第1章 (10)休息
バッシュは部屋の窓辺に立ち、町の夜景を静かに見つめていた。酒場の喧騒は遠のき、町の灯りもまばらになっていく。彼の心には、妖精の言葉、エライザの悲しい過去、そして自身の謎めいた出自が、いくつもの影を落としていた。指輪と背中の刻印。それらが示す「宿命」という言葉が、ずっしりと重くのしかかる。
その時、コンコン、と控えめなノックが部屋のドアを叩いた。バッシュは剣の柄に手を伸ばしかけたが、その気配がエライザのものだと察した。
「バッシュ…」
ドアの向こうから、か細い声が聞こえる。バッシュがドアを開けると、そこには、白い寝間着をまとったエライザが、不安げな表情で立っていた。その瞳は、まるで迷子の子供のように揺れている。
「一人でいると…少し、怖くて…」
エライザの声は、夜の闇に吸い込まれそうに弱かった。森での惨劇、そしてあの洞窟での不思議な体験。彼女の心には、癒えぬ傷と、言葉にできない恐怖が渦巻いているのだろう。回復した身体とは裏腹に、その心はまだ深い闇の中にいた。
バッシュは、エライザのその言葉に、何も言わなかった。ただ、静かにドアを開け放ち、彼女を部屋の中へと招き入れた。
バッシュは、エライザの不安げな顔に、静かに微笑んだ。その表情には、安心させるような、しかし同時に覚悟を秘めた光が宿っていた。
「休んだほうがいい。ベッドを使っていいよ。」
バッシュはそう言い、部屋の唯一のベッドを指し示した。エライザの疲労と恐怖は、彼にも痛いほど伝わってくる。まずは、心ゆくまで休息を取ることが何よりも重要だと彼は理解していた。
そして、自分の身は構わないとばかりに、彼は部屋の隅、窓辺の影に身を寄せた。剣を立てかけ、その柄に手を置く。
「オレはここで…側で見張ってる。安心しておやすみ。」
彼の声は低く、しかし力強く響いた。それは、彼女を何者からも守り抜くという、バッシュの決意の表れだった。この宿場町で、あの追手たちが再び現れる可能性は低い。しかし、彼はエライザの側にいることで、彼女の不安を少しでも取り除き、そして自分自身もまた、来るべき運命に備えようとしていた。
エライザは、バッシュの言葉に、ゆっくりとベッドに横たわった。彼の背中、そして窓の外を見つめるその横顔を見ていると、彼女の心に温かい安心感が広がっていくのを感じた。深い悲しみと恐怖に囚われていた彼女の心が、少しずつ癒されていくようだった。
バッシュの優しい言葉と、彼の背中に感じる確かな存在に安心し、エライザはすぐに深い眠りについた。それは、里が滅ぼされて以来、いつぶりか分からないほど、穏やかで安らかな眠りだった。彼女の口元には、かすかな笑みが浮かんでいるようにも見えた。
一方、バッシュは窓辺で静かに夜空を見上げていた。彼の隣で安らかに眠るエライザの寝息だけが、静かな部屋に響いている。彼の頭の中では、昼間の妖精の言葉が繰り返しこだましていた。
「すべてが動き出し、止められない…」
「動き出す」とは、一体何を意味するのか。ただの言葉遊びではないことは明白だ。アイシア皇国と、ローレル王国。二大勢力の均衡は、今も保たれているように見える。しかし、その水面下で、何かが静かに、そして確実に動き始めているのだとしたら…
エライザが「鍵」であること。彼女の里が滅ぼされた理由。そして、自分の指輪と背中の「875」という刻印。これら全てが、妖精の言う「動き」とどう繋がるのか。世界規模の変革なのか、あるいは新たな戦乱の予兆なのか。
バッシュは、自分がその「動き」の中心にいることを、否応なく感じていた。妖精の言葉は、彼の旅が、もはや個人的な過去の探求に留まらないことを明確に告げていた。
夜は深く、そして長く感じられた。バッシュの心は、来たるべき運命に対し、静かな覚悟を固め始めていた。彼の剣は、この世界の「動き」の中で、どのような役割を果たすことになるのだろうか。




