第8話 憧れの水色
赤目の魔狼が地面から浮きあがってきた。
ラナの姿がかたわらにある。
彼女の影から這い出すとラナにより沿うように身体を伏せた。
泉に落ちて以来、ラナは殆ど眠ったままだ。
今も意識はない。
かみちぎられた右肩右腕も水に浸っていたおかげで、元の形を取り戻していた。
だが、その間、彼女は自分の身を守れない。
怪しげな人間たちにさらわれて、この城まで連れてこられた。
赤目の魔狼は、ラナの身に危険が迫れば、全力で守るつもりだった。
◇◇◇
渡し船は、人や積み荷のほかに2頭立ての荷馬車が1台、乗る大きさがあった。
台船なので、平たい甲板の中央に小屋のようなものが建てられ、人はその建屋の中にいる。
荷物は、甲板に縄で結わえられ、荷崩れを起こさぬように積まれていた。
六人もの男たちが船の左右に立ち、櫂で船を操っていく。
ダリスのダーナ河は、比較的流れが緩く、台船仕様の渡し船でも揺れなく渡れるということだった。
フィイは台船の甲板にギルバートと一緒にいた。
黒の騎士はフードをかぶり、マントで身体をくるんで膝を立てている。
彼は荷箱の山を椅子代わりに座っていた。
その足元には、フィイがいる。
フィイの懐から白い子狼が顔をのぞかせている。
「もう半分ぐらい、過ぎたんでしょうか?」
フィイがギルバートに尋ねた。
「そうだな。」
穏やかな笑みを浮かべてギルバートが答えた。
彼の眼は、遠くの河面に向けられている。
「お訊きしてよろしいですか?」
「ん?」
「お師匠さまは、旦那様のことを『団長』って、お呼びになりますが、なぜですか?」
「…フィイが来た頃は、私はもうこんなだったか。」
「は、はい。」
フィイがギルバートを見上げた。
「こうなる前の、ずっと昔の話だ。
父の… 先代の公爵は、騎士団を任されていた。
ランバート様の父君が王であられた頃だ。
父の死後、私が跡を継いで騎士団の団長になった。
ロシュはそのころの部下で、副団長を任せていたんだよ。」
「副団長!?
それは王国騎士団ですよね?
『右翼』、『左翼』、『王立』と『近衛』… 」
フィイが指を折る。
「他にも?」
「『銀翼』といった。
王直属の、王命でしか動かない騎士団。
団員は多くはなかったが、各自が、魔物を退治できるくらい強かった。」
「旦那様、すごい…」
ギルバートが少し、間をおいて、口を開いた。
「先代王とランバート様が対立した時、私はランバート様についた。」
「『銀翼』は王を裏切った…。
王国騎士団から追放され、ランバート様の私兵になったんだ。」
ギルバートがゆっくり続ける。
「それから、『一年戦争』を私兵団を率いて戦っていた。
私達は人同士の戦争だけでなく、魔物も相手にしたから、他の者たちより、多く戦った。」
「そして、思慮の足りない私のせいで、私は団員を何人も死なせた。
ロシュの傷もその時のものだ。
悪いことをしたと、思っている…」
「…。」
ギルバートが左の腕輪を握った。
「す、すみません!
嫌なことをお聞きしてしまいました!」
フィイが深く頭を下げた。
「謝ることはない。
話せるようになっただけ、私の中でも折り合いがついたようだ。」
ギルバートが小さくなったフィイの頭に触れた。
「ロシュが来てくれるとは思わなかった。」
「お師匠さまは、面白がっておいでだったんです。
ラナ様にすごく興味を持たれて。」
「…好みだったかな?」
フィイが少し考える。
「違う気がします…」
「私もそう思う。」
ギルバートが笑った気がした。
「ラナ様と薬材を運んでいましたが、途中で、ラナ様、ご商売をされて。」
「商売? 彼女が?」
「『少しならいいでしょ』って、香草とか売買されて、儲けがあったって。
おかげで、ロシュ様は毎晩、お酒を召し上がっておられました。」
ギルバートが笑みを浮かべた。
「そうだ、ラナ様、帳簿をつけておられました。ご覧になりますか?」
フィイが革鞄から帳面を出すとギルバートに渡した。
中を開いてみる。
丁寧な文字で受払いがきちんと書かれている。
「行儀が悪い」といったのを後悔した。
本当はちゃんとしていたのだ。
身上書にあったように十五になる前に、あんな姿になって、まだ子供だというのにどんな気持ちだったのだろう。
(私は、やっぱりダメだな。)
ギルバートは、帳面をフィイに返した。
フィイの懐から子狼が顔を出した。
『いやな、においがする。』
「え?」
「フィイ、それは?」
「…あの森の近くの村で見つけたんです。」
「狼の子供なんですけど、」
「白いな。」
「はい、」
フィイが子狼を懐から出した。白い子狼の尾は三本あった。
「お師匠さまは、魔獣だとおっしゃったんですけど、」
『くろいひと、きらい。』
子狼は、ギルバートにそっぽを向いた。
ギルバートが苦笑する。
「旦那様は良い方だよ。」
子狼は、フィイの手から甲板に飛び降りた。
宙を見上げ、背中を丸めた。
『へんなのがくる。』
フィイもギルバートも子狼の視線を追った。
穏やかだった空が暗くなってきた。
河面が波を打ち始める。
「旦那様…」
フィイが辺りを見回す。
子狼を抱えると懐に押し込む。
台船の甲板が上下左右に揺れ始めた。
ギルバートの腕輪がくるくるとまわった。
「水魔だというのか…」
揺れはひどくなり、足に力を入れないと立っていられなくなっていた。
ほかの乗客も騒めきだす。
台船に結わえ付けられていない荷が左右に動き出す。
船から落ちないようにと荷主が押さえつけている。
「なんだって、こんなに揺れるんだ!
いつもとちがうぞ!」
揺れる客の怒号が響く。
「フィイ、荷物のゆわえ綱に掴まっていなさい。」
「旦那様! ラナ様の水筒が!」
ラナの水筒がカタカタ震えていた。
『熔水剣』に姿を変える水筒。
これなら水魔と渡り合えるが、その主はいない。
(私には扱えないか…)
河の上流側がせりあがってきた。
水の塊から雫が落ちる。
「まずいな。」
雫をよけるため、深くフードをかぶりなおした。
揺れる台船の荷物の上に駆け上がる。
ダーナ河の水魔は、台船を軽く覆えるほど巨大な姿を現した。
まるで台船を飲み込むかのように頭を向けてきた。
ギルバートは左手を振って、黒剣を手にした。
右手を添えて、下弦から水魔を切り裂く。
水魔の身体は二つに裂かれるが、別の場所でまた一つに戻る。
「ちっ!」思わず舌打ちが出る。
再び、体をかわして、水魔を切り裂く。
その中に、ラナの言っていた『魔の塊』があるはずだ。
塊なら、黒剣でとどめを刺せる。
だが、なかなか塊は見つからない。
雨のように降り注ぐ水滴がマントの隙間から、ギルバートを濡らし始める。
火傷を負った時のような痛みが全身に走る。
「旦那様!」
フィイの身体が揺れに耐えきれず、甲板を滑った。
革鞄の中身がこぼれる。帳面に、小さな包み。そのまま、河へ消えた。
フィイは滑っていく水筒の紐を辛うじて掴んだ。
ギルバートが飛び降りて、フィイの身体を捕まえた。
マントのフードが肩に落ちて、黒髪から水が滴った。
首筋に激しい痛みがおこる。
痛みをこらえて、フィイを積み荷の隙間に押し込んだ。
「旦那様!」
「フィイ、水筒を!」
ギルバートはフィイの水筒を手に取るとラナがしたように宙に放り投げた。
水魔はその水筒を追うように半身を起こす。
水筒は、雫の中で剣に姿を変えた。
「!?」
瞬間、『熔水剣』の向こうに水色のラナの姿が見えた気がした。
ギルバートが手を伸ばし、『熔水剣』を掴もうとする。
が、『熔水剣』は彼の手をすり抜け、刃先でギルバートの手のひらを傷つけて、甲板に落ちた。
ギルバートの血も甲板に落ち、赤黒い血の玉が転がって河に沈んだ。
水魔は咆哮を上げ、彼の血の跡を追う。
「『勇者の血』か、」
ギルバートは、河の下流側の台船の手すりを掴むと、血の滴る手を河面に伸ばした。
一度、強く握り締め、緩める。
何滴もの血が河に落ちた。
水魔の起こす速い流れに乗って、血玉は下流に流れていく。
水魔はその血を追って台船から離れ、河の流れの中に消えていった。
再び、河の流れがゆったりと静かになった。
まるで何事もなかったかのように。
ただ、甲板にはずぶ濡れの積み荷とギルバート達が残っていた。
◇◇◇
ラナは自分に手を伸ばしているギルバートの姿を見た。
波打つ河が見える。
(ダーナが暴れている…?)
周りで雨が降っているようだ。
ギルバートが濡れている。
時折、苦痛に耐える顔をしている。
(なぜ、あの人が?)
(ひどく、濡れているわ。)
彼女を、手を伸ばしたギルバートが掴み損ねていた。
そして彼の手に血が見えた。
「ああ!」
ラナは思わず声が出た。
眼を開くとそこは薄暗い部屋だった。
天井近くに窓がある。
そこだけが明るい。
固い寝台の上に寝かされているらしい。
背中が硬い。
右半身が痛くて、いいのに動けない。
やっとで、頭だけ左右に動かしてみた。
(ここは…
あの人はどこ?
今、見えたのは夢?)
『姫様、まだ動かれてはいけません。』
その声は、泉の所で聞いた魔狼の声。
頭の中に響いてくる。
(私、泉に落ちたわ。肩を嚙み切られて。)
『お身体は戻っております。
ただ、動かすにはお時間が。』
(あなたは泉の魔狼?)
『姫に生きながらえさせていただきました。』
(気休めの程度だわ。)
『それでも。』
(ここは?)
『領都コルト。コルトレイの城です。』
(それって、あの人が来るところじゃない!)
(先に来ちゃったの!?)
ラナが笑った。
身体の右側は動かなかったが、左は動くようだ。
左手に力を入れて少し身体を動かした。
ゆっくりと起き上がった。
着ているものは、『みかわ糸』布の服だ。
彼女が望んだ動きやすい薄青の短いスカートのドレス。
柔らかなブーツも盗られずにある。
背中に手をやったが、剣はなかった。
『熔水剣』は噛みちぎられた右腕に残っているはずだ。
『姫様。』
「『姫様』じゃないわ。『ラナ』って名前。」
ラナは、傍らにいた魔狼に手を伸ばした。
その傷だらけの背に触れる。
「貴方の名前は? あの白い子狼は『おとうさん』って呼んでたけど。」
『名前はありませぬ。
我らはリル様を護る者。』
「あの子、リルというの。」
『北の山岳地帯より、逃れてまいりました。
かの地は、魔物により穢され、われらは故郷を追われたのです。』
『リル様は、北の神獣フェリルの最後の方です。』
「最後…」
『どうか、ダーナの姫様、リル様を北の国に戻れるようにお力添えを。』
「何言っているの、貴方もリルと一緒に行かなきゃダメじゃない。」
ラナは、両足を下ろした。
「名前がないと困るわね。貴方の名前は…」
しばらく考えて、言った。
「『アルフ』。
私のアルフレッド父様の呼び名。
アルフ父さんは、強くて優しいのよ。
貴方は似ているもの。」
『もったいないお名前を。』
「アルフ、ここから出ましょう。
あの人が困っているわ。
ずぶ濡れだったから、痛い思いをしているはずよ。」
ラナは立ち上がったが、右腕はぶら下がったままだった。
「さまにならないわね。」
右腕をさする様に撫でてみたが、感覚もよく戻っていない。
薄暗い部屋を見回した。
外に出られそうな扉は一つだけ。
あとは天井近くの窓だけで、そこに上る手立てはない。
ラナは、扉に手をかけた。
鍵はかけられていなかった。
「開くわ。不用心ね。」
ラナが部屋を出た。
左右へ長く続く廊下だ。
廊下にも灯りが少なく、暗い。
「さて、どちらに行くべきかしら。」
『見てまいります。』魔狼がそっと顔をあげた。
「どこへいこうというのだ!」
女の声がした。暗い廊下の片側から姿を現す。
「ほんに、落ち着きのない娘だ。」
「!」
灯りに照らされた女の姿をみて、息を飲む。
その姿は、彼女が飛び込んだダーナ河で見た女神ダーナ・アビスにそっくりだった。
ラナよりずっと濃い水色の床につくような長い髪、透き通る肌に切れ長の目。
細い胴に、たわわな胸元。
ラナを下僕にするといった口元は深紅に彩られている。
だが、その時とは何か違う。姿は同じだが、迫力が違う。
廊下が暗いせいか、それとも…?
女が手を伸ばした。
その手が水魔のように長く伸び、ラナの喉を押さえた。
「うっ!」
息ができない。
動けない分、かわせない。
左手だけでは、女の腕を離すことが出来ない。
『ラナ様!』
アルフがラナを押さえつけている腕に嚙みついた。
女は微動だにしない。
喉を締められているラナの意識が遠のく。
アルフは腕を嚙み切ろうとするが、逆に壁に叩きつけられた。
アルフの身体が闇の中に沈む。
ラナが気を失って床に落ちた。
「やっと見つけたダーナの器なのに、勝手なことをされると困るわ。
心臓を入れ替えて、私は貴女になるの。」
女の透き通った手がラナの頬を撫でた。
「貴女の身体は、私のものなのよ。」
女は、ラナの胸元に手のひらを押し付けた。
心臓を引きずり出そうと手を押し込む。
「なぜ!」
ラナの『みかわ糸』の服の胸元が硬い鋼の甲冑と化し、女の手の侵入を拒んだ。
「心臓をよこしなさい!」
ラナの服は、ますます硬化し、女を拒んだ。
「そこまでよ。
その『みかわ糸』は、彼女から離れない。
脱がそうとしたけど、ダメだったでしょ。
そこまで深く、主に仕えているのよ。
主自らが放棄しないと脱がせることはできないわ。」
廊下に長く伸びた影が女に言った。
「それに、その娘は『冥府の主』を呼び寄せる餌なのだから、傷をつけないで。」
「…。」
「憧れの『水色の娘』なのはわかるけど、もうしばらく、『青い娘』たちで我慢してちょうだい。」
◇◇◇
「旦那様、大丈夫ですか?」
フィイは、ギルバートの手のひらに包帯を巻きながら心配そうに見上げた。
台船は水魔をかわしてから、何とかコルトの渡し場まで着くことが出来た。
フィイは、ずぶ濡れで、弱ってしまったギルバートを宿屋で休ませていた。
この季節には早いが、暖炉に火を起こして、彼を乾かし、衣服も乾かしていた。
裸身に毛布を巻き付けたギルバートはしばらくの間、痛みの震えを止められずにいたが、夜も更けるこの時間になってやっと落ち着いてきた。
水を受けて負った火傷のような傷も回復してきた。
ただ、『熔水剣』によってついた手のひらの傷はまだ癒えていない。
フィイが包帯を巻いた手のひらには、もう血が滲んでいる。
それに包帯が白いままだ。
いつもなら、彼の身体にじかに触れたものは黒くなってしまうのに。
今の毛布も黒く染まっているのに、傷の所だけ、黒にならない。
それだけ、彼が消耗しているのかもしれない。
フィイは、乾いた『みかわ糸』の布をギルバートに渡した。
彼が衝立の影でそれをまとうと、いつもの黒の騎士服にかわる。
フィイは、主に背を向けて、着替えを待っている。
ギルバートの手がフィイの頭に触れた。
「心配させて済まない。」
フィイは笑顔を作ってギルバートに向き直った。
いつもの黒に身を包むギルバートが立っていた。
「フィイ、悪いが、薪をもらってきてくれるかな。」
「はい、旦那様。」
フィイが急いで部屋を出ていった。
「アマク、出てこれるか。」
床を見てギルバートが声をかけた。
「はい、旦那様。」
アマクは、ギルバートにできた影からその姿を現した。
「外に出る。道を開けてくれ。」
「はい。」
灰色のアマクが剣で床を二度叩くと、彼らの足元に黒い穴が開いた。
躊躇なく、ギルバートがその穴へ足を踏み込む。
身体がすぐに穴に消えた。アマクもそれに続く。
「旦那様!」
フィイが薪の束を抱えて部屋に戻ってきた時には、ギルバートの姿はなかった。
「…お出かけなら、そう言ってくださればよかったのに。」
フィイは、床に落ちていた黒く染まった毛布を拾い上げた。
◇◇◇
ギルバートの消耗は激しく、多少の魔物を得た程度では根本的な解決にはならなかった。
「もう少し、大物を狩りに参りましょうか。」
「いや、今は遠くには行けない。」
白い肌がもっと血の気のないものになっている。
町はずれの森の中は小型の魔物しかいなかったのだ。
ギルバートは顔を上げた。
二つ月が天上にあり、月光がコルトレイ城を照らしていた。
「旦那様、」
アマクが警戒した声で彼を呼んだ。
背後の森の暗い所から、何かがはい出してきた。
『冥主様、』
泉でギルバートに殺してほしいといった赤目の魔狼だった。
魔狼は、ギルバートの前に頭を垂れた。
「お前は…」
『どうぞ、この身をお使いください。』
「どうして、ここに?」
『ダーナの姫君があの城に。
泉に落ちた姫様と共におりました。』
「ラナと…」
『水魔が姫君を、魔物が冥主様を、欲しております。』
「どこの瑣末な魔物だ。」
アマクが珍しく口をはさんだ。
「旦那様を欲するなぞ。」
ギルバートは、魔狼に近づいた。
『姫はお怪我を、動けずに囚われています。』
「知らせに来てくれたのか。」
『おそらく、冥主様をおびき寄せるために私を来させたのでしょう。』
『罠でございます。』
「わかっていても、行かないと。」
『この身を糧にしてくださいませ。冥主様のお力になれます。』
「まだ、大丈夫だ。」
ギルバートは、魔狼の肩に手を置いた。
「その身は、預けておく。」
「アマク、行けるか?」ギルバートがアマクに声をかけた。
アマクが、地面に潜って消えた。
『冥主様、申し訳ございません。姫様をお守りできませんでした。』
「生きているなら、良い。」
「ロシュが、これぐらいで死ぬような娘ではないと言っていた。」
ギルバートが微笑んで言った。
「私もそう思う。」
ギルバートがコルトレイ城を見上げた。
「行こう。」
魔狼も頭を上げた。