プロローグ
世界は二つの強大な力によって形作られていた。一つは、神秘なる剣と深遠なる魔法が支配するアイシア皇国。彼らの戦士は竜の咆哮を宿し、魔術師は星々の輝きをその指先に集めた。もう一つは、無限の探究心と革新的な科学技術を誇るローレル王国。彼らの作り出す機械は空を舞い、鋼の兵は大地を震わせた。
幾度となく、この二大国はその覇権を巡って血で血を洗う争いを繰り返した。アイシアの魔力がローレルの鉄壁を砕き、ローレルの砲火がアイシアの結界を貫いた。しかし、その果てしない衝突は、互いへの畏怖と、想像を絶する破壊の記憶だけを残した。
そして、今。長きにわたる戦いの時代は過ぎ去り、世界は一見穏やかな均衡の中にあった。強大な力と力が互いを牽制し、抑止力として機能している。それは平和と呼ぶにはあまりに危うく、停戦と呼ぶにはあまりに長すぎた。しかし、誰もが知っていた。このガラス細工のような均衡が、いつ、どこで崩れるともしれないことを。
そんな中、皇国ではささやかだが異変が続いていた。
皇国各地の魔力の源泉とされる場所、聖なる泉や古代の遺跡などでは、かつてないほど魔力の流れが少しではあるが、不安定になっているという報告が上がるようになった。魔術師たちはその原因を探るが、明確な理由はつかめず、ただ不穏な感覚だけが彼らを支配していた。
魔力の不安定化は、皇国の人々の生活にも影を落とし始めていた。聖なる泉の水は濁り、祈りをもってしても癒えぬ病が増え、作物の生育にも遅れが見られ始めたのだ。魔術師たちの間で広がる不穏な空気は、やがて市井の人々の間に漠然とした不安として伝播していった。
またそれに伴い、皇国の貴族社会では、普段は表に出ることのない不穏な噂が囁かれ始めていた。それは、現皇帝の血筋に連なる高位の皇族の一部が「禁忌の魔法」に手を出しているというものだった。
もちろん、その真偽は定かではない。しかし、この噂は、長きにわたり盤石であったはずの皇国の根幹を揺るがす、静かな毒のように広がっていた。伝統と秩序を重んじる保守派の貴族たちは、密かに眉をひそめ、不穏な空気を察していた。彼らは、この均衡が崩れる日が、案外近いのかもしれないと感じ始めていたのだった。
「命令だ…なんとしても…」
アイシア皇国に静かな異変の兆しが見え始める中、科学技術のローレル王国もまた、深い闇を抱え始めていた。表向きは強大な技術力によって秩序と繁栄が保たれているかに見えたが、その裏側では、民衆の間に不吉な陰謀論が静かに、しかし確実に広がりを見せていたのだ。
最も広く囁かれていたのは、「王国の技術革新は、もはや国家の管理下にない」というものだった。ローレル王国を支える中核技術である「魔導機関」の開発を巡り、一部の急進的な科学者集団が、国王の許可なく危険な研究を進めているというのである。彼らは、アイシア皇国の魔法を凌駕する「究極の力」を求め、既存の倫理や安全性を無視した実験を繰り返していると噂された。都市部の巨大な研究施設からは、不可解な爆発音や振動が報告されることもあったが、政府はそれを「定期的な調整作業」として一蹴するばかりだった。
また、貧困層の間では、「王国の一部特権階級が、新たな技術を使い、意図的に労働者から職を奪っている」という、社会不安を煽る陰謀論も根深く存在していた。自動化された機械が人間の仕事を代替し、職を失った人々が路上に溢れる中、王国の富が一部の者たちに集中している構図は、彼らにとってこの陰謀論を信じるに足る根拠となっていた。
これらの陰謀論は、王国の情報統制によって公には議論されることはなかったが、裏路地の酒場や、人々の目を掻い潜る地下の集会では、常に不穏な噂が囁かれ続けていた。それは、ローレル王国の揺るぎないかに見える基盤を、内側から蝕む静かな病のように広がり、民衆の間に不信と疑念の影を落としていた。
「あのときのように…なぜうまくいかぬ…何体使えば…」
しかしまだ、ささやかな異変に過ぎない。
果たして、この世界を再び混沌へと突き落とすのは、古き魔法か、新しき科学か。あるいは…
時は静かに動き出した。