第1章 (9)町へ
森を抜け、視界が開けた先に、ついに目的の宿場町が見えてきた。木々の間に点々と灯る明かりが、暗闇の中で希望の光のように瞬いている。土埃の舞う街道には、馬車の轍が深く刻まれ、遠くからは人々の賑やかな声が聞こえてくる。
バッシュは、その光景を目にした瞬間、一日の緊張が少しばかり緩むのを感じた。そして、隣を歩くエライザの顔を見やった。彼女の表情にはまだ疲労の色が残るものの、身体が癒えたことで、以前のような瀕死の様子はなかった。
「よし!何か食べよう!」
バッシュは、意識的に明るい声を出した。深刻な話は、まずは身体を休めてからだ。今は、温かい食事と安息の場所が必要だった。エライザにも、少しでも安心してほしい。彼の言葉には、過酷な旅の疲れを忘れさせるような、前向きな響きがあった。
エライザは、その言葉に小さく頷いた。彼女の顔に、かすかな笑みが浮かんだように見えた。
二人は、宿場町の明かりを目指し、最後の力を振り絞って歩き出した。門をくぐれば、そこには喧騒と活気、そして束の間の安寧が待っているだろう。しかし、彼らの運命は、もう後戻りできない場所へと進み始めている。
宿場町ゲーテの門をくぐると、そこは別世界だった。石畳の通りには、馬車の車輪の音が響き、露店の明かりが温かく揺れている。様々な人々の話し声が混じり合い、どこからか香ばしい料理の匂いが漂ってくる。小さな町ながらも、その活気はバッシュが育った村とは比べ物にならないほどだ。
バッシュとエライザは、まず賑やかな大通りに面した一軒の酒場へと向かった。木製の看板には、年季の入った「大地の恵み亭」という文字が掲げられている。中からは、陽気な歌声と、食器のぶつかる音が漏れ聞こえてくる。
酒場の扉を開けると、そこは熱気に包まれていた。薄暗い店内は、屈強な傭兵らしき男たち、商人、そしてこの町に住む人々でごった返している。中央の暖炉では火が燃え盛り、カウンターからは酒の匂いが、厨房からは肉を焼く香りが漂ってくる。
二人は、空いていた片隅の席に座った。すぐに駆け寄ってきた給仕の女性に、バッシュは干し肉と水筒だけだった森での食事を思い出し、心ゆくまで料理を注文した。エライザも、遠慮がちにではあるが、久しぶりの食事に胸を躍らせているようだった。
運ばれてきたのは、焼きたてのパンに、肉汁滴るシチュー、そして香りの良いエール。バッシュとエライザは、無言で料理を口に運び始めた。一口食べるごとに、森での過酷な日々が遠ざかっていくような安堵感が広がった。
しかし、この喧騒の酒場には、彼らの会話に聞き耳を立てる者、あるいは彼らの指輪や刻印に気づく者がいないとも限らない。
温かいシチューと焼きたてのパンを口に運びながら、バッシュは至福の表情を浮かべた。長かった森での生活を思い出し、心ゆくまで食事を楽しんでいる。
「美味しい…」
エライザもまた、ゆっくりと静かに料理を味わっていた。彼女の顔には、まだ旅の疲れが残っているものの、食事の温かさが心身に染み渡っていくのを感じているようだった。バッシュはそんな彼女の様子を気遣い、優しく声をかけた。
「エライザ、大丈夫か?」
心配そうに見つめるバッシュに、エライザは小さく頷いた。
「ええ…こんなに美味しいものは、久しぶりだわ…」
その言葉には、悲しみと安堵、そしてわずかながらも生きていることへの喜びが混じり合っていた。彼女の故郷では、きっとこのような穏やかな時間も奪われていたのだろう。
酒場の中は、相変わらず喧騒に満ちている。あちこちから笑い声や議論の声が響き、エールの香りが漂う。彼らの会話に聞き耳を立てる者はいなさそうだが、バッシュは警戒を怠らない。この町が、彼らの旅にどんな影響を与えるのか、まだ分からない。
一通り食事を終え、バッシュとエライザは「大地の恵み亭」を後にした。温かい料理と喧騒は、つかの間の安らぎを与えてくれたが、彼らの旅はこれからだ。夜風が火照った頬を撫でる。
バッシュは酒場の給仕に勧められた宿屋へと足を進めた。質素ながらも清潔そうな「宿やすらぎ」の看板が、通りに面して掲げられている。
宿の扉を開けると、そこは酒場とは打って変わって静かで落ち着いた雰囲気だった。年老いた主人がカウンターに座り、暖炉の火が静かに燃えている。バッシュは二名分の部屋を頼み、金貨を数枚差し出した。
「ゆっくり休んでください。旅の疲れも癒えましょう。」
主人の言葉に、バッシュは軽く頭を下げた。与えられた部屋は、簡素ながらも清潔なベッドと小さなテーブル、そして窓からは宿場町の明かりが見える。エライザは、ベッドに腰を下ろすと、疲労からか、すぐに深い息を吐いた。
バッシュは窓辺に立ち、外の闇を見つめた。あの妖精の言葉、エライザの過去、そして自分の指輪と刻印。全ての点がまだ繋がらないが、確実に何かが動き出している。この宿で一晩過ごせば、頭を整理し、今後の行動を考える時間ができるだろう。




