第1章 (14)新たなる旅立ち
二人が市場へと歩き出した時、バッシュは複数の視線を感じた。それは、好奇の目ではない。獲物を品定めするような、あるいは何かを探しているような、冷たい視線だ。昨夜、森で彼らを襲った者たちと同じ気配。ゲーテの町まで追手が来ていたのか、それとも偶然か。
バッシュは平静を装いながらも、エライザの隣に自然と体を寄せ、彼女を守るように歩いた。彼の指は、無意識のうちに腰の剣の柄に触れていた。この視線が、単なる思い過ごしではないことを、彼の研ぎ澄まされた五感が告げていた。
バッシュは、視線の気配を感じつつも、あえて平静を装った。もし追手なら、こんな人通りの多い場所で騒ぎを起こすことはしないだろう。彼らを誘い出すような動きも、あるいは彼らがこちらを観察しているだけかもしれない。いずれにせよ、ここで慌てて反応するのは得策ではない。
「広場の方へ行こう。」
バッシュは、エライザにそれとなく告げた。広場は開けており、周囲を把握しやすい。もし何かあれば、彼の剣の腕を存分に振るえるだろう。
二人は、人々の流れに紛れるように、町の中央にある噴水の広場へと向かった。広場には、美しい石造りの噴水を中心に、露店が軒を連ね、吟遊詩人の歌声や子供たちの笑い声が響いている。しかし、バッシュの警戒は途切れない。広場の賑わいの中にも、先ほど感じた冷たい視線が、どこかから自分たちを捉えているような気がしてならなかった。
バッシュとエライザは、ゲーテの噴水広場に足を踏み入れた。広場は人々で賑わい、色とりどりの露店が立ち並ぶ。パンや果物の甘い匂い、焼かれた肉の香ばしい匂いが混じり合い、活気あふれる声が飛び交う。バッシュは周囲に警戒しつつも、まずは旅に必要な物資を調達しようと、食料品を扱う露店の方へ視線を向けた。
その時、エライザが小さく声を上げた。
「わぁ…」
彼女の視線が釘付けになっていたのは、広場の隅にある、装飾品を扱う露店だった。そこには、きらびやかなネックレスやブレスレット、そして様々なデザインの髪飾りが並べられている。エライザが特に惹きつけられていたのは、月光を宿したかのように輝く、一本の銀の髪飾りだった。精巧な細工が施されたそれは、エルフの優美な髪によく似合うだろう。
巫女の娘として育ち、派手ではない生活を送ってきたエライザにとって、このような美しい装飾品は、滅多に目にすることのないものだったに違いない。彼女の瞳は、まるで子供のように純粋な輝きを放っていた。
バッシュは、エライザの視線が釘付けになっている銀の髪飾りに気づくと、躊躇なくそれを手に取った。精巧な細工が施されたそれは、月光を宿したかのように繊細に輝いている。彼は何も言わず、おもむろにエライザの背後に回り込んだ。
エライザは、突然の彼の行動に少し戸惑ったが、彼の優しい気配を感じて、そのまま身を任せた。バッシュは、彼女の柔らかな銀色の髪をそっと持ち上げると、迷うことなくその髪飾りを挿した。
そして、彼女の肩越しに鏡に映るエライザの姿を見て、バッシュは静かに微笑んだ。
「似合ってるよ。」
彼の言葉は飾り気がなく、しかし心からの賛辞だった。銀色の髪飾りは、エライザの美しい銀髪に見事に溶け込み、彼女の瞳をより一層輝かせている。それは、旅の道中で見せた、彼女の純粋で、しかしどこか儚げな美しさを引き立てていた。
エライザは、鏡に映る自分と、その背後に立つバッシュの姿をじっと見つめた。故郷を失い、未来への希望を見失いかけていた彼女の心に、小さな光が灯るのを感じた。この髪飾りは、単なる装飾品ではなく、彼との新たな旅の、そして彼女自身の再生の象徴となるだろう。
バッシュは、銀の髪飾りを店主から購入し、エライザの髪に再び挿し直した。エライザの顔には、新しい装いへの喜びと、バッシュの優しさへの感謝が混じり合った、穏やかな笑みが浮かんでいる。
二人は、再び賑やかな噴水の広場を歩き始めた。エライザは時折、髪に触れては、その感触を確かめるように微笑んだ。バッシュはそんな彼女の隣を歩きながらも、周囲への警戒を怠らない。先ほど感じた視線が、まだ自分たちを追っているのではないかと、彼の五感は研ぎ澄まされていた。
露店の活気、人々の話し声、吟遊詩人の奏でる陽気な調べ。全てが日常の風景だが、バッシュの心は、決して安らぐことはなかった。この町が、彼らの旅の新たな始まりの地となるか、それとも次の試練の場となるか。
バッシュは、広場を歩きながら周囲への警戒を続けていた。食料を扱う露店に立ち寄り、日持ちのする干し肉や堅パン、そして水筒に詰めるための新鮮な水を購入する。エライザもまた、彼の隣で、市場の活気に少しずつ馴染んでいるようだった。
だが、広場の喧騒に紛れて感じていた、あの冷たい視線が、いつの間にか消え去っていることに、バッシュは気づいた。彼らが諦めたのか、それとも一時的に身を潜めただけなのか。いずれにせよ、これ以上、この宿場町に留まるべきではないという直感が、彼の背中を押していた。
バッシュは、視線が消えたことに気づき、残りの買い物を手早く済ませた。食料と水の入った袋を肩にかけ、彼はエライザに問いかけた。
「エライザ、他に必要なことはあるかい?」
彼の声には、もう町を出る準備ができたという意思と、彼女への配慮が込められていた。「世界の動き」そして、「謎」を線で繋げる旅は、この町を出てから本格的に始まる。彼らの運命は、もうこの町の喧騒に留まることはないのだ。
エライザは、バッシュの問いかけに、新しい髪飾りの銀色が揺れる髪を小さく揺らした。彼女の瞳には、迷いはもうなかった。悲しい過去を背負いながらも、バッシュと出会い、共に歩むことを決めた彼女の心には、確かな光が宿っていた。
「…うん。行きましょう。」
彼女の声は、どこまでも澄んでいて、その表情には、新たな旅路への希望と、バッシュへの深い信頼が満ちていた。言葉は多くなくとも、その一言に、彼女の決意が全て込められていた。
バッシュは、エライザの返事に静かに頷いた。彼の胸にも、新たな旅への期待と、エライザを守り抜くという固い覚悟が湧き上がっていた。彼らの旅は、単なる自身の過去の探求に留まらない。エライザという「鍵」を守り、世界の「動き」の真実を解き明かす、壮大な使命へと、その様相を変え始めていた。
二人は、町の喧騒の中、静かに門を後にした。背後には、彼らが過ごした束の間の安寧と、追手の気配が消えた町の日常が残されている。しかし、彼らの前には、まだ見ぬ広大な世界と、想像を絶する困難が待ち受けている。
遠くに見える、深い森の向こうへと続く道。はじめの不確かな目的地である賢者の庵を目指すのか、それとも新たな手がかりが彼らを導くのか。二人の旅は、ここから本格的に幕を開ける。




