革袋に、少量の干し肉と水筒、使うこともなく溜めていたお金、それに最低限の着替えを押し込むだけだ。彼の背中には、謎の数字「875」が刻まれ、左手の薬指には、やはり謎の指輪が光る。そして、唯一無二の相棒。それは、長年肌身離さず磨き上げてきた、一本の剣だった。村の鍛冶屋が打ち直してくれたそれは、決して豪奢なものではないが、その重みと手触りは、バッシュにとって何よりも信頼できる存在であった。


 明け方、まだ村が静寂に包まれている中、バッシュは、感謝の書き置きだけし、誰にも告げずに旅立った。


 家を出る直前、彼は部屋の中をゆっくりと見回した。質素だが、この家は彼にとって唯一の「家」だった。村人たちが差し入れてくれた素朴な飾り物、使い込まれた木製のテーブル、そして剣の鍛錬でついた壁の傷。これら全てが、彼がここで生きてきた証だ。温かい村人たちの顔が次々と脳裏に浮かぶ。子供の頃、迷子になって泣いていた彼に優しく声をかけてくれた村の母親たち。剣の稽古を見て、褒めてくれた老人たち。そして、何があっても彼を疎まず、一人の村人として受け入れてくれた皆の笑顔。


 この平和な場所を離れることは、まるで自分の居場所を自ら手放すようなものだった。 ふと、胸に漠然とした不安がよぎる。この旅の先に、何があるのか。真実が、彼が望むものであるとは限らない。もしかしたら、自分が知るべきではない、残酷な現実が待っているのかもしれない。だが、それでも彼は立ち止まることができなかった。左手の薬指の指輪が、背中の数字が、まるで脈打つように彼に語りかけてくるのだ。「お前は、ここで終わるべき人間ではない…」と。


 この抑えきれない渇望は、不安を凌駕した。過去の記憶がないという事実が、彼を常に透明な壁の中に閉じ込めているようだった。他者に語れない己の根源。それは、どんなに村人から親愛を受けても埋められない、彼だけの空白だった。その空白を埋めるためには、外の世界に出て、自らの手で答えを見つけ出すしかない。それが、彼に与えられた唯一の使命だと感じていた。


 故郷の風景が徐々に遠ざかるにつれ、彼の胸には、未知の世界への期待と、自身の過去への渇望が入り混じった、複雑な感情が湧き上がってくる。


 彼は最後に、振り返って村全体を見渡した。黄金色の麦畑、古びた水車、そして温かい村人たちの顔。この平和な場所が、自分の出発点なのだ。


 朝日が地平線から顔を出し、村の家々を淡く照らし始めたその時、バッシュは一歩を踏み出した。目指すは、広大な世界の彼方。自身のルーツを解き明かすため、彼は故郷の村を後にした。


 そんなバッシュを影から見送る女性がいた。


「……いってらっしゃい。」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ