あまりにも不憫なプロローグ
大学を卒業して、そこそこ有名な商社の営業マンになった。
人生勝ち組――そう思ったのも束の間、営業成績は伸びることなく、何か努力することもなく、気が付けば30代も後半になっていた。
古いアパートから会社に向かい、会社に着くなり上司に怒られ営業先へ。
営業先でも怒られ、会社に戻ってまた怒られ……。
まあ、これがサラリーマンというヤツなのかもしれない。
同期入社のやつらは次々と結婚してマイホームを購入。
住宅ローンの返済がきついだの、子どもの習い事で金がないだの言っているが、俺には自虐風自慢にしか聞こえない。
独り身には十分な給料をもらっているが使い道はない。
平成初期に建てられた築30年のアパートなもんで家賃は安いし、酒とタバコは嗜む程度だがこれといった趣味はないし、ギャンブルなんかは一度も手を出したこともない。
金は貯まる一方、しかし心は満たされない。
金欠金欠と嘆いている同僚の方がよっぽど幸せそうに見える。
自己肯定感の欠片もない人間、それが俺だ。
宮部裕太、通称ユータ。
小さい頃から勉強もスポーツもそこそこ出来た。
学校の授業を聞くだけでテストはいい点数を取れたし、部活の野球部では小中高とピッチャーをやっていた。
でも、いつからだろう。
何もかも、頑張ることができなくなったのは――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
夏。
コンクリートジャンルが灼熱の日差しを照り返す。
このクソ暑い中、スーツ姿で営業先へ向かっていた時、着信を知らせるバイブ音がジャケットの内ポケットで鳴る。
地元の病院からの電話――女手ひとつで育ててくれた唯一の肉親が、この世を去った知らせだった。
連絡を受けてからの記憶はない。
とりあえず会社に連絡して、しばらくの休暇をもらった。
田舎の実家へ帰ってからというもの、葬儀屋との打ち合わせやら役所への手続きやらで気の休まる暇もなかった。
覚えているのは一つ。
相続関係で役所から取得した数々の原戸籍で、血縁者は誰一人この世にいないという事実を知ったことだけ。
顔も知らない父親は俺が1歳の時に死んでいて、祖父母は父方も母方も、俺が小学生になる前に他界済みだった。
病気なのか事故なのか、どちらにしても、俺の家系は寿命が短いらしい。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
このまま生きながらえたところで、夢も希望もありゃしない。
あっという間に1週間が過ぎた。
とりあえず落ち着いたことを会社へ連絡すると、なるべく有休を使わずに特別休暇にできないか総務部に掛け合ってやるから四十九日の法要まで田舎で過ごせと上司から指示された。
考えなければいけないのは、母親が所有権を持っていた土地とこの家をどうするかだ。
誰もいない実家で一人静かに遺品を整理していると、何冊ものアルバムを発見した。
俺がやっていた野球の練習や試合の写真をまとめたアルバムだった。
最初のページは小学6年生からだった。
ピッチャーでマウンドに立つ俺が真ん中に写っているが、手ブレなのかピントが合っていないのか、とてもいい写真とは言えない。
1ページ、また1ページとアルバムをめくるが、どれも上手く撮れていない。
女手ひとつで俺を育てるため、いつも忙しくしていた母だ――俺の試合を見に来たことなんてないと思っていたが、こんなに大量の写真を残していたなんて……。
アルバムは2冊目、3冊目となるにつれて、写真を撮ることに慣れてきたのか、写りのいいものが増えてきた。
ガサツで不器用な母だと思っていたが、何枚も撮っているうちに上達してきたのだろう。
どうして親孝行してあげることができなかったんだろうかと、親の有り難さは亡くして気付いても遅い。
考えてみると20年近く顔を合わせていなかった。
20年――俺の人生の半分以上ある時間、どうしてたった1人の親を大切にできなかったのだろう。
写真を眺めていると、ゆっくりと涙が溢れた。
まだ見ていないアルバムが何冊も残っているというのに、ふと、家の呼び鈴が鳴った。
一旦、放り出したアルバムを全て段ボールに詰め込み、玄関の戸を開けると、そこには俺と同い年くらいの女性が立っていた。
「こんな時にごめんなさい。久しぶりだね」
一瞬、彼女が誰なのか分からなかった。
「何か……手伝えること、ないかなと思って」
自己主張の強い切れ長の目をしたキツネ顔女性が、少し恥ずかしそうに立っていた。
記憶の中の彼女からだいぶと大人びていたが、すぐに誰なのか理解した。
七瀬千夏。
いつ、どういう理由で破局したのかは覚えていないが、過去に恋人だった女性だ。
「ありがとう千夏……助かるよ」
「ううん、おばさんには昔すごくお世話になったから、最期にお返しをしたくって」
近所に住んでいた千夏はここに遊びに来ていたし、俺以上に俺の母と仲が良かったのを覚えている。
千夏は仏壇の前で手を合わると、数分間一言も話さなかった。
他に親族のいない俺は、静かな家族葬を行ったのだが、田舎あるあるで情報は近所に筒抜け。
千夏は、1人で片付けに困っているだろう俺に会いに来てくれたのだ。
「……こっちに住んでるのか? おじさんとおばさん、元気にしてるか?」
「……うん。地元の農協で働いてる。お父さんとお母さんも元気にしてるよ」
「……ああ、千夏の家、でっかい農家だったもんな」
これまた田舎あるある。
大抵の場合、農家の子は家業を継ぐか、または地元の役所か地元の農協に入る。
こうやって、田舎はより閉鎖的になっていく。
でも、田舎に残っている連中はほとんどの場合、幸せそうに過ごしている。
都会に出た俺とはまるで違う。
「……ユータ、昔と比べてだいぶ痩せたね。ちゃんと食べてる?」
「……まあ、男の一人暮らしだからな」
「そうなんだ……」
それ以上、俺のことを聞いてこなかった。
千夏は結婚して子どももいるのだろうか。
もういい歳だ、きっと俺とは違って、幸せな家庭を築いているのだろう。
俺には何もない。
親もいない、血の繋がった親族もいない。
世界にただ一人、俺がいるだけ。
そう思うと、自分の中で、何かが壊れる音がした。
「……俺もう、楽になっていいかな」
無意識のうちに呟いていた。
この時の俺は、よほど惨めな姿だったのだろう。
哀れな俺に同情したのか、千夏は優しく俺を抱きしめて、泣いていた。
「ユータ、つらかったね……」
最後に会ってからおよそ20年の時が過ぎているというのに、心を許せる相手の優しさに触れた俺の目には、大粒の涙が浮かんでいた。
「千夏……俺を、楽にしてくれ……」
涙と鼻水で歪んだ俺の顔を真っ直ぐ見つめ、千夏は軽く触れる程度に唇を重ねてきた。
驚きはしなかった。
息をするように、ごく自然な流れのままに。
唇が触れ合った瞬間、雷に打たれたような衝撃が体に走った。
瞬きをすると、紺色のセーラー服を着た中学生を抱きしめていた。
セーラー服を着た中学生を抱きしめていた!?




